la vie en photographie
「la vie en photographie」に関する記事
パリから発信いたします
photoby Sid KAPLAN( NY / USA)デジタルカメラの普及により、写真というものがすごく身近なものになった。写真の知識がなくてもシャッターを押せば普通に奇麗な写真が誰でも撮れる。私が写真というものに興味を抱き始めたのは、デジタルカメラがこの世に出てくるかなり以前のことである。ジャンルは問わずいわゆる写真機といわれるもので撮られた全ての写真に興味を抱いた。自分自身その写真機というものを使ってしばしば撮影することがあるが、大概は“記録写真”になる場合が多い。それはそれで写真としての意味を持つことになるので自分なりに満足することもある。写真家が撮る作品のようなものを撮ろうとがんばる時もあるが、結局“記録写真”になってしまう。写真はコミュニケーションだ!とある写真家は言う。写真家の生き方や思考、そしてレンズの先にある被写体に対する尊敬の気持ちがなくては良い写真は撮れないと言う。その良い写真とは何なのか? 良い写真を撮るためには何が必要とされるのか?写真が身近なものになり...
カラー写真への遙かなる道 第1回
<Fred JOURDA>について© Fred JOURDAカラー写真で失っている“何か”写真には“カラー”と“モノクローム”というものが存在することは、ほとんどの人が知っていると思う。存在は知っているが具体的に何がどうなのか?どのようにしたら色が出たり黒くなったりするのか?もっと細かく分類化すると、フィルムの感度、引き伸ばし技術、印画紙の性質、それに最近ではデジタル印刷が参入してきたことで、ネガフィルムなどがなくても簡単にプリントが出来たりする。と理論的な難しい話になったりもする。知ろうと思えばインターネットなどで検索すれば、素人でもかなりの情報は得ることが出来るが、知らなくても特に生活に支障が起こるわけでもない。© Fred JOURDA撮影を終えたフィルムやデータを写真屋にもって行くと、店の奥にある大きな機械から写真らしきものが出て来るので、写真のプリントは機械でするものと普通に思ったりする人もいる。フランス人Chares Cros氏によってカラー写真の歴史がスタートしたのが...
カラー写真への遙かなる道 第2回
<Fred JOURDA>との対談© Fred JOURDA写真人生対談Fred JOURDA/フレッド・ジョルダ×飯塚ヒデミHidemi:ありきたりの質問だけど、写真に触れるようになったきっかけは?Fred:7歳の頃、父親からKODAK 224というカメラをもらってからかな? このカメラはシャッタースピードは一定で、被写体によって絞りを変えられるようになっているんだけど、絞りは2.8とか16とかという数字のものではなく、風景や人物、太陽や雲が絵で示されているものだから、子供でも簡単に撮れるカメラなんだよ。H:君が今も使っているあのカメラでしょ!KODAK 224© Fred JOURDA簡単なカメラだから結果が悪とは限らないF:そうそう、その後いろいろな種類のカメラを買って撮ってみたけど、僕が撮りたい写真にはこれで十分なんだ。僕はプリント技師だから写真を撮るとき、それがどんな感じで撮られているかが大体わかる。僕の被写体は自然が多いので、移動中の車の中から撮った真っ赤な夕日だったり...
カラー写真への遙かなる道 第3回
<Fred JOURDA>との対談-2© Fred JOURDAHidemi:君の最初の個展はいつ?Fred:1996年から風景を中心に写真を撮り始めて、1998年に南アフリカ共和国のケープタウンが最初の個展です。2000年にパリのモンパルナスにあった写真ギャラリー213、2001年にはアフリカ・マリ共和国のバマコ、2003年オランダのブレダ、2004年にはパリのギャラリーACTE2、そして今年11月に小さな個展を東京で初めてやることが出来た。15点程度の作品しか展示ができなかったけれど結果はとても良かった。自分の作品を気にしてくれる人が一人でも増えたということを幸せに思わないとね!© Fred JOURDAH:君が7歳の頃、父親からKODAK224というカメラをもらったのが写真に触れるきっかけになったと言っていたけど、君の父親も写真に携わる職業だったよね!F:実は僕の父もPICTOのカラープリント技師として1960年から43年間PICTOの創立者ピエール・ガスマン氏と一緒にラボを...
I WANNA BE A PHOTOGRAPHER 第1回
Bernard MATUSSIEREベルナール・マチュシエール 写真家text by IIZUKA Hidemi© Bernard MATUSSIEREパリジャンとしての思想パリジャンとはフランスはパリにて生まれた人達、またはパリで生活をしている人達をさす言葉だが、写真家ベルナール・マチュシエール氏はセーヌ川のサン・ルイ島で生まれ育ち、毎日セーヌ川を渡り、ノートルダム寺院を眺めながら学校に通っていた生粋のパリジャンである。彼の父親はホテル・レストランガイドブック『MICHELIN』の調査員、母親はファッション雑誌『ELLE』の編集部員であった。日本で『ELLE』が創刊された当時のアートダイレクションを担当したのもベルナール氏の母親である。この様な家庭や生活環境の中で生まれ育ったベルナール氏が、写真家となるいきさつや写真に対する思いや考え、そして生粋のパリジャンとしての思想を彼の作品を紹介しながら話していきたいと思う。幼い頃の話はベルナール氏の自伝書が何時か出版される時にでも読んで頂...
I WANNA BE A PHOTOGRAPHER 第2回
Bernard MATUSSIEREベルナール・マチュシエール 写真家text by IIZUKA Hidemi© Bernard MATUSSIERE2冊の写真集数ヶ月後、その日本人画家がスタジオを訪れた。画家の手には撮影のための絵画ではなく、画家が手にしていたのは2冊の写真集だった。画家からその2冊の写真集を見せられたベルナール氏だが、タイトルや写真家の名前が日本語で書かれてあったので、もちろん誰の作品集なのか知ることが出来なかったが、その前になぜその日本人画家が2冊の写真集を持ってきたのかを理解するまでに数分かかった。その後大きな不安とプレッシャーがベルナール氏を襲うことになった。「この2人の写真家とは話はつけてある。好きなほうを選べ!」日本人画家からそう言われたベルナール氏は、どのくらいの時間をかけたのか覚えていないほど、その2冊の写真集を最初から最後まで何度も何度ページをめくった。ページをめくる間、写真家や写真の内容、どちらの写真家が自分にあっているかを考えようとしたが、...
ダイアン・アーバスに学ぶ(1)
Diane ARBUS (1)“生ることを学ぶ!”「心を打つ」 と言う言葉を辞書で引くと 「深い感銘」 だそうだ。つまり忘れられない程深く心に刻みつくことである。text by IIZUKA Hidemi以下、写真集 DIANE ARBUS 『REVERATIONS』 (San Francisco Museum of Modern Art/発行元:Randon Hous, New York, NY 2003)よりロンドンの VICTORIA & ALBERT MUSEUM で行われた女流写真家 DIANE ARBUS REVERATIONS展 でそのような感情を得たことがある。Diane ARBUS は1923年、NYの裕福なユダヤの中流家庭に生まれ、18歳で Allen ARBUS と結婚。写真家である夫の手伝いをすることで写真に触れるようになる。1955年には Alexey BRODOVITCH (Harper’s Bazaarのアートディレクター)から写真を習い、1...
ダイアン・アーバスに学ぶ(2)
Diane ARBUS (2)“生ることを学ぶ!”text by IIZUKA Hidemi以下すべて、写真集 DIANE ARBUS 『REVERATIONS』 (San Francisco Museum of Modern Art/発行元:Randon Hous, New York, NY 2003)より写真集 DIANE ARBUS 『REVERATIONS』(San Francisco Museum of Modern Art / 発行元:Randon Hous, New York, NY 2003)は、1999年、San Francisco Museum of Modern Art で行われた展覧会「DIANE ARBUS REVERATIONS展」を記念して作られた作品集で、 Diane ARBUS が他界する1971年までの作品と、 Diane ARBUS が知人たちに送った手紙や日記なども掲載されている。その他、この展覧会のキューレーター Sandra S. PHI...
MOURN FOR MR.MAX ROACH マックス ローチの美しい人生
MOURN FOR MR.MAX ROACH2007年8月15日、マックス ローチがこの世をあとにした。ジャズファンであれば誰でも知ってるジャズのドラム演奏者である。チャーリー パーカー、バド パウエル、ソニー ローリンズ、マイルス デイビスなどと活動をともにし、1962年のデューク エリントンのアルバム『マネージャングル』にも全面参加している。マックス ローチを知らない人でも、彼の演奏をどこかで耳にしたことがあると思う。アメリカの50、60年代に行われた、有色人種がアメリカ合衆国市民としての平等な地位を獲得することを目的とした活動“公民権運動”にも積極的に参加した人物である。彼が他界した日から彼の演奏を自宅や仕事場で毎日聞いているのは私だけではないと思うが、そのマックス ローチファンの人たちに私が所有する写真コレクションのなかにあるマックス ローチのポートレート写真をお見せしたい。アメリカ人写真家Toby OLDの撮影によるもので、ポートレート写真としてもとても評価高い作品である...
ありふれた景色/立木義浩写真展 開催
ありふれた景色/立木義浩写真展立木義浩氏からの特別寄稿を添えて私はよくギャラリーの店番をすることがある。人手が足りないというのもあるが、ギャラリーに訪れる人たちとのコミュニケーションをとるためでもある。たくさんの人たちが写真を見にギャラリーを訪れる。近所の住民や子連れの人たち、偶然通りがかった人たち、旅行者、学生、写真に興味がある人たちやない人たち、写真関係者、自転車や自動車で通りがかりにショーウインドウ越しに写真を見る人やサンドイッチを食べながらのぞき込む人たちもいる。本当に多々なる人たちがいろいろな方法にて写真に触れている。機会があればその人たちと何らかの会話をすることもあるが、その人たちをただ見ているだけのときもある。私にとってのいつもの出来事である。(飯塚ヒデミ)長い間、たくさんの旅をして、写真を撮ってきた。私は旅先に逗留し、その国で稼いだことがない旅人である。その土地で働いて稼がなければ、その国の人情はわからないとも思うが、通り過ぎながら見えるものもある。目的地に向かう途...
立木義浩写真展「時代のおとこ」開催
時代のおとこ――立木義浩氏が、いままで撮ってきた時代のおとこのポートレート写真展開催新年あけましておめでとうございます。2008年最初の“写真人生”になります。昨年、立木義浩写真展「ありふれた景色」のお知らせをしましたが、多くの方々からあたたかいお言葉をいただき誠にありがとうございました。年のはじめ、時のはじまり、新たな時代のはじまりということで、立木義浩写真展「時代のおとこ」のご紹介です。(2008年1月16日~1月25日までコニカミノルタプラザ ギャラリーB・Cにて開催)“時代のおとこによる時代のおとこ”時代のおとことは、その時代に輝き、世に何かを伝え、何かをつくりあげ、何かを残したおとこのことだと思う。それに加えて私が思う時代のおとことは、流れる“時”を確認しながら自分の“時”を認識したおとこ、自分やものが存在する理由や存在させる理由を理解したおとこ、感じたことや考えたこと、悩んだことや気にしたことを“偶然”と思わず“必然”と思うおとこではないかと思う。そんなおとこたちを撮影...
写真人生|3人展―Soul Brothers―立木義浩、エミール・ミュレール、ベルナール・マチュシエール
エミール・ミュレール|ベルナール・マチュシエール|立木義浩Emile MULLER|Bernard MATUSSIERE|Yoshihiro TATSUKI3人展―Soul Brothers―報道写真や女性のポートレイトの分野で活躍した立木義浩と、その盟友であるふたりのフランス人写真家の写真展が、東京銀座のキャノンギャラリーにて開催される。立木と親交のある飯塚ヒデミ(Track Artwork Factory)のプロデュースにより、実現した。Text by OPENERSそれぞれの思想、哲学が交錯する、写真人生の三叉路雑誌ELLEなどでも活躍し、ピカソやシャガールらとともに当時のフランス文化を表現しつづけた写真家、エミール・ミュレール。そして、かつて立木義浩、ミュレールのもとで学び、現在は多方面で活躍するベルナール・マチュシエール。今回一堂に会したのは、写真人生をともにした彼らの集大成ともいえる作品群だ。©Yoshihiro TATSUKI3人をつないだそもそもは、約40年も前のこ...
写真人生|飯塚ヒデミ 写真集コレクション|Weegee『NAKED CITY』
飯塚ヒデミ 写真集コレクションVol.1 Weegee『NAKED CITY』写真集『NAKED CITY』が刊行されたのは1945年。10年ほど前、ニューヨークの古本屋で偶然目にし、以前から欲しいと思っていたので迷いなく購入し、いまも宝物のひとつとして大切にしている写真集です。あいにくオリジナルのカバーは破損してしまいましたが、60年以上前の写真集としてはとてもよい状態のものです。アメリカ人写真家Weegee(ウイジー)の写真集はいくつかありますが、代表するものと言えばやはりこの45年刊行の『NAKED CITY』でしょう。文=飯塚ヒデミWeegee|ウイジー本名はArthur Fellig。1930~40年代のニューヨークを代表する写真家。アメリカのみならず、世界の写真家達が刺激を受け影響された写真家のひとり。1899年、現在のウクライナに生まれ、1909年家族とともにアメリカに渡る。ニューヨーク中央警察署の裏に住まいを持ち、警察無線の使用を許可されていたため、火災や交通事故、...
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