祐真朋樹・編集大魔王対談|vol.31 篠山紀信さん
Page. 1
今回のゲストは、写真界の巨匠・篠山紀信さん。雑誌の連載や写真集の撮影でご一緒するたびに、その視点の斬新さはもちろん、新しいことにも果敢に挑戦する姿勢に感服しっぱなしという編集大魔王。この日は先生のアトリエを訪ね、新作の背景と次回作への意欲をうかがいます。
Interview by SUKEZANE TomokiPhotographs by SATO YukiText by HATAKEYAMA Satoko
館シリーズ最新作『処女(イノセンス)の館』とは!?
祐真朋樹・編集大魔王(以下、祐真) 昨年末から今年にかけて原美術館で展示された『快楽の館』から始まり、春に写真展が催された『LOVE DOLL×SHINOYAMA KISHIN』、そして今回アサヒカメラ新年号に掲載される新作の『処女の館』。僕はラッキーなことにそれらすべての撮影にご一緒させていただいたわけですが、先生のお仕事ぶりを拝見して、『LOVE DOLL×SHINOYAMA KISHIN』でいったん館シリーズは終わるのかな、と思っていました。でも、さらに新しく斬新な切り口で作品をお撮りになった。その原動力になったものは何だったんでしょうか。
篠山紀信(以下、篠山) まぁ、撮り続けていると次から次へと才能が溢れ出てきちゃってね(笑)。というのは冗談にしても、僕はひとつのテーマを撮り終えるとすぐに「じゃあ次は何なの?」と思う質なんです。次に撮りたいものが自然と湧き出て、その思いのままに撮っていると作品ができあがっている。こんどの『処女の館』はアサヒカメラ新年号で表紙のほかにグラビア32ページほどを掲載していて、『快楽の館』『LOVE DOLL×SHINOYAMA KISHIN』とは連作のような体になっています。
祐真 『快楽の館』は躍動的な印象がありましたが、『LOVE DOLL×SHINOYAMA KISHIN』や『処女の館』はしっとりとした美しさを感じますね。
篠山 『快楽の館』は、原美術館という歴史のある特別な館に現れる不思議な女性たちを撮り、彼女たちが現れた場所に写真を飾るという入れ子状のものでした。しかも、前回のアサヒカメラ新年号では『快楽の館2』として、その女性たちが再びあの館に現れて何かをするという入れ子の入れ子という体裁になりました。そういう展開が面白いなと思っていたところに、「ラブドールを撮りませんか」というお話をいただいたんです。
祐真 なるほど。そういう流れだったんですね。
篠山 僕はそもそもラブドール愛好家ではありません。生きている女の子の方が断然好き。ただ、昔はダッチワイフと呼ばれた性具であるラブドールが、ここ数十年の間でものすごく進化していて、テクノロジーにおいても日本が最も進んでいる。しかも、ラブドールは限りなく人間に近づけるように作るわけで、じゃあ人間と同じように撮ったらどうなのか、さらに、人間の女の子をそばに置いて、ともにヌードにして撮ったらどうなるのかという興味が湧いてきたんです。だから性具としてラブドールを愛する人たち、いわゆる「ドーラー」とは一線を画しているんです。
祐真 僕も撮影で初めてラブドールを目にして、その質感や精巧さに驚きました。それに、かなり高価なものでもありますよね。
篠山 僕は将来的にこういった美しく完成されたドールが人工知能を搭載されて進化していくと、人間の能力を超えていくことが本当にありえると思っています。SFの世界ではドールが人間よりも優秀になって、最終的にはドールがイニシアチブを取る世界が来るというストーリーもたくさんあります。
けれど、僕の切り口はそこまでSFチックなものではなく、人間とドールが一緒に生活をしたりセックスをしたりする世界が、すぐにでも到来するんじゃないかという部分。今まで自分たちが生活していた世界とは違う、新しい世界が拓けるとも思っています。『LOVE DOLL×SHINOYAMA KISHIN』はラブドールと人間のミックスでしたけど、『処女の館』はラブドールと人間にマネキンをプラスしています。3つが一体化して、誰が生身の人間か分からなくなるという世界。今は僕が作ったフィクションですけれど、この世界がどこにあるのか、近過去なのか未来なのか、この人たちは死者なのか生者なのか、ここでは一切わからない。それらが混じった不思議で官能的な世界を作りたいと思って撮ったのが、この『処女の館』なんです。
祐真 今回は新しくマネキンが加わりましたけれど、先生が「マネキンもイケる」と思われたきっかけは何だったんですか。
篠山 マネキンとモデルを一緒に撮っている写真家はこれまでにも何人かいるんです。ヘルムート・ニュートンはファッションモデルと一緒に撮っているし、ベルナール・フォコンは古い子どものマネキンを集めて撮った名作がある。でも、ニュートンの作品ではマネキンはモノとして存在して、そこに人間が絡んでいる。僕の作品は「マネキンもラブドールも人間と一緒に生きているんじゃないか」という作り方です。むしろ人間の方が能力として劣っているなんじゃないかという見方もできるんです。近未来にはそういう不思議な世界が存在するんじゃないかという思いが、フツフツと湧いてきたわけです。才能が溢れ出ちゃったわけですね(笑)。
祐真 現代の人間に対する一種の問いかけにもなっているわけですね。ところで、この今回の作品を撮った館ですが、先生としては最初からああいうデカダンスな場所でというイメージがあったんでしょうか。
篠山 フィクションの世界ですから、我々が日々生活しているリアルな雰囲気が感じられない場所だったらどこでもよかったんです。たまたま田舎の山の中にいい場所があったので、そこでなおさらイメージがばーっと膨らんだとうわけです。
よく「場所はどこですか?」と聞かれるんですが、それはあえてお答えしない方が面白い。見ている方にいろいろな想像をしてもらうのがこの作品のテーマでもありますから。
モデルやマネキンやドールが持っている個性を念頭に置いて、人間は限りなく人形のように、人形は限りなく人間のように。また、生気にあふれている人は限りなく死者に近いようにというイメージがミックスされているんです。
だからますます、この世なのか、あの世なのかがわからなくなる。ある意味、夢の世界です。彼女たちを「処女(イノセンス)」としたのも、人間が持つ生々しいエロスやセクシャリティが出てこないほうがいいかなと思ったから。もっと高い次元で昇華されたエロスなんです。
祐真 先生はモデル、ラブドール、マネキン、その全てをご自分で厳選されていて、特にマネキンは相当こだわっていらっしゃいました。ということは、マネキンを選ぶ段階で、それらの思いがあったというわけですか。
篠山 実は今、人間をリアルに再現したマネキンというのはすごく少ないんです。マネキンの表情が限定されると服が似合わなくなってきますから、抽象化されたものが多い。アサヒカメラの新年号の特集の最後に載った僕の文章に「不気味の谷を越えたのかな」というフレーズがあります。不気味の谷とは、1970年代にロボット工学の科学者が言い始めた言葉で、ロボットや人工生命が人間に限りなく近づいてくると、最初は可愛いと思うけれど、ある点を超えると不気味に感じるという理論です。さらに実物と見分けがつかなくなるほど精巧になると、逆に好印象に転じる。その人間の感情をグラフにすると谷のようになるので「不気味の谷」と言うらしく、ネットではよく知られた言葉です。僕もドールやマネキンを人間に近づけていくけれど、ある点よりも人間に近くなったらどうなっていくのかなという興味はあります。それらがどんどん精巧になっていった時に我々はどう感じるのか。興味深いですよね。
祐真 確かに不思議な感覚になりそうです。そういえば『LOVE DOLL×SHINOYAMA KISHIN』写真集の帯にも「想像を超えた美の存在に遭遇した時、僕は近未来の迷宮にいるような不安を感じる」と書いていらっしゃいました。
篠山 心の不安とか動揺は、モノを作るときに莫大なエネルギーになるんです。祐真さんと撮影でお会いする時はいつも能天気で調子のいい写真家を演じていますが、実は非常に思慮深くナイーブな写真家なんですよ(笑)
祐真 すいません、こんな僕に合わせていただいて。本当にありがとうございます、勉強になります(笑)。
Page02. 今の時代は今のカメラで取るのがいちばんいい!
Page. 2
今の時代は今のカメラで取るのがいちばんいい!
祐真 先生は、アサヒカメラの新年号の表紙と巻頭グラビアはもう何年ぐらいやられているんですか。
篠山 1995年からなので、もう23年になりますね。
祐真 それはやはり先生のその年々の心の動きというか、最も興味のある対象を撮られているのでしょうか。
篠山 もちろん、自分が興味のない事はテーマとしては取り上げませんけれど、アサヒカメラというメディアが、そもそもカメラ愛好家のための雑誌なわけです。だから写真的に難解すぎず、読者の方が「どうやって撮ったんだろう」「こういうのを撮ってみたい」と多少なりとも思っていただくようなものがいいのだろうとは思っています。それと、新年の晴れやかな号ふさわしい、スケールの大きい写真がいいのかなと。まぁヌードも多いんですけれど、歌舞伎や世界的なバレエダンサーもずいぶん撮りました。ここ数年は館のシリーズで、どこにあるかわからない幻の館に僕が迷い込むと、そこには美しい女たちがいるというストーリーが続いています。
祐真 館のシリーズは本当に最高だなと思います。まるで竜宮城のようでファンタジックだしロマンがある。
篠山 そう、竜宮城! だから玉手箱をぱっと開けた瞬間にみんな現実に戻って老人になってしまうという。そういうものに近いですよね。だからお正月はみんな竜宮城に行きましょう!ということでいいんじゃないですか(笑)。
祐真 それだと温泉に行くCMみたいになっちゃいますよ(笑)。
篠山 それと、女性の裸って似ているようで似ていないんです。ヌードというテーマにしても、だんだん近未来的になってきていますから。
だから前回の新年号に掲載した『快楽の館2』では、原美術館から抜け出た女性たちが館を闊歩する作品になりました。
今回の新年号では、どこにいるのかわからないイノセントな女性たちがいる館になっています。
これはある意味、近未来的なものに対する欲望や不安に時代が席巻されてきていることでもあるんじゃないでしょうか。さらに、モノをつくりだすには「不安」がないとできないんですよね。
自信たっぷりに「どうだ、すごいだろう!」と見せられる作品ほどつまらないものはないわけで、ドキドキしながら自身の見方を疑ってかかるほうがより良いモノができます。
祐真 はい、それは僕もよくわかります。
篠山 だから、人間とラブドールが出会って、そこにマネキンが加わることで、人とモノとが混在し、いったいどっちが本当でどっちが嘘みたいなのがわからなくなるようなことが、今の時代にすごく合っているのだと思います。アサヒカメラのこれまでの新年号の表紙も、その時代ごとにテーマが符合しているんです。例えば僕は1996年のアトランタオリンピックにも行っていて、翌年の新年号の表紙はアスリートの写真です。五輪に出場する選手というのは特別な肉体を持っているけれど、競技の前には強烈な不安と闘っています。舞台をやっている人も同じで、ステージでは自分の役に本当に入り込んでしまうので、人間が人間でなくなっていく。だからこそ、そういう瞬間こそが本当に美しく、不思議な光を発するわけです。さらにその瞬間は写真でしか撮れない。そういう写真でしかやれないことを、僕はやっているんです。
祐真 ライフワークのようなものですね。そうすると先生は、頭の中には常に翌年の新年号のテーマのことを考えていらっしゃるんでしょうね。
篠山 アサヒカメラという媒体が他と違うのは、カメラを使えば何をやってもいいんです。ヌードだってアイドルだって人形だっていい。
その年々に時代と反応できるテーマを選びながらずっとやってきたわけです。でも面白いのはカメラも2000年頃を境にデジタルにガラッと変わるわけです。
写真が発明されて190年。写真の歴史にとって最も大きな変革というのは何か。それはデジタルになったということです。それまでずっと化学だったのが電気になった。この違いは本当に大きいです。
祐真 写真というものを世に出す仕組みが劇的に変わったということですね。
篠山 この大きな変革があってから、写真はネットやパソコン、スマホで見ることが普通になりました。僕が表紙を撮り始めた90年代は紙の全盛期です。そういう時代からデジタルになってもまだ表紙と巻頭をやらせていただいているというのも、ある意味、写真の持つ意味も変わってきているとは思いますね。
祐真 先生はいつも最新のカメラをお持ちですけれど、時にアナログのカメラでも撮影したりはなさるんですか。
篠山 8×10のカメラだけは、BRUTUSの『人間関係』という20年やっている連載で撮るためだけに使っていますが、それも初回がそのカメラだったのでずっとやっているだけです。8×10のカメラにしてもフィルムはもうカラーの一種類しかないし、ネガカラーもモノクロもないし、ポラロイドもない。昔はポラロイドを撮って構図や露出を決めて本番を撮ったものなんですが、今はもうそれもないからぶっつけ本番で撮っていますよ。それ以外はもう全部デジタルです。ハッセルブラッドのカメラを使うとか、フィルムカメラを使うとか、そういうのはもう一切していません。
祐真 普通はその「ぶっつけ」ができないですから(笑)。じゃあもう今は、新しいカメラで今の時代を撮っていくというスタイルですね。
篠山 僕が何十年もこういうスタイルでやっていられるという事は、これ!というテーマを決めてないからともいえるでしょうね。テーマは何かと問われたら「時代が生んでいる魅力」を撮っているということ。
だからどちらかといえば僕が考えているというよりは、時代が考えて、時代が僕に撮れといっているわけです。「来年は何を表紙にするんですか?」聞かれたら「来年の時代に聞いてくれ」と答えるしかないんです。
祐真 そりゃあそうですよね。準備しているものじゃないですしね。
篠山 だから僕は、今の時代は今のカメラで撮るのがいちばんいいと思っています。撮ったらすぐにパソコンで見て、メールですぐにエディトリアルデザイナーに送ることができる。印刷だってもうデジタル化しているわけですからね。若い世代でフィルムの味わいがいいという人もいますけど、僕は違う。今は、今!
祐真 先生の現場ではいつも「民主的でしょう?」と撮った写真をパソコンで見ながら、その場の全員でセレクトするじゃないですか。僕はそれに心底感服するし、素晴らしいなと思うんです。そういう形もデジタルじゃないとできないことですね。
篠山 そうですね。もう最近はみんなで見て決めますよ。
祐真 もうそろそろ何かフツフツと湧き上がってくるようなものはあったりするんでしょうか。
篠山 そうですね、やっぱり湧き上がってはきていますけれど、こればかりはナイショ。次回作は「時代」に聞いてみてください(笑)。
篠山紀信|Shinoyama Kishin
1940年東京都生まれ。日本大学芸術学部写真学科在学中より写真家として活動をスタート。広告制作会社を経て1968年よりフリーとなり、数多くの話題作を世に送り出す。50年近くに渡って写真表現の第一線を走り続け、今なお新しい挑戦を続ける姿勢には国内外から賞賛の声が絶えない。1995年より表紙と巻頭を撮り続け、『処女(イノセンス)の館』が掲載されているアサヒカメラ2018年1月号(朝日新聞出版 900円)も絶賛発売中。DVD BOOK『処女(イノセンス)の館』(小学館)は2018年2月刊行予定。
www.shinoyama.net