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2025年6月18日
『山姥』に見る、“妄執”に囚われ続ける凄まじさ
歌人・馬場あき子さん×能楽シテ方喜多流・友枝真也さん 特別対談 第1回
日本の伝統芸能のひとつである「能」は難解だと捉えられがちだが、実はその難解なところにこそ魅力が潜んでいるという。能を通して様々な気づきが得られるのではないかという思いから、『もう一度楽しむ能』(淡交社)の著者である喜多流シテ方能楽師・友枝真也さんと、自身も喜多流を修める歌人・馬場あき子さんに対談をお願いした。その内容を3回に分けてお届けする。第1回目のテーマは、山に住む鬼女“山姥”が山廻りするという言い伝えを主題にした世阿弥の傑作『山姥』。
Text by AMARI Mio Photographs by TAKAYANAGI Ken
友枝:令和7年7月20日、第十二回洩花之能(えいかののう)を開催し、『山姥』でシテ(=主役)を務めます。私にとっては再演になりますが、あらためて役を掴む苦しさを味わっているところです(苦笑)。
馬場:私にはよくわかるわ。私自身が山姥ですから(笑)。
友枝:そもそも、山姥とは一体何者なのでしょう。これを明らかにするのは鑑賞のよろこびを奪うことに等しいのかもしれませんが。
馬場:前段で山姥(シテ)が「よし鬼なりとも人なりとも 山に住む女ならば」と謡いますよね。現代語に意訳すると、「鬼であろうと、人であろうと、そんなことはどうでもいい。私は山姥なのだ」となります。この強い自己主張こそが、『山姥』という演目の肝ではないかしら。
山姥の山廻りの曲舞で人気を博す都の遊女・百魔山姥(ツレ)のお供(ワキ)が、「真の山姥とは何か知っていますか」と聞かれて「山に住む鬼女と曲舞にはあります」と答えたり、「山廻りで妄執を晴らす」というくだりがあったりするので、山姥が何者なのかがわかりづらくなるのかもしれませんが、むしろここに山姥を理解する手がかりがあるように思います。
例えば、民俗学の一説によると、山姥は山の神の“抱き守”。つまり、神には自分に奉仕してくれる巫女が必要ですが、その巫女が歳を重ねて婚期を逃し、ついにはお婆さんになってしまう。その成れの果てが山姥だということね。山で育った山姥は、姿は醜いものの体が丈夫なので、時には山の中で歩荷のように旅人の荷物を運んでやったり、竹で籠を作って売ったりして、やっとのことで生計を立てていた。といっても、このままでは民話にはなっても、お能にはならない。そこで、世阿弥は「山姥とは一体何者なのか」という疑問を仏教哲学に従って作品化したというわけ。
この『山姥』には禅の影響が強いですね、“善悪不二”“邪正一如”という思想があります。要するに、前世で悪行を重ねたゆえに今生は霊鬼になったことを恨むのも、前世で善行を重ねたゆえに今生は天人になったことを悦ぶのも、悟った立場から見れば区別はなく、単なる現象に過ぎない。にもかかわらず、『山姥』では山姥がどんと君臨し、「私を見なさい」と言う。ここが実に魅力的。
なぜ、山姥はそれほどまでに堂々としていられるのか。山の霊気と心を通わせた山姥にとっては人間なんて問題じゃなくて、だから、ときどき山のくらしのなかで人間に奉公するのもどうってことないのよ。“山姥が山廻りをする”というのは、悪人も、貧乏人も、驕り高ぶった公家も、大金持ちも、色々見てきたということの例えであって、どんな人間にも死は平等に訪れる、結局は無に還るという哲学を山姥は身に付けていたのではないかしら。でも、そんなことは『山姥』には書かれていないから、理解が難しい。
友枝:稽古をしていると、「妄執」という言葉に三度ぶつかります。一度目は「謡ひ給ひてさりとては 我妄執を晴らし給へ」。つまり、あなたが芸を見せることによって私の妄執が晴れる、と。
馬場:その直前にこんなことも言いますよ。「今日しもここに来る事は 我名の徳を聞かん為なり」。自分の人生において山姥と言われながら生きてきた徳とは何だ、と。私は、この「我名の徳を聞かん為なり」って台詞にも惹かれます。山姥は自分がどれほど優れた存在であるか聞こうとするんだけど、“百魔山姥”という異名を取った遊女は答えられず黙っている。山姥としては恨めしいことよね。自分の人徳を誰も指摘してくれない、自分を誰も褒めてくれないんだから。この認められないという心理こそが妄執。
友枝:なるほど。だから終盤で「都に帰りて 世語にせさせ給へと 思ふは猶も妄執か」となるわけですね。
馬場:そう。自分に徳があることを、もしも遊女が認め、曲舞で謡ってくれれば自分の妄執は晴れるんだけど、そうはならずに「山廻りをすると聞いています」なんてあっさりとした一言で片付けられてしまうから、いよいよ妄執が深くなる。この問答は奥が深いですよ。
この世のあらゆる現象は「邪正一如」
友枝:地謡の最後の詞に「廻り廻りて 輪廻を離れぬ妄執の雲の 塵つもつて山姥となれる」と続きます。これはどういうことだと思いますか。
馬場:室町時代になると、身分制度が確立されたわね。つまり、差別があったの。差別される者というのは徳が高くても、評価をしてはもらえない。竹籠を作って売って、ちょっとばかりの餅や米をもらうだけ。ただし、山の中で暮らし、木の根や猪の肉を食べていたから、力はある。それで、歩荷などの力仕事もした。そういう星のもとに生まれてしまった者たちの怒りや哀しみが『山姥』に込められていると、私は思う。仕舞の部分の「金輪際に及べり」は、まさしくそういうことじゃないかしら。
友枝:「法性峰そびえては 上求菩提をあらはし 無明谷深きよそほひは 下化衆生を表して 金輪際に及べり」のところですね。
馬場:舞うのもしんどいんじゃない?
友枝:そうですね。
馬場:まさに人生の深み。この世にはいろんな人間がいるということ。つまり、山姥もいれば、遊女の百魔山姥もいる。鳥や獣を狩猟して売る者、すなわち仏が戒めた殺生という最大の罪を犯すことで暮らしを立てる者もいる。彼らが殺生するのは身分の高い者を支えるためなのに、殺生をした者が罪になり、食べる者は罪にはならない。
友枝:だから、邪正一如。
馬場:その通り。『山姥』は奥が深い作品よ。世阿弥はオブラートに包んで上手く描いたと思います。
友枝:能楽師である僕らは『山姥』を芸から捉えます。最初は仕舞を覚え、ある程度の経験を積むと、ツレを務める。
馬場:『山姥』のツレは体に負担がかかって大変。ずっと座ったまま動けないんだから。
友枝:『山姥』は芸尽くしだから、シテも必死。ついつい芸に集中してしまいがちですが、言うまでもなく詞も大切にしなくてはいけません。僕が興味を持っているのは、「道を極め名を立てて 世情万徳の妙花を開くこと 此一曲の故ならずや」。
馬場:「万徳の妙花を開く」に世阿弥自身の並々ならぬ思いが表れている感じがします。ほら、世阿弥は父の観阿弥と共に足利義満の寵愛を受けて大和猿楽を大きく発展させたじゃないですか。立場があるから言えないこともいっぱいあっただろうけれど、山姥の哀しみを自分が生きているうちにどうにか伝えようとして、大自然を持ち出しながらついにやり遂げた。これだったら許されると考えて。
観世流では後場の次第の後に中之舞が挿入される「雪月花之舞」という演出があって、舞の導入部で「吉野龍田の花紅葉 さらしな越路の月雪」と謳うんだけど、これも単に風流な自然を表したのではなく、山姥の現実を逆説的に伝えようとするものではないかしら。
友枝:興味深い見方です。
馬場:真也先生には能を演じるひととしての観点があり、能を見るひとにはまた別の観点がある。違うから面白いわよね。
ちなみに、能を見るひとたちは例えばこんなことを聞いてきますよ。「際限のない山を廻るってどういうことですか?」って。
友枝:馬場さんはなんと答えるんですか?
馬場:人間というものには最期まで妄執がある。妄執を捨てられないのが人間なのよと答えて、笑われる。でも、実際そうじゃない? 妄執があるから人間なのであって、妄執がなくなったら人間じゃない。
友枝:人間の弱さを認めようとする姿勢が世阿弥にはあるような気がします。
あと、僕にとっては後シテの「寒林に骨を打つ」ってところが印象的で。漢文調のせいか、耳に残ります。
馬場:仰々しい感じがするわよね。すべてを知る存在である山姥を世阿弥が格上げしているのよ。
友枝:馬場さんは今日まで色んな『山姥』をご覧になってきたんでしょうね。
馬場:喜多流の『山姥』は好きよ。骨があって。
友枝:特にどのあたりがお気に召されますか?
馬場:山姥が杖を突いて異形の姿を表す頭越(カシラコシ)の一声(※)について、先代の十四世喜多六平太が注文を付けましたね。強くなければ出られない。『忠度』とは違うんだぞ、って。頭越が知られるようになってから、あの場面に注目するひとが増えているみたい。
(※)一声とは登場楽の一つ。登場楽とは能楽で登場人物(シテやワキ等)が登場する際に演奏される囃子事。一声は現世の人間、幽霊、また山姥などの様々なキャラクターに使われ、乗り物に乗って現れたり、忽然と姿を現したりする様を表現している。頭越(カシラコシ)とは一声において通常は中程にくる『越(コシ)』という手組みを敢えて冒頭に演奏するやり方。『越』を打たない一声もある。
友枝:第十二回洩花之能では鬘でやろうと思っています。鬘にした方が、面が引き立ちますから。今回はいい面をお目にかけられると思います。
馬場:楽しみ。ところで、『山姥』は五番立に従って分類すると、五番目物に演じるべき鬼物に分類されるのかしら?
友枝:五番目物とされる流儀もあるようですが、喜多流では四番目物です。
馬場:五番目物としていないのは、曲の最後の部分が関わってそう。要するに、煩悩の山を廻って果たして山姥はどうなったのか。煩悩を離れたのか。離れなかったのか。わからない。だから、四番目物。山姥の面は鬼のようだけど、鬼そのものとはだいぶ違うしね。
友枝:あと『山姥』について申し上げると、『山姥』と『伯母捨』の間には何らかの関係性が潜んでいるような気がしています。
馬場:まったくその通りだと私も思います。両者は近しい。
友枝:これについては深掘りできそうですが、長くなってきたのでひとまずここまでにしておきましょうか。
馬場あき子(ばばあきこ)
歌人。文芸評論家。1928年生まれ。東京都出身。日本女子専門学校(現・昭和女子大学)国文科卒業後、歌誌『まひる野』に入会し、窪田章一郎に師事。1972年、夫・岩田正とともに短歌結社誌『かりん』を創刊。朝日新聞の歌壇選者を務める。2025年3月末、47年続けてきた朝日歌壇の選者を退任。日本芸術院会員。文化功労者。能への造詣も深く、1947年に喜多流十五世宗家喜多実に入門。新作能を手がけ、能楽の評論活動も行う。歌集のほか、和歌・能楽・民俗学・古典関係の著作多数。
歌人。文芸評論家。1928年生まれ。東京都出身。日本女子専門学校(現・昭和女子大学)国文科卒業後、歌誌『まひる野』に入会し、窪田章一郎に師事。1972年、夫・岩田正とともに短歌結社誌『かりん』を創刊。朝日新聞の歌壇選者を務める。2025年3月末、47年続けてきた朝日歌壇の選者を退任。日本芸術院会員。文化功労者。能への造詣も深く、1947年に喜多流十五世宗家喜多実に入門。新作能を手がけ、能楽の評論活動も行う。歌集のほか、和歌・能楽・民俗学・古典関係の著作多数。
友枝真也(ともえだしんや)
能楽シテ方喜多流職分。能楽協会会員。重要無形文化財総合指定。1969年生まれ。東京都出身。喜多流職分 故 友枝喜久夫の孫。3歳の時、仕舞『月宮殿』にて初舞台。能楽シテ方喜多流15世宗家 故 喜多実師に入門。喜多流宗家内弟子を経て、現在は伯父の友枝昭世に師事。2004年『猩々乱』、2008年『道成寺』、2011年『石橋(赤獅子)』を披く。「燦ノ会」同人。「洩花之能」主宰。2025年7月20日(日)喜多能楽堂にて第12回洩花之能『山姥』を公演予定。
https://tomoeda-kai.com/schedule-noh/6305/
能楽シテ方喜多流職分。能楽協会会員。重要無形文化財総合指定。1969年生まれ。東京都出身。喜多流職分 故 友枝喜久夫の孫。3歳の時、仕舞『月宮殿』にて初舞台。能楽シテ方喜多流15世宗家 故 喜多実師に入門。喜多流宗家内弟子を経て、現在は伯父の友枝昭世に師事。2004年『猩々乱』、2008年『道成寺』、2011年『石橋(赤獅子)』を披く。「燦ノ会」同人。「洩花之能」主宰。2025年7月20日(日)喜多能楽堂にて第12回洩花之能『山姥』を公演予定。
https://tomoeda-kai.com/schedule-noh/6305/
※2025年6月上旬時点で、上記『山姥』の公演チケットは残り僅少となっておりますのでご承知おきください。