BMWの日本人デザイナー、永島譲二氏インタビュー|BMW
BMW|ビー・エム・ダブリュー
未来へつづく“BMWのカタチ”
日本人デザイナー、永島譲二氏へのインタビュー
日本車とはちがうスタイリッシュさを求め、BMWのクルマに対して漠然とした憧れを抱く人は少なくない。だが、そのデザインを手掛けている人物が、じつは日本人だということをご存知だろうか。世界の舞台を求め旅立った日本のトップデザイナーたちは、いまさまざまな欧州のメーカーで活躍する。ここで紹介する永島譲二さんも、まさにそうしたなかの第一人者。OPENERSでは、はじめての登場だ。
Interview & Text by KAWAMURA YasuhikoPhotographs by TSUKAHARA Takaaki
今度はドイツも良いかな、と
──永島さんは1988年からBMWで活躍されていますが、じつは「その前」があって、欧州でのキャリアはもう30年以上になられるとか。
永島譲二氏(以下、永島氏) はい、じつは最初に就職したのはオペルなんです。アメリカ・デトロイトの大学を出たのですが、学校の先生のなかにオペルの上の方がいらして、1980年に入りました。当時はまだ“西ドイツ”でしたね。で、生産車にもたずさわりましたが、おもにコンセプトカーやラリーカーを担当しました。
──ところが、4年後に突然ルノーに移られた。
永島氏 ヘッドハンティングされたんです。ドイツからだと、パリには簡単に行けますよね。で、「フランス行ってみたいな、行ってみようかな」と(笑)。
──ということは、“ルノー”そのものよりも、フランスという国やパリという街への興味が大きかった?
永島氏 それもあったかも知れませんが、もちろんそれだけではありません。ルノーは当時国営で、すごく業績が悪かったんです。ところが、そうなると皆「なんとか会社を変えなくちゃ」というおもいが強くなりますよね。そうした時のほうがデザインも、色々なことにトライができるんですよ。
ヨーロッパのなかでもフランスには独特の空気があるので、あたらしい経験ができる。くわえて、会社がそんな状況だったのでこれはいよいよおもしろそうかな、と。入社をしてまずは「サフラン」という4ドアモデルのデザインを手掛けました。
──それが社内コンペで勝ち抜いた、と。
永島氏 当時のルノーのデザインは、感覚がふるかったんですよ。あまり国際化をしていなくて、「いかにもフランス人」というデザインばかりだったんです。それが良かったのかも知れません。
──ところが、そんなルノーも3年でお辞めになってしまう。
永島氏 いろいろと大変だったんですよ。「仕事が大変」というよりは、さまざまな事柄があまりにもオーガナイズされていなくて。暮らしのリズムというか、ライフスタイルがちょっと大変になってきてしまったんです。もちろん良いところもたくさんありましたけど。で、今度はドイツも良いかな、と(笑)
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未来へつづく“BMWのカタチ”
日本人デザイナー、永島譲二氏へのインタビュー(2)
「Z3」はクレイモデルの練習台だった
──1988年いらいBMWに在籍をされていますが、ドイツにはBMW以外にもたくさんメーカーがありますよね?
永島氏 じつはドイツって、地域によって全然雰囲気がかわるんですよ。もちろんいまはちがうでしょうけれど、当時は、北部のほうはみなが警察官みたいで、家のチャイムが鳴ったので出てみたら、知らない人がいて「お宅の窓ガラスは汚れていますよ」みたいな(笑)。ところが、BMWのある南部のほうだと全然ちがうんです。住んでて楽というか、イタリアにちかいというか。
──では、もしもメルセデスが南にあったら、そちらに行っていた?
永島氏 そこはちょっとべつの理由もあって、やっぱり行かなかったとおもいますけれども(笑)。いずれにしても、仕事の内容も重要ですが、何年も住むわけですから場所も重要なんです。ミュンヘンなら、北ドイツに行くよりもパリのほうがちかいといったこともありますし。
──そうして、BMWにお入りになって、まず「Z3」を手掛けられた。それは、ご自身でスポーツカーを希望してはじまったものなんですか?
永島氏 入って1、2年経ってからのことですね。あれは、クレイモデラーの練習台としてスタートしたプロジェクトで、“スプリット モデル”といって鏡で映すと1台になるというモデルの片側だったんです。じつは「なんでも良いから」とはじまったようなもので(笑)
──それでは、当初は生産化は決まっていなかった?
永島氏 まったく決まっていなかったです。ところが、ちょうどそのころ、小型スポーツカーのブームみたいな波がやってきて。
──マツダからですか!?
永島氏 それは言えないんですが(笑)、ともかく後に正式なプロジェクトに格上げされて、それで本格的にはじまりました。さらに、だいたい同時にE30(2代目「3シリーズ」)があって、それもコンペで選ばれました。ちょっとどっちが先か忘れましたけど。
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日本人デザイナー、永島譲二氏へのインタビュー(3)
BMWらしいカタチの落としどころ
──ところで最近のBMW車ですが、とくに「3シリーズ」「5シリーズ」「7シリーズ」という基幹モデルの雰囲気がちかくて、言うなればなんとなくデザインが“収斂気味”のようにもかんじられます。さらに最近はその隙間にもさまざまなニューモデルが追加されて、個人的にはそれぞれの個性が不鮮明になっているようにもおもえるのですが。
永島氏 よく理解できるハナシです(笑)
──そうすると、前任のクリス・バングルさんがデザインディレクターをされていたころのような、3/5/7でも各モデルが強い個性を放つような方向にいずれ軌道修正されると?
永島氏 う~ん、そうしないといけないですね。ただ、いまのようにお互いのファミリー感を強く演じるにも、やはりバングル氏の影響は必要だったんだとおもいます。最近ちょっとおとなしく見えるのは、8割方は意図された結果だとおもっています。
──ハナシは変わりますが、個人的にはどうもEVの「i3」が“BMWのカタチ”に見えないんですが(笑)
永島氏 基本的には、すべてのデザイナーが開発中の作品をチェックするのがわたしの仕事です。が、最近は車種が増えてしまって、もうとても全部は見られないんですね。
──(BMW初のFFモデルとして話題の)アクティブ・ツアラーは?
永島氏 かかわっていないんです(笑)
──たとえば、i3などは基本的に“エンジンルーム”が無いわけですが、そのなかでも「BMWらしいプロポーション」を表現したいという考えは──
永島氏 やらないといけないですが、まだできていないですね。3/5/7がやってきたように、“BMWらしいカタチ”ができあがるまでには何代もかかるものなのです。それが、“まだ初代モデル”であるi3には、やはり無いと自分ではおもうんですね。もちろん、顔なんかはあきらかにBMW車の表情ですが。
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日本人デザイナー、永島譲二氏へのインタビュー(4)
変わらないモデル、変わるモデル
──「X5」は、新型になってサイズもパッケージングもほとんど変わりませんでしたね
永島氏 先代と非常にちかいのは確かです。でも、この先も変わらないというわけではありません。一世代では変えないということでもないんですが、いっぽうで大きく変えたらそれが成功するかどうかはわからないという難しさはありますね。
──「3シリーズ クーペ」は「4シリーズ」になりましたが、こうして名前が変わるとデザイナーの意識も変わるものなのでしょうか?
永島氏 これはあきらかにアップマーケットを狙っています。見た目も明確にワンランクアップされています。
幅にかんしては日本の機械式立体駐車場の対応として、非常に抑制を効かせています。それが無くなったらさらに幅広になっていたとおもいます。ただ、そこは“パッケージング”の分野で、じつはわれわれにはそれをいじる権限は一切無いのです。
個人的には、E30(2代目3シリーズ)くらいが本当に良かったとおもいますけれど(笑)
──最後にそんな“本音”を聞かせてくれた永島さんは、もはやたんなるデザイナーではなく、これからのデザインの方向性全体をコントロールする“デザイン コンダクター”として、これからも活躍ぶりを発揮してくれることだろう。EVやFFモデルをラインナップにくわえ、いままたあらたなスタートを切るBMW車のデザインに大注目だ。
BMW AG BMW デザイン部門 エクステリア クリエイティブ ディレクター
NAGASHIMA Joji|永島 譲二
1955年東京生まれ。武蔵野美術大学工業デザイン学科卒業後、渡米し大学院に進学。1980年からアダム・オペルでコンセプトカーやラリーカーのデザインを手掛けた。1985年にルノーで「サフラン」をデザイン。その後、1988年より現在までBMWに勤め、携わったおもな作品は「Z3」(1996)、「5シリーズ」(1996)、「3シリーズ」(2005)など。直近では、ピニンファリーナとのコラボレーション「グラン ルッソ クーペ」のデザインにもかかわっている。