ijichimanのぼやき
「ijichimanのぼやき」に関する記事
連載エッセイ|#ijichimanのぼやき「座敷で胡坐・立膝で酒を酌み交わす。庶民の文化を粋に嗜む」
「座敷」で食べるのが好きである。それも「小上がり」ではなく、広間的な座敷で他のお客さん含めてみんなで畳に座して食べるのがこよなく好きだ。「履物を脱いで床に座す」というのは、古来から続く日本ならではの文化。最近は見かけなくなったが、子どもの頃はどの家も畳と襖の和室があった。フローリングにソファがあってローテーブルが置かれて整然とされたダイニングも悪くはないけど、やっぱりイ草や和紙の独特の匂いは心地いい。
連載エッセイ|#ijichimanのぼやき「-美味しいのは大前提、大事なのは“間”と“距離感”- ひとりで行きたくなるお店」
外食が好きな人でもひとりだと外食できないという人がいる。聞けば、牛丼屋や立ち食い蕎麦などファストフードでやっと行けるかどうか、ラーメン屋もパスタ屋も入れないと言う。でも、美味しいものは好きなのに、である。勝手な推察だけど、美味しいものは好き、知らない店を掘るのも好き、でも、誰かと喋ったり、みんなでお酒を飲むのもセットで好きなわけで、美味しいものを食べたいがためだけにひとりでお店を掘って食べに行くという感じではないのだろう。
連載エッセイ|#ijichimanのぼやき「相対的価値と絶対的価値 -絶対的価値が高い店-」
昨今価値観が多様化しているという。確かに2000年初期くらいまでは、マイホームにマイカーがあってサザエさんのような家族を築くこと=幸せな形というのが汎用的価値観だった。デートに“わナンバー”で迎えに行こうもんならダサかった。それが2020年以降の今、気づいたらそれは一般論では通用しない価値観になっていた。物質的なものに価値を見出す人が少なくなったからお金=幸せではなくなって、人それぞれの価値観が形成されるようになった。幸せをお金で解決できるなら相対的にお金を持っているかどうかが価値観になるがそうではなくなった。メディアが祭り上げたロールモデルも親に決められたレールも正解ではなく、自分で見つけて決めたことだけが唯一無二の正解とされるようになった。
連載エッセイ|#ijichimanのぼやき「味わい深い魅力があふれる、現金払いだけのこだわりを貫く昔ながらの飲み屋」
なんでもかんでも便利になった世の中だからこそ、不便なことに逆に魅力を感じることもある。Z世代の間で昭和レトロや平成レトロがトレンドになっているのも、それがひとつの理由だろう。スマホでいくらでも撮れて、気に入らなければ撮り直しできる写真も、あえてインスタントカメラを使って撮る。撮った写真はその場で確認できないし、加工もできなければ、焼いてみたらブレていることも目をつぶっていることもある。けど、やり直しができない一瞬だけを切り取ったその一枚に言葉にできない何とも言えない魅力があるのだろうと思う。
連載エッセイ|#ijichimanのぼやき「味わい深いジビエを楽しむ冬」
ジビエは言うまでもなく、自然に生きる天然の野生鳥獣をいただく食文化。日本ではイノシシを使ったぼたん鍋が有名だが、起源はフランスをはじめとしたヨーロッパ。もともとは狩猟ができる自分の領地を有する貴族の伝統的な食文化だったとのことである。
連載エッセイ|#ijichimanのぼやき「煙草と酒と美味いメシ」
筒井康隆の「最後の喫煙者」という短編小説をご存じだろうか。“健康ファシズム”が暴走・拡大し、煙草屋は村八分に、喫煙者は差別・脅迫・私刑され、メディアや警察や自衛隊までもが喫煙者を排斥しようと国家的に弾圧し、世の中が魔女狩りのごとくヒステリックになっていく様を、地球最後の喫煙者となる主人公の視点で描いた作品。1995年には人気TV番組「世にも奇妙な物語」でもドラマ化されているが、発表されたのは今から35年以上も前、1987年。
連載エッセイ|#ijichimanのぼやき「喫茶店の朝食」
朝食はむずかしい。「朝食食べる人?」という会話はあっても「昨日夜ごはん食べた?」「いつも昼食べる?」という会話は聞かない。朝食も含めて1日3食しっかり食べるべきという人もいれば、朝食は食べずに胃を休めるべきという人もいる。何が正解かわからなくて、人それぞれ体のつくりもマインドも違うので、「好きにすればいいんじゃないか」というのが正解だと思うけど、ひとつ言えるのは、朝ゆっくりと時間を取って食べる朝食は美味いということ。
連載エッセイ|#ijichimanのぼやき「歴史的建築でいただく食事」
数年前、手ごろな価格で美味しいと人気でどこの店舗も行列を作って話題になっている飲食チェーンがあった。一回行ってみようと足を運んだ友人が、「確かに値段の割には“美味しい”んですけど、お皿はプラスチックでチープだし、隣が近くて落ち着かないし、机も小さいのにどんどん料理は運ばれてくるし、あんまり“美味しくなかった”ですね。やっぱり食事って“味”だけじゃないですよね」と言っていた。また、飲食業界で活躍されているある重鎮の方とお話した際も「食事(外食)は人と会う場。食事そのものはもちろんだけど、何を着ていくかから始まって“場を楽しむ”ことを大切にしている」と言っていた。
連載エッセイ|#ijichimanのぼやき「呑んだ後のラーメン」
なぜ日本人はこれほどまでにラーメンが好きなのか。これだけ物価上昇が叫ばれても、ラーメンだけはいまだ1,000円以内。時間がない昼にさっと食べるのも、ランチタイムが終わった14:00以降に開いている店も、仕事を終えてひとりでぱっと食べて帰るのも、ラーメンならどの駅にも必ず3,4店舗はあるし、日常食としてこれほど強い味方はない。けれどラーメンがそのポテンシャルを一番発揮するのは、なんといっても呑んだ後の〆だろう。
連載エッセイ|#ijichimanのぼやき「健康的な昼メシ」
歳を重ねると、意識的であれ無意識的であれ、食に対する嗜好(志向)が変わってくる。若い頃はカルビon the ライスが最強だったが、いつの間にか寿司や焼き鳥に。飲んだ後のラーメンが蕎麦、または麺抜きのラーメンに(なんじゃそりゃ)。同じく昼メシも大盛ラーメン+半チャン+餃子が、焼き魚定食になる。健康診断の数値が気になり、肥満、高血圧、糖尿病・・・ありとあらゆる生活習慣病を恐れて意識的に我慢や忍耐をして変えてる人もいるが、欲求として本能的にヘルシーなものを求めてくるようにもなってくる。
連載エッセイ|#ijichimanのぼやき「町寿司」
昔目黒駅前のメグロードに寿司芳という寿司屋があった。お任せコースは3,500円から高くても9,000円くらいというちょうどいい塩梅。レビューサイトで特別な高評価とかではないし、際立って有名な何かがあるというわけではないけど、いつ行ってもうまくて、子ども連れでもカウンターに座らせてくれる粋な大将だった。そんなある日、このわたをお願いしたら、「朝さばいだばかりの新鮮なものと何日か熟成させたもの2種類あるから食べ比べてみな」「どっちがいいも悪いもないんだけど、どのくらいが自分の好みに合うか色々試してみたんだよ。どっちが好き?」と言う。そういうちょっとしたこだわりが好きだった。ただ残念なことにコロナ禍に閉められて以降、開店してるのは見ていない。
連載エッセイ|#ijichimanのぼやき「忘年会の鍋」
忘年会のシーズンになってきた。普段は週1,2回にしている会食も、11月に入ってから3,4回と増えている。コロナが猛威を奮っていたここ2年は、業界や企業によっては忘年会を自粛あるいは規制している向きもあった。今年はどうだろうか。そもそもコロナ関係なく忘年会自体が若人たちには敬遠されがちなんて話も聞く。昔はどうだったとか武勇伝を聞かされ、若いんだから食えや飲めやと強制されて、あげくの果てに会費が自腹なんて始末だったら、誰がどう考えたって参加したくない。と、まあそれは会社や個々人の裁量や器量の問題であって、その辺解決ができるなら忘年会は多いにやった方がいい。
連載エッセイ|#ijichimanのぼやき「昼飲み」
ある日、神保町で昼メシを食べようと思って「新世界菜館」に入った。味も良くて量もしっかりあって、席もゆったりしていて価格も手ごろなので、神保町に用事がある時の昼メシはたいがいここにしている。僕はいつもと同じようになんらかの麺類を頼んだのだけど、ふと前を見たら、ひとりの白髪の老年の男性がいた。シャツにジャケットを羽織った小ぎれいな男性だった。よく見たら彼は、紹興酒を飲みながら上海蟹を食べていた。それを見た時に、自分の理想の老後はこれじゃないかと思った。
連載エッセイ|#ijichimanのぼやき「河豚」
夏が終わって、あっという間に秋になり、そしてすぐに冬が来る。日本は春夏秋冬が明確で、気候だけではなく、咲く花や木々の色、収穫できる食材で四季の移ろいを感じることができる。食べて、飲んで、香って、見て、愛でて、季節の移ろいを愛しむのが日本の文化だ。
連載エッセイ|#ijichimanのぼやき「ビストロ」
「“ビストロ”ってなに?」って若い頃思ってた。テレビ番組の企画「ビストロSMAP」のお陰で言葉にはなじみがなかったわけじゃないけど、レストランでもないし、カフェでもない。街中に該当する店がそんなに昔はなかったからどんな店なのか頭でイメージがしにくい。けど、なんだかこじゃれたジャンルの店だということだけはわかる。だからかわからないけど、ごはんに行くときに、「じゃあ、“ビストロ”にしようか?」なんて言われたら気取ってていけ好かないヤツだと思ってた。