モエ・エ・シャンドン モエ アンペリアル 150年 アニバーサリー(2)| MOËT & CHANDON
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2019年6月12日

モエ・エ・シャンドン モエ アンペリアル 150年 アニバーサリー(2)| MOËT & CHANDON

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MOËT & CHANDON|モエ・エ・シャンドン

モエ・エ・シャンドンとシャンパーニュの276年

モエ アンペリアル 150年 アニバーサリー(2)

1600年代の後半に、偶然も手伝って誕生したシャンパーニュ地方の発泡するワインは、造り手たちによって磨き上げられて、シャンパンという特別なワインとなった。フランス王室の庇護を受け、時代にも愛されたシャンパンを、モエ・エ・シャンドンは、いち早く、世界に広めてゆく。封建社会から市民社会へと時代が移ってゆくなかで、モエ・エ・シャンドンの存在感は揺るぎないものとなってゆく。

Text by SUZUKI Fumihiko

シャンパンを世界に

では、シャンパンを世界に、のほうはというと、これはクロード・モエのビジョンだ。

クロード・モエは有能なビジネスマンであり、そもそもワイン商として、フランス国外にもコネクションがあった。そして、フランス王室を魅了した発泡するシャンパンのワインを、フランス国外にも広めていったのだ。ドイツ、スペイン、ベルギー、そしてロシアにまでシャンパンは広まる。クロード・モエの死後ではあるけれど、1787年にはアメリカにも輸出され、18世紀の間にシャンパンは欧米の上流階級の間で、その名声を確立した。

かくして、成功するモエのシャンパンだけれど、いっぽうフランス王家のほうは紆余曲折あり、革命の後、フランスは皇帝が支配する国となる。そして、この皇帝、ナポレオン・ボナパルトもまたシャンパンに魅了された人物だった。

「余はシャンパンなしでは生きられん」といい、勝利の祝杯にシャンパンを注ぎ、負ければシャンパンで敗北を慰めたと伝えられる。ちなみに、ナポレオンはロシア戦役で敗れるけれど、ナポレオンに敗れたロシアの貴族もシャンパンには魅了されていたので、シャンパンは政治の敵味方を超越している。

ナポレオンはモエ・エ・シャンドンのお得意様だった。シャンパーニュ地方エペルネにある、モエ・エ・シャンドンの発祥の地にして現在も本社がある「ホテル モエ(モエの館)」にはナポレオンが試飲に訪れたという「ナポレオンの部屋」があり、そこには皇帝が酔って眠くなってもいいように、ソファーもある。そして、ナポレオン一家からの注文を取りまとめたノートが、いまも残っている。

こちらがそのノート。ナポレオン・ボナパルトのみならず、ナポレオン一族の注文が丁寧にまとめられている

ここは現在、ユネスコの世界遺産に登録されている。地下にはシャンパーニュ地方最大となる総延長28kmの巨大セラーがあり、そこも世界遺産。セラーにも、ナポレオンが訪れたことを示すプレートや、ナポレオンの訪問の際に贈られたナポレオン カスク(樽)など、皇帝の痕跡がある。現在はどちらも、私たちも見学できる。

モエ・エ・シャンドンが誇る地下セラー。奥に見えるのがナポレオン カスク。光によるワインの劣化をふせぐため、肉眼では照明が赤いけれど、実際はシャンパーニュ地方を特徴づける白亜紀のチョーク質土壌を削って出来た白い洞窟。この土壌はスポンジのように水を蓄え、干ばつでもブドウに充分な水を供給し、セラーを乾燥から守り、温度を一定に保つ。

ナポレオンから注文を受けたのはクロード・モエではない。クロード・モエは1760年にこの世を去り、当時の当主はその孫にあたる三代目。18世紀末から19世紀はじめに、モエを牽引したジャン・レミー・モエだ。ジャン・レミーは、ナポレオンだけでなく、国外の王侯貴族と厚い信頼関係を結んだ、クロードの精神の継承者だ。

1807年、モエ・エ・シャンドンのカーヴを訪れたナポレオンを案内するジャン・レミー・モエ

シャンパンにおける継承は、単に継続だけを意味しない。たとえば、人気高まるシャンパンには、ブドウ畑がもっと必要だったから、ジャン・レミー・モエはブドウ畑の開墾に乗り出し、シャンパーニュ地方で良質なブドウを栽培できる土地の発見と、栽培法の発展にも貢献した。現在約1200haとシャンパーニュ最大の自社畑をもち、しかもそのうち50%がグラン・クリュ(特級)、25%がプルミエ・クリュ(一級)というモエ・エ・シャンドンの原点はジャン・レミー・モエにあり。シャンパンは、農業にも、醸造にも、ボトリングにも、貪欲に時代の先端技術の導入し、なければ発明し、ノウハウを蓄積する。ジャン・レミー・モエは、そういうシャンパーニュの革新によって伝統を紡ぐスタイルの体現者だった。

19世紀中に、モエのシャンパンはブラジルやカナダにも出荷され、世界はモエの魔法にかかってゆく。

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MOËT & CHANDON|モエ・エ・シャンドン

モエ・エ・シャンドンとシャンパーニュの276年

モエ アンペリアル 150年 アニバーサリー(2)

モエ家とシャンドン家とシャンパーニュの戦い

ところで、ここまではモエ家の話だ。1833年、ジャン・レミーの引退ともに、モエはモエ・エ・シャンドンとその名を変えた。これはジャン・レミーの息子のヴィクトールと1816年に、ジャン・レミーの娘、アデレイドと結婚した、ピエール=ガブリエル・シャンドンがジャン・レミーの事業を引き継いだからだ。モエ家とシャンドン家だからモエ・エ・シャンドン。ちなみに、モエというのは15世紀にまで遡る伝統ある名前なのだけれど、フランスで正しくはモエ“ット”と最後のTを発音する。だからモエット・エ・シャンドンという人がいても、それは間違いではなく、むしろその人物はモエ・エ・シャンドンのことをよく知っている可能性があるので、ご記憶めされよ。

モエ・エ・シャンドンとなってしばらく、19世紀末から第一次世界大戦までの時代に、シャンパンは苦難の時代を経験する。

それはシャンパーニュ地方に限った話ではなく、ヨーロッパ中のワインに影響する話だけれど、フィロキセラという体長1mmほどの小さな虫によって起こった。ヨーロッパに持ち込まれたアメリカのブドウ樹についていたとされるフィロキセラは、ヨーロッパのブドウ樹に寄生すると、根から栄養を奪い、枯死させてしまうのだ。1863年にフランスで確認され、シャンパーニュ地方では1888年に確認された。当初は対処法がなく、対処法が発見されて以降も、1900年代の初頭まで、被害が拡大し、壊滅的な打撃をワイン業界に与えた。銘醸地では、伝統の土地でのワイン造りを諦める造り手もいた。けれども、このとき、モエ・エ・シャンドンの当主だった、ラウル・シャンドン・ド・ブリアイユは、シャンパンを守るためフィロキセラと戦った。モエ・エ・シャンドンのもつ財力と人脈を投じて、フィロキセラ対策の研究所を設立。これが、いまも続く、モエ・エ・シャンドンのブドウ栽培研究施設の始まりとなる。

ちなみに、フィロキセラを食い止めるためには、フィロキセラで被害を受けないアメリカのブドウ樹を台木にして、ワイン造りにむいたヨーロッパのブドウの枝を接ぎ木すればよい、ということは、1870年代にはわかっていたようだ。しかしこれは、それまでのブドウ樹を諦め、接ぎ木する品種にあった台木を植え、そこに実際に接ぎ木する、という労働力だけでなく、心理的、経済的にも困難な作業を要求した。

これと時をおなじくして、シャンパーニュ地方では、あとを絶たない産地偽装に業を煮やした造り手たちが原動力となって、シャンパンを定義してゆく。つまり、シャンパーニュ地方で収穫されたブドウを、シャンパーニュ地方で醸造した発泡性ワインのみがシャンパンと名乗ることができる、というルールが法的に決まったのだ。いまも、シャンパンは、他のスパークリングワインと比べても、より厳格なルールをもつ。スパークリングワインの同義語みたいな曖昧な存在ではなくなってゆくシャンパン。シャンパンは、シャンパンを守ろうと努力する人が造るワインだ。

その名も「シャンパーニュ大通り」にある、モエ・エ・シャンドンの本拠地。ここに「ホテル モエ」があり、地下にセラーがある。シャンパーニュ地方の経済の中心地である

15分、時に先んじろ

20世紀は市民の時代だ。もはや、シャンパンは、封建貴族だけのものではない。だからこそ、シャンパンをシャンパンとして定義する必要があったともいえるかもしれない。デモクラシーの20世紀、シャンパンは世界のスパークリングワインの王者になった。

そのシャンパンの覇権を確たるものとした人物のひとりに、1930年からモエ・エ・シャンドンを率いた、ロベール=ジャン・ド・ヴォギュエがいる。

ロベール=ジャンは、モエ家の一員であるジズレーヌの夫であり、貴族出身でもあり、そして貴族的精神の持ち主だ。だから、1941年に設立され、現在も続くシャンパーニュ地方でシャンパン造りと販売に関わる人々の利益の調整機関であるシャンパーニュ委員会の初代共同代表を務め、そんな立場でなくとも、労働者や小規模生産者・栽培家のために尽くした愛郷の人だ。第二次世界大戦時には、レジスタンスとして戦って、ナチスに捕まってもいる。

そして、モエ・エ・シャンドンにおいては、ステンレスタンクの導入をいち早く進めた、改革者でもある。

ロベール=ジャンは、保守的な人物ではいささかもなかった。ジェットセッターであり、妻とクルマを愛し、そしてとりわけ、アメリカが好きだった。完璧な英語を話したとされるロベール=ジャンは、アメリカを尊敬し、また尊敬される、チャーミングで、オープンなフランス人だった。アイゼンハワー大統領とゴルフをして、ゲイリー・クーパーとディナーをともにして、そして、フォーマルにもカジュアルにもモエ・エ・シャンドンを楽しんで、ワインの堅苦しいイメージを吹き飛ばした。ロベール=ジャンとともに、モエ・エ・シャンドンは、20世紀をリードするアメリカで愛された。

ロベール=ジャン・ド・ヴォギュエ(1896-1976)

こんな最高のアンバサダーに恵まれたモエ・エ・シャンドンは、1962年、シャンパンの造り手としてはじめて、フランスのストックマーケットに名を連ね、以降、シャンパーニュ発にして初の、インターナショナルプレイヤーとして、ビジネスの世界でも、数々のマイルストーンを打ち立てゆくのだった。とりわけ、1971年、コニャックの造り手、ヘネシーとの合併は今日のラグジュアリーブランドのコングロマリット、LVMHの原型としても、歴史的だった。

1976年.ロベール=ジャン・ド・ヴォギュエは80歳でこの世を去る。しかし、華やかな祝祭の場、それは現代においては映画であり、スポーツであり、芸術であり、政治の場に、いまもモエ・エ・シャンドンはあり続けている。

ロベール=ジャンの残した言葉に、現代での成功を鋭くついた言葉がある。「15分、時に先んじろ」。現代という時代が続く限り、モエ・エ・シャンドンが15分、先をゆく限り、シャンパーニュのリーダーたるその地位は揺るがないだろう。

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モエ・エ・シャンドンとシャンパーニュの276年 第3回へ続く(近日公開予定)

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