祐真朋樹・編集大魔王対談|vol.36 FPM 田中知之さん(前編)
LOUNGE / MUSIC
2019年3月27日

祐真朋樹・編集大魔王対談|vol.36 FPM 田中知之さん(前編)

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今回のゲストはDJ/プロデューサーとして国内外で活躍し、ソロプロジェクト「FPM=Fantastic Plastic Machine(ファンタスティック・プラスチック・マシーン)」名義で音楽活動を行う田中知之さん。ともに京都出身の2人が、お互いのエピソードを交えながら80年代から90年代の京都を振り返ります。

Interview by SUKEZANE TomokiPhotographs by MAEDA AkiraText by ANDO Sara (OPENERS)

バンド活動とバイトに明け暮れた、完全にプロ志向だった学生時代

祐真朋樹・編集大魔王(以下、祐真) 田中さんがDJとして活動されるようになって何年になりますか?

田中知之さん(以下、田中)どこからがスタートと言っていいのかわからないのですが、ターンテーブル2台とミキサーを初めて買ったのは京都に住んでいる時でした。当時19歳でしたので、33年前ですね。

祐真  田中さん自身、DJに憧れていたんですか?

田中  いや、それが全くなくて。祐真さんもあの当時の京都の雰囲気を覚えていらっしゃると思いますが、ニューウェーブ※1のノリがあったじゃないですか。

祐真 ありましたね。

田中 まさに僕はあの感じにどっぷりハマっていたので、ご多分に漏れず、ニューウェーブのバンドをやっていました。時を同じくして、音楽を聞きながらバイトができたらいいなと思っていたんです。カフェバーみたいなところもありましたけど、もっと極端に音楽を楽しめるバイトはなんだろうと思った時に、京都にマハラジャ※2というディスコがあって。

祐真 はいはい!ありました。

田中 もう少し小さいクラブとかもあったけど、ちゃんとバイトの求人があるような大きな箱はマハラジャぐらいしかなかったんですよね。

祐真 四条通のマハラジャですか?

田中 はい、四条通沿いのところですね。まだ全国的に有名になった祇園マハラジャがオープンする前で京都の1号店のほうです。もう1店、三条通に、マハラジャクラブっていう小さいクラブもあって。

祐真 ありました、ありました。

田中 バンドは中学生の時からやっていたのですが、高校3年くらいになる頃にはすでにプロ志向でライブをしていました。大学に進学はしたのですが、ほとんど行かず、もっぱら音楽ばっかりやっていましたね。そんな中、高校卒業が決まったぐらいに、そのマハラジャの2店舗でバイトを始めたんです。当然お皿を廻すDJのバイトではなくて、お皿を洗うほうのバイトだったんですけど(笑)。でも音楽が聞けるからよかったんです。

祐真 なるほど。

田中 バイトを始めた当初はDJなんて見たことも聞いたこともなかったので、「あの人は一体、ヘッドホンを耳に当てながら何をしているんだ?」って、今、世の中の人が僕らのやっていることを見て思うだろうことと同じことを僕も思いました(笑)。

祐真 (笑)

田中 何度か見ているうちに、次の曲を頭出ししてミックスしているんだなということがわかってきて。当時はバンドばっかりやっていたので、DJなんていうのは全く眼中になかったんですけど、なんとなく興味が芽生え始めた頃ですね。ちょうどRun DMCが一気に世の中に出てきて、ヒップホップがメジャーになってきたような時代で、ターンテーブルは単に音楽を流すだけでなく楽器としても使えるんだ、ということを知って余計に興味が沸きました。そして19歳になった頃、バイトでコツコツ貯めたお金でターンテーブルとミキサーを買ったというわけです。

祐真 その頃、ミュージシャンとDJの違いは感じていました?

田中 もちろん、僕はニューウェーブのバンドをやっていたし、完全にミュージシャン志向だったので、ミュージシャンとして音楽を作ったり、バンドをやったりすることに代わるものなんていう認識はDJにはありませんでした。でも、楽しそうな仕事だなというのはありましたね。当時、宝島社が「キャプテンレコード※3」っていうインディーのレコード会社をやっていたんですけど、そこでバンドとしてデビューできることになったんですよ。バンド仲間と曲を作って、録音していよいよリリースだ、という時にキャプテンレコードが活動休止しちゃって。

祐真 映画みたい(笑)。

Page02. 青春を過ごした80年代京都のニューウェーブシーン

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青春を過ごした80年代京都のニューウェーブシーン

田中 その頃、世の中はバンドブームだったんですけど、それもドーンと下火になった瞬間でした。

祐真 イカ天※4が流行ったような時代ですか?

田中 そうですね、90年代にさしかかる前でしたね。その辺りは大学も行かずにバンド活動に没頭していて、どうやってプロになろうかということばかり考えていました。その頃、祐真さんはもう東京にいらっしゃいましたか?

祐真 僕はもう東京でした。

田中 芝浦に>インクスティック※5ってあったじゃないですか。

祐真 懐かしいですね。

田中 あそこに僕、京都から車に乗ってライブしに行きましたもん。

祐真 すごいなぁ(笑)。>日本音楽選曲家協会※6のイベントもありましたよね?

田中 >革命舞踏会※7

祐真  そう!(桑原)茂一さんがやっていたイベントですね、よく行っていました。

田中 その頃にはDJは市民権を得ていたし、自分もレコードを買ってDJを始めていたんですけど、まだなんとかバンドでどうにかできないもんかな、なんて思っていました。

祐真 田中さんはバンドでなんの楽器を演奏していたんですか?

田中 ベースです。当時>EP-4※8っていう京都を拠点にしたバンドがあって。カルト的人気だった伝説のニューウェーブのファンクバンドなんですけど知ってますか?最近再結成もしてるんですけど。

祐真 なんだか聞き覚えがあるような……。

田中 きっとご存知だと思うんですよ、変わったことばかりやっていた人たちだったんで。彼らがデビューして出てきた時、僕は中学生だったのですが、とにかくカッコよくて。宣伝の仕方とかがいちいち洒落ていたんですよね。1983年5月21日に伝説のライブをしたんですが、その告知として、521っていう数字とEP-4っていうバンドのロゴマークを入れて作ったステッカーを京都中の公衆電話に貼ったり。かと思ったら、どこで僕の住所を調べたのか、EP-4のロゴだけが入った郵便物が突然海外から届いたり。何もわからないガキンチョのところにいきなり好きなバンドからエアメールが届いたらしびれるじゃないですか!

祐真 確かに(笑)。

田中 当時、大沢伸一くんと僕は、EP-4を頂点とする京都のニューウェーブシーンの一番末っ子みたいな立場にいたんです。「よくわからんけど、この人らカッコええな」と思いつつ、それに対して「僕らはどこまで理解しているんだろう」という風に思いながらも、やっぱり中学時代にガツンと影響を受けちゃったのは大きかった。アンダーグラウンドな、京都っぽい感じを残しながら活動をしていた人たちでした。

祐真 どのような活動をしていたんですか?

田中 藤原新也さんが撮った、金属バット殺人犯の家の写真をレコードのジャケットにするというような、社会的にもセンセーショナルなことをしたり。

祐真 >一柳展也※9の家ですね。

田中 まさにそうです、よう名前まで知ってますね!一柳展也の家の写真がジャケットになった「リンガフランカ1-昭和大赦」というレコードを本屋に流通して売っていたんですよ。公序良俗に反したのか、レコード屋で売ることができなかったのか忘れましたけど、EP-4はとにかくしびれることをいろいろとやっていたんです。

祐真 その当時の京都って特別でしたよね、パフォーマンスもさかんで。

田中 ニューウェーブの世界があって、京都大学のまわりにいるような学生運動をまんま引きずったような人たちや>ダムタイプ※10の人たちをはじめ、いろんな人が出入りしていたのが、僕らの10代からの京都だった。そんなヤバい空気に感化されながら、そのまま20代に突入していったような気がします。

祐真 僕は86年に東京に出てきてしまったんだけど、あの頃の京都は面白かったですね。

田中 僕はそこから、28〜9歳ぐらいまで大阪と京都の両方に住んで、アパレル会社に勤めたり、出版社に勤めたりと関西で過ごしていました。いい意味でも悪い意味でもあの時代の京都を見られたのは今となってはよかったのかなと思います。あ、それに、僕たちは小学校の時に少年野球で戦っていますからね(笑)。

祐真 西陣タイガースとガッツ上賀茂(笑)。面白いよね。覚えてたんですよ、僕。

田中 でかい奴おったな、って大きさで覚えていてくれたんですね(笑)。

祐真 以前『>ブルータス※11』で取材に行ったでしょ、京都のお宅まで。

田中 来ていただきましたね。94年か95年頃でしたね。

祐真 田中さんはこんなところに住んでいるんだなぁって話してるうちに、実家は西陣なんですって言われてフラッシュバックしたんですよ。あれ?って。あなた、少年野球やってたでしょって(笑)。大沢くんにも京都で会っていたし。当時、大沢くんは服屋で働いていて、僕もよく行ってたから、彼のことは知っていた。その後、東京に来て、沖野(修也)くんと大沢くんが一緒に活動しているのを見て「あ!」って。

田中 全部つながってるからすごいですよね。僕、沖野くんとは大学の同級生なんですよ。僕は卒業するまで彼のことは知らなかったんですが、沖野くんは僕がベースを担いでキャンパスをうろついていたのを見ていたそうで。僕よりもちょっとはやく東京に出て、ほぼ同時ぐらいに大沢くんが>モンド・グロッソ※12でデビューが決まったから東京に行くことになった。モンド・グロッソ以外にも関西で大沢くんはバンドをやっていて「そっちのバンドのベースをやってよ」って、当時僕が働いていた雑誌社の編集部に電話がかかってきたこともありました。

祐真 面白いですね。僕が沖野くんに初めて会ったのは、ラフォーレでモッズイベントをやった1993、4年頃。前座で浅野(忠信)さんがライブパフォーマンスをして、若槻(善雄)さんが演出をして、僕はモデルキャスティングとショーのスタイリング、それからHIROMIXさんと一緒に審査員をして、(桑原)茂一さんがプロデュースをしたというイベントでした。モッズの人たちがたくさん来て面白かったんですよ。その時バックステージに、沖野くんが挨拶しに来てくれて会ったのが最初。面白い人がいるんだなって思いました。その後すぐに、伊勢丹でファッションショーのイベントがあったのですが、そこでも僕はスタイリングをして、モンド・グロッソがそのショーに合わせてライブを行って。その頃沖野くんはマネージャー兼プロデューサーで、大沢くんが演奏していた。面白いことになってきたなって思ったのを今でも覚えています。

田中 懐かしい時代ですね。

祐真 田中さんが東京へ来たのはそのすぐ後でしょ?

田中 そうですね。阪神大震災の年ですから、95年です。

Page03. 大学卒業後は音楽漬けのサラリーマン生活の日々

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大学卒業後は音楽漬けのサラリーマン生活の日々

祐真 話を少し戻しますけど、レコード会社がなくなって、デビューの話がなくなった後はどうなったのですか?

田中 ミュージシャンになろうと思っていたけど、夢破れて、これは就職しないといけないなと思いました。音楽の次に何が好きかな?と自問した時に、洋服が好きだったので、アパレル会社に絞って就職活動をしました。当時はバブル崩壊直前ぐらいだったので、就職先なんて誰でもどこでも望めば行けたような時代でした。1989年に就職活動をして、90年に入社する流れだったと思います。僕も軒並み活動したら、全ての会社から内定をもらうことができたんですよ。そのうちのひとつが、今はなくなっちゃったのですが>ライカ※13という会社で、「企画部に入れてくれたら入社したいです」って言ったら「じゃあ入れてやる」って企画部に内定をもらって、就職することになりました。

祐真 そこにはどれぐらいいたんですか?

田中 4、5年ほどMDという仕事をしていました。子供服から紳士服、婦人服のMDというか生産管理なんかを担当して、サラリーマンとしてやっていたんですけど、当時から色々なところでごはんを食べるのが大好きで。ある時、京阪神エルマガジン社という出版社が出している女性向けのファッション情報誌『>サヴィ※14』から、会社宛に連絡が来たんですよ。ライカで働く人たちはどこで食事をしたり遊んだりしているのか取材させてほしいと。広報部の人に「田中、食べるの好きやろ?」って言われて「はい」って。

祐真  (笑)

田中 そんなわけで同僚3人くらいでその取材を受けたんですね。その時、取材に来られた人に「あなたは雑誌の編集者に向いているから、うちに来い」って誘われたんです。そこまで言ってくれるんだったら……と、「この間取材を受けた出版社から働きに来いって言われたんですけどいいですか?」って会社に言いに行きました。「しょうがないけど、そのかわり仲良くしよう」と言ってもらえて、円満退社をして、そのままサヴィ編集部に正社員として入ることになりました。なかなか狭き門の関西唯一の出版社に。

祐真 面白い経歴ですね。その間DJ活動は?

田中 やってました。終電まで働いて、その後、朝までDJというめちゃくちゃな生活で、もらった給料は全部レコードに消えていきました。ライカを辞めるか辞めないかという時に京都のメトロというクラブで初めてDJをしたんです。忘れもしない、1992年の7月に、映画のサウンドトラックだけをかけるというイベントをやったんです。世界初だったと思うんですよ、映画のサウンドトラックだけでクラブイベントをやるっていうのは。

祐真 それは田中さんだけが廻していたんですか?

田中 僕と仲間3人ぐらいで「サウンド・イムポッシブル」っていうDJチームを組んで、映画のサウンドトラックだけをかけるということを打ち出してやっていたんです。

祐真 サウンド・イムポッシブル。ネーミングも面白いですね。

田中 DJイベントをやったら、そこそこ人が入っちゃったもんだから、メトロの木曜日の帯を任されることになった。当時一緒にDJをしていたのが、京都工芸繊維大学の講師をやっていた伊藤弘さん。

祐真 伊藤さんにも以前『ブルータス』で取材しました。

田中 >グルーヴィジョンズ※15結成前の伊藤さんはDJもやっていて、その後VJにもなっていくんですけど。DJをやりながら映像みたいなものを流すのって今でこそ普通にできるけど、当時は映像なんてそう簡単に作れないわけですよ。一般の家庭用のMacintosh IIciなんかじゃ情報処理能力的に無理なわけで。でも、伊藤さんがいらした京都工芸繊維大学には、シリコングラフィックス※16っていうところのインディゴという2000万円ぐらいするコンピューターがあって、それでVJ的な素材を作ることが可能だったんです。

祐真 見せてもらいました、岩倉で。ピチカート(ファイヴ)の映像を作ってて、あまりにすごくてびっくりしました。

田中 そう、それが僕らのDJパーティに来ていただいたピチカートの小西(康陽)さんの目に留まり、映像を依頼されることになったんです。東京でもVJなんて誰もやっていなかったのに、我々は伊藤さんという人がいたから、環境的にそういうことができちゃってたんですよね。それからもう1人、ミルクマン斉藤っていう映画評論家として活躍されている方がいるんですけど、僕が高校生の時にレンタルビデオ屋で一緒にバイトしてた先輩なんですよ。バンドも一緒にやっていました。彼はトランぺッターにして、映画オタクだった。2人とも音楽と映画が好きだからってレンタルビデオ屋でバイトをしていて。その斉藤さんをグルーヴィジョンに紹介して、彼が所有する膨大なVHSの映画のアーカイブと、伊藤さんの作る初期コンピューターグラフィックを合体させて、僕らの映画音楽のイベントで流し、それを見た小西さんが「これは!」って彼らを東京に引っ張ったという流れですね。同時に、僕らのDJを面白がってくれて、「田中くん、DJでやっていくつもりなら、自分で音楽作ったほうがいいよ」と言ってくれて「そうですかー?」なんて調子に乗っちゃって(笑)。また、同じ時期に京都で大きなイベントをやることになって、誰を呼ぼうかという話になった時に、「ディー・ライトっていうグループが大好きなので、メンバーのテイ・トウワさんを呼びたいです」って言ってNY在住だったテイさんを呼んだんです。1994年でしたね。それで、テイさんからも同じような啓示を受けて音楽を作り始めたのが、FPMになっていったというわけです。

中編へ続く

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※1 ニューウェーブ
英米の音楽界で1970年代後半から1980年代前半にかけて流行したジャンル

※2 マハラジャ
1980〜90年代にNOVA21グループが日本全国に展開した高級ディスコチェーン店の総称。バブル期を代表するディスコの1つでもある

※3 キャプテンレコード
当時サブカルチャー誌であった雑誌『宝島』が1985年に発足した音楽レーベル

※4 イカ天
TBSで放送された深夜番組『平成名物TV』の1コーナー、「三宅裕司のいかすバンド天国」。1989年2月11日に始まり、1990年12月29日に多くのバンドを輩出して幕を閉じた

※5 インクスティック
東京・芝浦にあった大型ライブハウス、インクスティック芝浦ファクトリー。1986年12月5日にオープンし、1989年12月31日に惜しまれつつクローズした

※6 日本音楽選曲家協会
日本のクラブカルチャーの仕掛人である、音楽プロデューサー/選曲家の桑原茂一氏が1987年より主宰を務める選曲家の任意団体

※7 革命舞踏会
桑原茂一氏と日本音楽選曲家協会が定期的に開催していたDJイベント

※8 EP-4
日本のニューウェーブバンド。 結成当時は京都府を拠点に、多くのカセットやレコードを発表。エキセントリックかつゲリラ的な戦略で、常に自主制作音楽業界の話題の中心に存在した

※9 一柳展也
1980年11月29日に起きた神奈川金属バット両親殺害事件の犯人

※10 ダムタイプ
京都市立芸術大学の学生を中心に、1984年に結成されたアーティストグループ。建築、美術、デザイン、音楽、ダンスなど異なる表現手段を持つメンバーが参加し、芸術表現の可能性を模索する。京都を拠点とし、海外公演を中心とした活動を行う

※11 ブルータス
マガジンハウスが1980年5月に創刊した男性向けライフスタイル情報誌。毎月1日・15日発売

※12 モンド・グロッソ
1991年に京都で大沢伸一氏がリーダーとなり結成された元バンドで、現在は大沢氏のソロプロジェクト。バンド名はイタリア語で「大きな世界」という意味。楽曲のジャンルはクラブミュージックが中心

※13 ライカ
株式会社ライカ(RAIKA CO.,LTD.)は大阪を本拠地として1957年に創業した、かつて存在した日本の衣料品製造販売会社。2011年4月30日付で事業を停止、解散

※14 サヴィ
京阪神エルマガジンが月刊発行しているライフスタイル情報誌『SAVVY』。1984年11月創刊

※15 グルーヴィジョンズ
伊藤弘氏を中心として1993年に京都で設立されたデザイン集団。グラフィック、ムービー、プロダクトなど様々なデザインを行う。97年より活動拠点を東京に移す。着せ替えキャラクター“チャッピー”で注目を浴びる。

※16 シリコングラフィックス
1982年に設立された、3Dグラフィック用のハードウェアやソフトウェアを開発・販売するアメリカのコンピュータメーカー

           
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