戸田恵子|敬愛なる、やなせたかし先生
Lounge
2015年4月17日

戸田恵子|敬愛なる、やなせたかし先生

戸田恵子|愛と勇気と、光へ導く道標

敬愛なる、やなせたかし先生(1)

2013年10月13日。ついに巨星が落ちてしまいました。それはあまりに突然の出来事でした。

Text by TODA KEIKO

涙は流れるばかりで、ただただ愕然とする突然の訃報

10月13日、私は昨年のアニバーサリーライブでお世話になったバンド、センチメンタルシティロマンスの結成40周年ライブにゲスト出演するため、名古屋におりました。敬愛してやまないやなせたかし先生の訃報を受けたのは、名古屋からの帰り、新幹線を降りてクルマに乗り込んだ時のことでした。

先生は深夜に息を引き取られ、いまはご自宅のあるやなせスタジオで眠っている──。携帯を持つ手がわなわなと震え、「嘘でしょう?」と何度も、何度も繰り返していました。私は帰京してからの仕事を済ませ、その夜はまっすぐやなせスタジオへ。いつものインタビュールーム、たくさんのキャラクターたちに囲まれた中に、先生の棺はありました。

先生のお顔は本当に眠っているようで、アンパンマンのアニメに登場する“やなせウサギ”そのもの。「ああ、よく寝た」と言って、いまにも起き上がりそうです。眼鏡をかけて、ハンチングとジャケットは、先生のシルエットがデザインされたオリジナル生地であつらえた物。オシャレな先生らしい出で立ちです。

スタジオの皆さんと、ごくごく内輪のスタッフとで少しずつ、これまでの経緯を聞かせてもらいました。先生は8月末頃から入院されていたこと。これまで入退院を繰り返してこられた時と同じように、誰にも知らせずの入院でした。入院のことはまったく知らされていなかったため本当に寝耳に水。ただただ愕然とするばかりでした。病院でもたくさんお仕事をされていたこと。亡くなられたのは深夜で、前夜は病室でごく普通に過ごされていたとのこと。その日、涙は頬が痛くなるほど流れました。

最後の別れ「たくさんの愛と勇気をありがとうございました」

翌日は月曜日、レギュラーのアンパンマン収録日です。あのとき先生の訃報を知らせてくれた電話は、密葬が終わる15日までは内密でお願いします、とのお達しでもありました。私だけが知っていて、黙り続ける辛い時間。この日収録した第1200回のBタイトルがいつもと違う印象で、『がいとうさんと約束のあかり』という、なぜかとても胸に迫るものでした。

収録後、ばいきんまん役の中尾隆聖さんから「どうしたの、大丈夫? 顔が真っ白だよ」と、声をかけられました。泣きたい想い、伝えたい想いが喉まで出かかるのを抑え、「うん、ちょっと寝不足」……それでごまかせたのかどうか。本当はすぐにでも気持ちを分かち合いたかった。

仕事を終え、その夜も先生宅へ。翌日の密葬には仕事で参列できないことがわかっていたため、これが最後のお別れです。涙は止まることなく流れるばかりで、私はいつまでも先生のお顔を見ていました。「先生お疲れ様でした。たくさんの愛と勇気をありがとうございました」──持参したお花は翌日、みなさんが棺に入れてくれました。先生の、胸のうえに。

戸田恵子|愛と勇気と、光へ導く道標<

敬愛なる、やなせたかし先生(2)

決して失くしてはならない、大切な道標

密葬が終わると、マスコミ向けに発表がありました。「決して失くしてはならない、大切な道標を失ってしまいました。ただただ悲しいばかりです」──対応のため、私は前夜にはコメントを出しておりました。どこかの新聞に、「戸田恵子、遺志を継ぐ」といったようなことが書かれていましたが、「え!? そんなこと一言も言ってないし、私ごときが遺志なんて継げるのか!?」と、自問するばかりでした。

親しい友人から続々とお悔やみの連絡があり、アンパンマンの声優仲間からもメールが届きます。「知っていたのですね。黙っているのは辛かったでしょう」とは、おととい一緒だったメンバーからでした。

初七日にあたる日は講演会のため熊本へ行っていました。飛行機を降りる際、CAさんが切なげな表情で「頑張ってください」と、手に触れて励ましの言葉をかけてくれました。いつもなら「いつも拝見しています、お仕事頑張ってください!」と言ってくれるところを、その時はまちがいなく、やなせ先生のことで声をかけてくれたようでした。温かい気持ちに胸が熱くなります。ブログにも皆さんからお悔やみと応援のメッセージをいただき、本当にありがたかったです。

翌日、小さくなった先生に会いにスタジオへ向かいます。一日遅れの初七日のため内輪のスタッフと食事会をしました。皆さんとあれこれ先生のお話をしているなか、先生のお世話をされていたKさんが、私が表紙を飾った『婦人公論』を、先生が拡大鏡を使ってくまなく見ていらしたと話してくれました。そうだ、以前も「見たよ!」と。どんどんキレイになるって、新聞のコメントにも書いてくださったことを思い出します。

アンパンマンショップに毎月張り出される先生の言葉は、もう来月からなくなってしまうのか……。その場にふと沈黙が落ちます。でも、何らか先生の詩を出したらどうだろう、という話にもなり、「そうだ、それがいい!」と、みんな少しでも前を向こうとしているのがわかります。

最後の思い出も、お洒落でかっこいい先生

今年4月の「新神戸アンパンマンミュージアム」オープニングイベントでご一緒したのが最後となりました。

この時、先生はオリジナルプリント生地のジャケットを初披露してくれました。ミュージアムでのテープカットでは出番前に「杖は置いていこう!」と提案されたので、私も「了解! エスコートしますから腕を組んでいきましょう!」なんて、二人で元気にステージへ飛び出していきました。MCのテープカットの合図も聞き取れない状態にある先生には、“トントン”と私が手で合図。ミュージアム内のシアターでも一緒に最後まで歌い、踊られていました。振り付けも完璧! 感動です。

杖を置いていったのも、きっとかっこよくキメたかったのだと思います。
そして、そんな先生が本当にかっこいいと思ったのでした。

帰りは同じ新幹線でした。いま思うと、あの車内での先生が、私にとって最後の先生。
あれからたった半年です。もう一度、もう一度だけお会いしたかった。思い出は尽きません。

戸田恵子|愛と勇気と、光へ導く道標

敬愛なる、やなせたかし先生(3)

先生という大きな傘を目指して

10月21日(月)、レギュラーのアンパンマン収録は、黙とうから始まりました。中尾さんが会うなり抱きしめてくれて、私はまた涙して、佐久間レイちゃんが帰り際、「ちゃんと食べてくださいよー!」と言ってくれて、スタッフからは頑張っていこうとお話がありました。

でも、その頃の私は「アンパンマン辞めようかな……」漠然とそんな風に考えていました。やりたくないんじゃない。先生がいなければ、先生の支えがあったから、ここまでやってこれたのだと急に不安になったのです。本当にできるのか、自信はあるのか、覚悟は? 自問のくり返し。ある親しい女性スタッフに、そのことを打ち明けたところ、みんなで支えていくから、なんとか前進しましょう、と答えてくれました。

つくづく大きな傘に入っていたのだぁ……。もちろん、これまでだって一生懸命やってきたけれど、帰る家を失くしたようで、その喪失感の大きさに自分でも驚きました。

黙々とアンパンマンを続けながら日々が過ぎ、三十五日が過ぎ、四十九日が過ぎ。その都度、やなせスタジオに向かい、先生の前で皆さんとあれこれ話をするうちに、ますます先生の偉大さを知るとともに、私がアンパンマンの声を、いえ、私たち声優チームがアンパンマンのキャラクターを演じることに、今はいっそうの使命感を持って臨んでいるのだと思えました。

みんな黙々と続けているのです。そして、きっとこれからも。やなせ先生ほどの大きな傘はさせないかもしれませんが、一人一人の小さな傘を連ねて、重ねて、大きな傘に近づこうとしている。このアンパンマン・チームはキャスト、スタッフともに本当にプロフェッショナルであり、ファミリーであり、宝です。

「人生は喜ばせごっこ。一寸先は……光」

2011年4月、やなせ先生一流のジョークによる“生前追悼号”なるものの発売が予定されており、私も嘘だとわかっていながら泣いて弔文を書かせていただきました。でも、3月11日に東日本大震災が起こり、企画は延期。先生は「死んでいられない!」と、それからまた精力的に活動され、とくに被災地の子供たちにはいつも心を寄せられていました。

いまだにやなせスタジオに行けば、先生が現れそうな気がして。信じられないんです、先生がこの世にいないだなんて。でも、どうやら先生はサッとマントをひる返し、天国へパトロールに行かれたようです。

「人生は喜ばせごっこ。一寸先は……光」
先生の教えです。人が喜ぶことをしなさい、必ず光はあるんだ、と。

皆さま、どうぞ良いお年をお迎えください。

           
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