カラー写真への遙かなる道 第3回
<Fred JOURDA>との対談-2
Hidemi:君の最初の個展はいつ?
Fred:1996年から風景を中心に写真を撮り始めて、1998年に南アフリカ共和国のケープタウンが最初の個展です。
2000年にパリのモンパルナスにあった写真ギャラリー213、2001年にはアフリカ・マリ共和国のバマコ、2003年オランダのブレダ、2004年にはパリのギャラリーACTE2、そして今年11月に小さな個展を東京で初めてやることが出来た。15点程度の作品しか展示ができなかったけれど結果はとても良かった。
自分の作品を気にしてくれる人が一人でも増えたということを幸せに思わないとね!
H:君が7歳の頃、父親からKODAK224というカメラをもらったのが写真に触れるきっかけになったと言っていたけど、君の父親も写真に携わる職業だったよね!
F:実は僕の父もPICTOのカラープリント技師として1960年から43年間PICTOの創立者ピエール・ガスマン氏と一緒にラボを支えてきた一人なんだ。最初はモノクロームプリントを担当していたが、その後カラープリントを担当するようになり、数年前現役を引退するまでカラープリントを愛し、世界の写真家のために自分の知恵と技術を与え続けていた素晴らしい人。
H:現役を引退なさったということは、本やインターネットなどでは得ることが出来ない職人技術やラボの秘密などがまた一つこの世から消えてしまったわけだ。残念だな!
もしかして君の父親も写真を撮るの?
F:もちろん趣味程度に写真は撮ってはいるが、展覧会をしたいという欲望はないと思う。写真と自由な関係でいたいんじゃないかな? 僕もそうかな。
H:父親の影響は大きかったんじゃない? 全てに関して。
F:今思えばそういう環境に生まれ育ったわけだから、自然に写真に興味を持つようになったのだと思うが、強制されるようなことは全くといっていいほどなかった。
パリの写真学校に通い始めたのも僕の意思で、最初の引き延ばし機もバイトで稼いだお金で購入して、自分で初めて家のお風呂場でモノクロームプリントをした時も父は家にいなかった。
お金を稼ぐためにPICTOでバイトをしようと思た時はもちろん父親の手を借りたというか、口を聞いてもらったけど。僕がPICTOで正社員として働き始めてからも父親とは一度も一緒に仕事をすることがなかったから、よくある親から子供へ伝える伝統技術的なものもいっさい受けたことがない。本当は大切なことなんだけどね!実際父は引退してしまったから、彼の技術や感覚を今教わろうと思っても無理だしね。
H:最後の質問になるけど、パリは写真家にとってどういう場所だと思う?
F:もちろん素晴らしい場所であると思う。自分の場合あまりパリを写真に撮ることはないが、写真を撮るにも見るにも素晴らしい場所だと思う。しかし素晴らしい美術館や素敵なギャラリーが沢山あって、表向きは凄く良いイメージのフランスが誇りを持つ芸術文化が、実際は芸術文化ではなく芸術ビジネスになっていて、著名な作家の人たちにとってはとても素晴らしい場所というか都市といった方がいいかな!
(対談終了)
フレッド・ジョルダへのインタビューを終えて
この Fred JOURDAとの対談をするにあたって、「カラー写真への遥かなる道」というタイトルで彼がカラー写真を好む理由、なぜモノクロームではなくカラーなのか? カラー写真の魅力などに関しての質問をしようと思っていたが、結局その質問をする必要がなく終わった。
イギリス人作家ジョージ・オーウェルが初めて詩を書いたのが4つか5つの時で、母親が彼が言うことを書き取ったそうだ。5つか6つのごく幼い時から、おとなになったら物書きになるのだと思っていたが、24歳になるまでのあいだその考えを捨てようと努めたが、いずれは本をかくようになるだろうという意識は抜けなかったらしい。
彼はまた、ものを書くには生活費を稼ぐ必要を別にすれば4つの動機があると言っている。純然たるエゴイズム、美への情熱、歴史的衝動、政治的目的である。
有名な作家になりたいというエゴイズム、自分が貴重だと思う体験を他人にも伝えたくなる美への欲望、物事をあるがままに見てこれを子孫のために記録しておきたいという歴史的欲望、世界をある一定の方向に動かしたいという政治的欲望である。
Fred JOURDAがこのジョージ・オーウェルが言う4つの動機をもとに作品を撮っているかどうかを意図づけるつもりもなければ理解するつもりもない。
彼自身レンズを通して見たそのものを人に見せたい、伝えたいという単純で素直な気持ちをもっているとしても、それを全ての欲望や期待につなげようということは彼からは感じとれない。
旅先で見た風景、車の中から見た畑の真ん中にある大きな木、砂漠、夜の海、コスモスの花畑、全て普通にあるような景色には特に刺激や感動、欲望やエゴイズムを感じるものが存在することもなく、ただあるのはその「場所」「時」「記憶」だけであって、それらを彼が写真機というものを使って「記録」つまり写真にするだけなのだと思う。
彼が7歳の頃父親からカメラを渡された時、ジョージ・オーウェルの幼い頃のように自分の将来を見抜いていたのかどうかは知らないが、カメラを父親からもらった時の一瞬の記憶と喜びを今でも大切にしてることは確かであった。