祐真朋樹・編集大魔王対談|vol.36 FPM 田中知之さん(中編)
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前回に引き続き、今回もゲストにFPM=Fantastic Plastic Machine(ファンタスティック・プラスチック・マシーン)の田中知之さんをお迎えして、祐真編集大魔王とトークを繰り広げます。ご自身のキャリアを振り返りながら、90年代半ばのデビュー当時の華やかなエピソードの数々をお話しいただきました。
Interview by SUKEZANE TomokiPhotographs by MAEDA AkiraText by ANDO Sara (OPENERS)
レコードを買い漁る日々の中、突然舞い込んだデビューのオファー
祐真朋樹・編集大魔王(以下、祐真)1994年に京都で行われたイベントにテイさん※1を呼んだ時は、色々とつてがあったんですか?
田中知之さん(以下、田中)それがまったくなかったんです。90年にライカに就職して初めての給料をもらった4月末日に、梅田のウェーブ※2に行ったんですよ。
祐真 おお、ウェーブ(笑)。
田中 そこでディー・ライト※3のデビュー12インチシングル「GROOVE IS IN THE HEART※4」が売っていて。
祐真 ありましたね、紫色のジャケットの。
田中 そうそう、それを買ったんですよ。「これはすごいぞ!」と。そこからずっとディー・ライトのファンだったというだけで。
祐真 イベントには、テイさんお一人で来てくれたんですか?
田中 はい。でも当日テイさんが「GROOVE IS IN THE HEARTのレコードを持ってくるの忘れたんだよねー」とのことだったので、僕が初任給で買ったのをお貸しして、それをかけられていました。
祐真 それは嬉しいですね。イベントはどこで行われたんですか?
田中 それは京都の遷都1200年のイベントで、御池か、丸太町の烏丸だったか忘れてしまったのですが、銀行跡地みたいなところに特設会場を作ってました。古い建物をその日だけ使ってでかいパーティをやったんです。
祐真 その頃には、田中さんもDJをされていたということですが、その後もDJでやっていこうっていう気持ちはあったんですか?
田中 正直、そこまででもなかったのですが、当時レアグルーブムーブメント※5が盛り上がっていて、レコード屋さんで見たことのないレコードを買って「世界中で誰も知らない音楽を俺が探してやるぞ!」みたいな気持ちはありましたね。当時のいろんなDJが同じ気持ちだったと思います。
祐真 競争ですよね。
田中 そういう時代でしたから。東京でもソウルとかファンクとか、ディスコなど王道のレアグルーブではないレコードを集める動きはありましたが、僕らは京都を中心に活動していたので、圧倒的にライバルが少なかった。京都とか大阪とか神戸にいいレコード屋さんがたくさんあったんですよ。
祐真 その当時、京都で一番好きなレコード屋はどこだったんですか?
田中 京都にももちろんいくつかあるんですけど、大阪のディスクジェイジェイ※6と神戸のハックルベリー※7が好きでした。レコードを見つけては試聴させてくださいって頼んで。試聴させてもらえないものは思い切ってジャケ買いをしていました。当たるも八卦、当たらぬも八卦みたいな感覚でレコードを買い続けていたら、どんどん溜まって2万枚ぐらいになって家の底が抜けかけました(笑)。
祐真 (笑)。ノンジャンルでレコードをチョイスしていたんですか?
田中 はい。ヒップホップの誰々があの曲のネタに使った、と急にレコードの値段が上がることがしょっちゅうあって。僕は当時からへそ曲がりだったので、そういう値が上がってしまったものには興味がなかった。誰もネタに使っていない、誰も重宝がらないレコードってなんだろうと考えた末、映画のサントラだったりムードミュージックだったりボサノバだったり、いわゆるライブラリーといわれる、ラジオやテレビ番組のBGM用のレコードに行き着いたんです。それらを片っ端から買ってはサンプリングして音を作り出していました。
祐真 そこからデビューへはどうつながっていったんですか?
田中 メトロの木曜帯でレギュラーのパーティをやったり、それ以外のクラブでもイベントをやったりするうちに、テイさんやピチカートの小西さん※8、コモエスタ八重樫さん※9など、京都以外のゲストを招く機会が増えていきました。その頃、既に海外のイベントなどでも活躍されていた小西さんやテイさんが、現地のDJや音楽好きの人たちに「サウンド・イムポッシブルっていう面白い奴らがいるから、京都に行くことがあったら連絡してみたら」と僕らの連絡先を教えてくれていたんです。
祐真 紹介してくれたんですね。
田中 はい。僕らのことをいい具合に宣伝してくれていたんですよ。当時はメールなんてなかったので「今度、京都に行くから会おう」って突然、ベルリンやアムステルダム、イギリスのDJたちからファックスが来たりして。彼らが来日した際にはDJをしてもらうなど交流を続けていると、僕がまだ東京に行く前の95年のある時、ドイツのル・ハモンド・インフェルノ※10っていう2人組のDJに「ベルリンでレーベルを作ることになったから、リリースしてやるよ!」って言ってもらえて、いきなりヨーロッパデビューが決まったんです。まだ2、3曲ぐらいしかデモを作ってなかったのに(笑)。
祐真 すごい!
田中 ありがたい話ですよね。阪神大震災が起こったあの瞬間にも、祐真さんに取材に来ていただいた僕の京都の家で、友達と一緒にチープな機材で音楽をサンプリングで作り始めていました。そうして作ったデモをテイさんや小西さんに渡していたら、小西さんが僕の作った「ジェット機のハウス」という曲を気に入ってくださって、「ロマンティーク’96」※11にそのまま収録されることになったんです。
Page02. 海外に広がった渋谷系ブームとその終焉を間近で体験した90年代
※1 テイさん
日本のDJ/音楽プロデューサー/アーティストのテイ・トウワ氏
※2 ウェーブ
80〜90年代に人気を博したレコードショップ
※3 ディー・ライト
アメリカのハウス/ダンス・ミュージック・グループ。結成当初は「Dee-Lite」だったが、テイ・トウワ氏が加入してからは「Deee-Lite」と表記する様になった。テイ氏が脱退した2年後の96年に活動を停止した
※4 GROOVE IS IN THE HEART
全米4位の大ヒットを記録した、ディー・ライトのデビュー曲「グルーヴ・イズ・イン・ザ・ハート」。横浜出身のテイ・トウワ氏の存在もあり、日本のマスコミでも大きく取り上げられた。2000年には映画版『チャーリーズ・エンジェル』のサウンドトラック盤に収録されたことでリバイバルヒットした
※5 レアグルーブムーブメント
1980年代後半に、音楽ジャーナリズムやディスコ、クラブを中心に注目されるようになったムーブメント。直訳すると「rare groove=珍しいグルーブ」で、インターネットが登場する以前の“見つけ難い音楽”という意味を持つ
※6 ディスクジェイジェイ
「いい品をより安く品揃え豊富」をモットーに、現在日本橋本店と梅田新館の2店舗を構える、大阪の中古レコード専門店DISC J.J.。ジャズ、ロックをメインにCD、LP、12inch、LD、DVDオールジャンル取り扱う大型店
※7 ハックルベリー
ロック、ソウル、ジャズ中心にオールジャンル取り扱う、安さが魅力の神戸の老舗中古レコード専門店。アイドルの7inch、ブラジル、タンゴやレゲエも取り揃える
※8 ピチカートの小西さん
日本の音楽家の小西康陽氏。1984年から2001年まで活動していた日本の音楽グループ、ピチカート・ファイヴ(PIZZICATO FIVE)のメンバー
※9 コモエスタ八重樫さん
日本のDJ/プロデューサー/ライターのコモエスタ八重樫氏。東京パノラママンボボーイズのメンバーとしても人気
※10 ル・ハモンド・インフェルノ
ドイツ・ベルリンの人気DJデュオ。日本の渋谷系音楽をドイツに紹介したと言われる。音楽レーベルbungalow主宰
※11 ロマンティーク’96
1995年9月30日に発売されたピチカート・ファイヴ通算9作目のスタジオ・アルバム
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海外に広がった渋谷系ブームとその終焉を間近で体験した90年代
祐真 日本ではピチカートのアルバムでデビューしたというわけですね。
田中 はい。ピチカート・ファイヴのアルバムなのに僕名義の曲が入って、アルバム内デビューさせていただきました。アイデアマンの小西さんらしい作戦ですよね。同じアルバムに、プラスチックス※12の「Good」のカバーが収録されていて、それはピチカート・ファイヴ名義ですが、それもアレンジをさせていただいています。同じ頃、テイさんにも「今度、ビョーク※13っていう女の子のリミックスをやるんだよね」って言われて。
祐真 あのビョークを(笑)。
田中 名曲「ハイパーバラッド」※14をテイさんがリミックスされることになって、「田中くん、なんかイントロ作ってよ」って言っていただいたのです。アディショナル・イントロ・プログラミングっていうクレジットもわざわざくださって。僕は先輩方に恵まれてラッキーでした。引っ張ってもらえることがたくさんあったおかげで、ここまでやってこられたと未だに感謝しています。
祐真 田中さんのファッション性も関係あるんじゃないかな。僕なんかすぐそんな風に考えちゃうんだけど。
田中 音楽と同時に雑誌の編集をやっていたことも、もしかしたらあるかもしれませんね。レコードっていうマテリアル自体が好きでしたし。単に音楽だけじゃないプロダクトとして、デザインだったり、それこそEP-4に遡るプロパガンダだったり、広告だったり、全体の雰囲気として惹かれているものがありました。
祐真 ピチカート・ファイヴも当時スタイリッシュだったし、テイさんのスタイリングもカッコよかったしね。
田中 そうですね。渋谷系※15という言葉が海外に拡散していくのをリアルタイムで見ることができて、その恩恵に預かって海外にDJで呼んでもらうチャンスもいただきました。
祐真 いきなり海外へ行ってDJするってどういう気分でしたか?
田中 意味がわかりませんでした、いろんなことが(笑)。もちろんすべてが素晴らしい現場というわけでもなかったし、ピッチを合わせられないターンテーブルがあったりもしましたし。いつだったかアメリカのデトロイトへ行ったら、前のDJが代わってくれないんですよ、「お前みたいなジャップがDJなんてできるわけないだろ!」って。お客さんは黒人ばかりで超満員。いいから代わってくれよと食い下がり、ドロドロのファンクをかけて客を踊らせたら「ごめんね(笑)」みたいな(笑)。
祐真 ドラマのようですね(笑)。
田中 その時期って、日本の音楽がハイプとして捉えられ、ものすごい勢いでアメリカとヨーロッパに拡散していったんです。僕の認識では、90年代中頃から9.11※16のあの事件までがピークだったような気がしています。
祐真 2001年ですね。
田中 それこそ僕は、9.11の一週間前もワールドトレードセンター※17でDJをしていました。最上階のひとつ下にウィンドウズ・オン・ザ・ワールドっていうでっかいレストランバーがあって、毎週火曜日にアメリカ人の元パイロットのゲイのDJがやってるパーティがあったんですよ。すごくオシャレでイケてるパーティで、そこに何度かDJで呼んでもらっていて。でもその時はDJではなく、GAP※18のモデルとしてニューヨークへ行くことになったんです。
祐真 えっ、広告のモデルですか?
田中 はい、世界キャンペーンのモデルとして、ダフトパンク※19とかメアリー・J. ブライジ※20とかと一緒に、dj honda※21さんと僕が日本から選ばれまして。マリオ・ソレンティ※22が撮るからとりあえずニューヨークに来てくれと言われて、それなら、とワールドトレードセンターでDJをやらせてもらおうと思ったんです。
祐真 それが9.11の一週間前だったんですね。
田中 火曜日だったので2001年9月4日ですね。
祐真 GAPの撮影はどうでした?
田中 楽しかったですよ。それこそ9.11があった年のキャンペーンだったので、僕は実際に見に行けなかったのですが、2001年のクリスマスシーズンは、アメリカ中のビルボードは全部僕の顔だったらしいです(笑)。
Page03. 色々なことがめまぐるしく起こっていた中勃発したアメリカ同時多発テロ
※12 プラスチックス
1976年に中西俊夫(vo/g)、佐藤チカ(vo/dance)、立花ハジメ(g)、佐久間正英(key)、島武実(rhythm box)の5人により結成された日本のテクノポップバンド。個性的なファッションも注目を集めた
※13 ビョーク
アイスランドのシンガーソングライター/プロデューサー/女優。88年にザ・シュガー・キューブスのヴォーカリストとしてデビュー。解散後にソロ活動を開始し、93年に『デビュー』を発表。強烈な個性を放つ変幻自在の歌声とサウンドで世界的な人気を博す。2000年には主演映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』でカンヌ映画祭で最優秀女優賞を受賞
※14 ハイパーバラッド
ビョークが1995年に発表した3作目のスタジオ・アルバム『Post』の収録曲で、翌年シングルとしてもリリースされた人気曲
※15 渋谷系
東京・渋谷を発信地として1990年代に流行した日本のポピュラー音楽のムーブメント。また、同時期に栄えたファッションスタイルを指すこともある
※16 9.11
2001年9月11日の午前中にアメリカの国内便4機がアラブ系のグループによりハイジャックされ、乗客・乗員を道連れにして世界貿易センターならびにアメリカ国防総省本庁舎に衝突したアメリカ同時多発テロ事件のこと
※17 ワールドトレードセンター
かつてアメリカ・ニューヨーク市マンハッタン区のローワー・マンハッタンに位置していた商業施設。ロックフェラー一族が掲げる理想「World Peace through Trade」から命名された。日本語での訳語は「世界貿易センター」
※18 GAP
1969年、アメリカ・サンフランシスコでジーンズ専門店として創業。その後、衣服、アクセサリー、子供服とラインナップを増やし、現在では世界中で約3700店を構える、企画、生産、販売まで一貫して行うブランドに成長した。「クリーン、オールアメリカン、シンプル、グッドデザイン」をコンセプトに、トレンドを取り入れながらデザイン性の高い製品を展開する
※19 ダフトパンク
フランス出身のトーマ・バンガルテルとギ=マニュエル・ドゥ・オメン=クリストの2人組による、ハウス/ディスコ/エレクトロ・デュオ。フルフェイスマスクを被り素顔を公開しないなど、ユニークなパフォーマンスを行う
※20 メアリー・J. ブライジ
アメリカのシンガーソングライター。1990年代初頭に父MCのバッキングボーカリストとしてデビュー。 クイーン・オブ・ヒップホップ・ソウルと称され、アメリカを代表する女性R&Bヒットシンガーとして名を馳せる
※21 dj honda
アメリカを拠点に活動する日本人ヒップホップDJ。音楽活動以外にも自身のファッションブランド「h」をプロデュースするなど幅広く活躍する
※22 マリオ・ソレンティ
イタリア・ナポリ出身のファッションフォトグラファー/ディレクター。ニューヨークを拠点とする広告主、フランチェスカ・ソレンティの息子であり、ファッションフォトグラファーの故ダビデ・ソレンティの兄。1986年、恋人だったケイト・モスがモデルを務めたカルバン・クラインの香水「オブセッション」の広告で一躍注目され「ヌード写真の天才」と呼ばれる
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色々なことがめまぐるしく起こっていた中勃発したアメリカ同時多発テロ
祐真 ブラボー!その時も眼鏡はかけてました?
田中 かけてました。友達のブランドのものだったのですが、使用許諾契約書にサインをしてもらって、それをかけて、GAPのマフラーを10本ぐらい肩から下げてニタァ〜って笑ってる気持ち悪い写真なんですけど(笑)。
祐真 (笑)。スタイリストは?
田中 ニューヨークの方だったと思います。GAPの服と古着がたくさん用意されていました。
祐真 マリオ・ソレンティの印象は?
田中 撮影中に「俺、バンドやってるから聞いて」って言われて、デモテープだったかCDだったかを渡されました。そのままどこかへやっちゃったんですけど(笑)。
祐真 え、聞かなかったの(笑)?
田中 聞いてないです、失礼な話ですよね(笑)。カメラマンとしてはすごい方かもしれないけど、ミュージシャンとしては全く興味なかった(笑)。
祐真 田中くんってそういうところはっきりしてるよね(笑)。
田中 いやいや、天狗でした(笑)。
祐真 僕一回、ブースの横へ行って、田中くんにリクエストしたらシカトされたことありますから。
田中 マジですか(笑)!それはきっとレコードがなかったんです(笑)!先輩のことはシカトしないですよ(笑)!
祐真 GAPの撮影で一番印象的だったことは?
田中 二泊三日の旅だったのですが、飛行機はファーストクラスで、僕専用のリムジンが用意されていたんです。
祐真 最高ですね。
田中 それはもう最高でした。「次はどこへ行きますか、サー?」とか言われて(笑)。じゃ、レコード屋って(笑)。
祐真 (笑)
田中 A1レコード※23に連れて行ってもらいました(笑)。
祐真 リムジンでレコード屋(笑)。マンハッタンでリムジンに乗るのは気持ちいいよね。リムジンってマンハッタンのためにあるのではと思うぐらい。
田中 あの当時は、ものすごい勢いでいろんなことが起こっていました。冗談みたいですが、DJのイベントをやるとゲストリストにプリンス※24、マドンナ※25って書いてあるんですよ。来るか来ないかは別として、一応入っているんですね。マドンナが主宰していたレーベルから『オースティン・パワーズ』※26という映画のサントラが出ているんですが、そこに僕の楽曲も収録されているんです。アメリカでもデビューしていたので、FPMとしていろんな映画やテレビ番組に曲を貸しました。提供した楽曲を使っていたドラマがDVD化されるとのことで、再度契約書が届いたので見てみると『セックス・アンド・ザ・シティ』※27と書いてあって驚いたこともありました。最初に契約書にサインをした時、僕はポルノ映画だと思っていたんです(笑)。
※23 A1レコード
1996年、ニューヨーク・マンハッタンのイーストヴィレッジにレコード・ディーラーのアイザック・コスマンが創立した老舗レコードショップ。ジャズやディスコ、ヒップホップからハウスなど幅広いジャンルを取り扱う
※24 プリンス
アメリカのミュージシャン/プロデューサー/俳優。12作品のプラチナアルバムと30曲のトップ40シングルを生み出し、アルバム・シングルの総売り上げは1億2000万枚以上。数多くのミュージシャンに多大な影響を与えたカリスマ的な存在として知られる。2016年没
※25 マドンナ
17歳でダンサーを志して、35ドルを手にニューヨークへ。下積み時代を経て1982年ロックシンガーとして歌手デビュー。84年に発表したアルバム『ライク・ア・ヴァージン』が大ヒットし、セクシーな衣裳と共に“モンローの再来”と話題になり、一躍大スターに
※26 オースティン・パワーズ
1997年に製作された、マイク・マイヤーズ主演のスパイコメディ映画とそのシリーズ作品、およびそれらの主人公。60年代の英国人スパイが現代に復活し、宿敵と対決する物語
※27 セックス・アンド・ザ・シティ
1998年から2004年にかけてアメリカのケーブルテレビ局HBOで放送された、サラ・ジェシカ・パーカー主演の大ヒット連続テレビドラマ。ファッションやセックス、子育てに至るリアルな話題が満載で、世界中の女性を今なお魅了し続ける作品