日産パイクカー誕生秘話 最終回 パオ、フィガロ編|NISSAN
NISSAN Pao|日産 パオ
NISSAN Figaro|日産 フィガロ
NISSAN S-Cargo|日産 エスカルゴ
日産 パイクカー 製作秘話 最終回
Be-1のあとにつづいたクルマたち
──自動車デザインをかえた、とまで言われる、1987年発売のニッサン「Be-1」。その人気ぶりが社会現象とまで言われたこのクルマがどうやって企画、開発されて世に送り出されたのかを、前回、前々回と、当時開発を担当していた方々に話を聞いてきました。そんなBe-1が苦心して生み出されたそのあとに、つづいたパイクカーたちはどのようにして開発されたのだろうか。伝説となったシリーズを生み出した舞台裏に迫る最終回。
Text by OGAWA Fumio
予想をはるかに上まわるブーム
清水潤さん(以下・清水) 私は当時、日産自動車のデザイン主管としてかかわっていましたが、これまで話したことを要約すると、マーチのデザインスタディのひとつに市場での可能性を見いだしたので、社内を説得して製品化したところ大ヒットになった、ということです。
山本明さん(同・山本) 私は技術畑出身ですが、そのころ商品企画をやっていて、ファッション業界の人からの提案は、発想がまったくちがっていておもしろいなあ、と感心しました。
坂井直樹さん(同・坂井) 紆余曲折あったことについては、これまでに話しましたが、結局、「Be-1」は、日産自動車社内の予想をはるかに超えた反響がありましたね。Be-1が巻きおこしたブームにはすごいものがありました。
山本 すごかったですね。我われ自身が驚いたぐらいで。
清水 社内ではそれまで“クルマの本質とは関係ない”と、パイクカーに否定的な見かたもありましたが、「マーチのモデルチェンジより、Be-1の次のパイクカーを早くスタートして欲しい」と、要求されるまでになりました。
山本 (笑)
清水 どうしようかと思ったのですが、ポストBe-1はBe-1の後追いではなく、全く別のコンセプトが必要と考え、坂井さんと日産チームのミーティングを開始しました。
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日産 パイクカー 製作秘話 最終回
Be-1のあとにつづいたクルマたち (2)
つぎはバナリパとパリダカだ!
山本 パイクカーとジャンルわけしたBe-1の大ヒットをうけて、私たちは、ニッサンの商品構成を再編成しました。“高級車”、“量産車”、“スポーツカー”、テラノに代表される“RV(リクエーショナル・ビークル)”、それに“パイクカー”の5本柱でいこうと。それだけ期待を込めたのですね。
清水 ミーティングを重ねる中で、坂井さんから「バナナリパブリックとパリダカの合体」とのキーワードが示されました。
──バナナリパブリックは、日本ではバナリパと呼ばれて人気を集めた米国の衣料ブランドですね。1970年代後半に米国で創業され、そのあとGAPに買収されますが、サファリ的なイメージを特徴としていました。
山本 当時、これに注目したのは早かったですね。
坂井 アフリカがおもしろいとおもったんですね。
──パリ・ダカールラリーは、1978年にフランス人がはじめた、いわゆるラリーレイドで、新年のパリを出発してアフリカを走る過酷な内容でしたが、世界中の自動車メーカーはかなり本気を出して繰り込みました。
坂井 それはひとつのたとえですね。アフリカの砂漠を走る車両のもつ機能性と、誤解を招かないように言わないといけませんが、戦前の植民地時代のアフリカへのある種の憧憬を感じさせるレトロさがおもしろいのではと。
清水 実際にデザインへの落とし込んだのは、日産社内のデザイナーですが、リブの入った鉄板のイメージとかは、坂井さんでないとおもいつかなかったでしょうね。
坂井 第二次世界大戦でつかわれていた「キューベルワーゲン」のイメージも、けっこうウケるだろうとおもいました。
山本 それでニッサン「PAO」が開発され、1989年に発売となりました。今回は台数限定でなく、予約期間限定にしましてね。メカニズムはBe-1と同じ「K10型マーチ」の、キャブレターつき1リッターエンジンですが、3カ月で4万2,000台売れました。
坂井 マーク・ニューソンという、90年代から2000年代に世界的活躍をした工業デザイナーがいますよね。彼はフォードのために「021C」という画期的なコンセプトカーをデザインして、それは99年の東京モーターショーで大きな話題を呼びますが、その彼からも「PAOは大好きなデザイン」と言われたことがあります。
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日産 パイクカー 製作秘話 最終回
Be-1のあとにつづいたクルマたち (3)
パイクカーは世界的に評価された
──PAOと同時に商用バンの「S-Cargo(エルカルゴ)」が発表され、91年にはパイクカー第3弾としてニッサン「フィガロ」が発売されます。こちらもバブル全盛期で、「濱マイク」シリーズなどで知られる映画作家の林海象氏らを起用してフィガロムービーをつくったり、話題性には事欠きませんでした。クルマが大好きなエリック・クラプトンが購入したという話もききます。
山本 このときは、坂井さんも僕も、担当からはずれてしまいましたが、継続的に人気を呼んだというのは、本当に喜ばしいことだとおもいます。
坂井 コンセプトメーキングのとき、少しかかわらせてもらって、女性が楽しく乗れることではないですか、とおはなししました。
清水 パイクカーは世界的に評価されたことで、日本人の感性が世界の最先端になるという自信がもてたのは嬉しかったです。
山本 広告代理店がプランニング会社と組んで企画をもってきてくれましたが、どれも心に響かなかったですね。
清水 自分たちがクリエイティブの先端にいるという意識をもつことが、自信をもたらし、説得力のあるプロダクトを生む活力になるのでしょうね。
山本 EV(電気自動車)にはその可能性があるとおもってきたのですが。
清水 1947年に完成した電気自動車「たま号」にはじまり、企業のDNAのなかにもEVはあるのですよ。1999年にはニッサン「ハイパーミニ」をいち早く発売しましたし。
山本 EVや新しい燃料をつかうクルマは、技術屋にとってやりがいのある分野ですから、そこを突き詰めて、また世界の最先端をめざしたいですね。
坂井 とにかく、日本企業はがんばらないといけないですね。
SAKAI Naoki|坂井 直樹(さかい なおき)
現ウォーターデザイン取締役。慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス教授。1960年代、渡米してサンフランシスコでファッションビジネスを立ちあげる。テキスタイルデザインが出発点だが、Be-1プロジェクトのあと、プロダクトデザインに広くかかわっている。
SHIMIZU Jun|清水 潤(しみず じゅん)
1962年、日産自動車入社。当時はデザイン部はなく造型課で初代「サニー」を担当。トヨタ「クラウン」を販売台数で上まわった「セドリック/グロリア230型」(1971-75年)のデザインも手がける。デザイン本部長時代は、8年間デザイン部門を統括、全車種のデザイン責任者を務めた。
YAMAMOTO Akira|山本 明(やまもと あきら)
1962年、日産自動車入社。設計開発部門に籍を置き、サスペンション、車体の設計ののち、技術開発企画、商品企画に従事。その間、「フェアレディZ」(Z32)(89年発売)、大ヒットした「シルビア」(S13)(88年発売)などを手がける。その後商品企画室や電子技術本部長などを歴任。