
山内祐治(やまうち・ゆうじ)。「湯島天神下 すし初」四代目 。第1回 日本ソムリエ協会SAKE DIPLOMAコンクール優勝。同協会機関誌『Sommelier』にて日本酒記事を執筆。有名ワイン学校にて、日本酒の授業を行なっている。
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2025年3月28日
日本酒の新たな価値基準を提示する、いま注目の低温熟成酒
LOUNGE|低温熟成酒
近年、日本酒の楽しみ方はますます多様化している。吟醸酒の爽やかな香りを楽しむスタイルから、酒米の旨みを十分に引き出す純米酒の味わいまで、様々な切り口で日本酒の魅力が再発見されている。そんな中で静かに、しかし確実に注目を集めているのが「低温熟成酒」である。
Photographs by OHTAKI Kaku|Edit by TSUCHIDA Takashi
低温熟成酒とは何か
日本酒と熟成の関係は古くからあるものの、従来の熟成は基本的に常温で行われてきた。「天神坂下 すし初」四代目の山内祐治氏はその歴史をこう説明する。
「これまでの日本酒の保管方法とは、冷蔵設備を使うことが希少だったんです。逆にコールドチェーンが整ったおかげで、地元から離れて生酒を販売できるようになりました」
コールドチェーンとは、冷蔵流通のこと。それまでは蔵元の地元か、特別なハンドキャリーでしか飲めなかった生酒が全国で楽しめるようになり、酒蔵も低温保管の価値に目覚めていったのである。
「酒蔵にも冷蔵設備がかなり整うようになってきたというところがありました。それがもうざっくり20年30年の話ということになるんです」と、山内氏は語る。
従来の熟成酒は常温、あるいは蔵の比較的涼しい場所で寝かせられてきた。これに対し、低温熟成酒は10度以下という確実な温度管理のもと長期間熟成されたものを指す。温度帯による分類は「刻SAKE協会(ときさけきょうかい)」によって定められている。
さらに山内氏によれば、熟成には「科学的熟成」と「物理的熟成」の2種類があるという。科学的熟成とは物質が経年変化していく熟成。メイラード反応で日本酒が褐色を帯びる変化が該当する。一方で、物理的熟成は、液体の滑らかさに関わるエタノールの水和、静電相互作用の変化のプロセスであり、分子運動が少ない低温下でより進む特徴がある。
「低温熟成の価値は、日本酒本来のデリケートさを失うことなく、口当たりのさらに滑らかな酒質を造り出せることです」と、山内氏は説明する。
低温熟成酒が注目される背景
低温熟成酒が注目されるようになった理由として、黒龍の「石田屋」「二左衛門」の成功が挙げられる。これらは-5〜-10℃で3年程度熟成させた原酒で造られ、従来の熟成酒とは一線を画すクリアな色合いと味わいで人気を集めた。
また、ウイスキーやワインの熟成文化の影響も大きい。西洋の「時間を経たお酒の良質さ」という感覚が、日本酒にも波及してきたことも背景にある。
「ウイスキー山崎の12年と18年、どっちの方が価値があるのかって、みんな熟成期間が長いほうが価値が高いことを知っていますよね」と、山内氏は指摘する。
インタビューでは、兵庫県の酒蔵「龍力」の低温熟成酒を試飲しながら話が進んだ。
「これは吟醸香(カプロン酸エチル)がまだ柔らかく残っています。この銘柄はマイナス3度で熟成させているんですけど、そうするとこの状況が作り出せるんですね。本来、カプロン酸エチルというのは、マイナス3度帯でなければ、1年ぐらいでなくなってしまいます」
風味について、山内氏は「アップルパイ的な感じ」「ライスプディングの横に、ヘーゼルナッツのクリームを置いたような」と表現する。このような繊細なニュアンスを保持できるのが低温熟成の特徴だ。
ちなみに低温熟成酒は保管と飲用で適温が異なる。
「実際、購入後は冷蔵庫内での保管で僕はいいと思います。ただ、購入後さらに半年以上寝かせるならば、もうちょっと低い温度の方がいい」
そして飲む温度としては、「15度から20度手前ぐらいが、このお酒の一番ポテンシャルを発揮する温度帯」だという。これは赤ワインに近い温度帯である。
「低い温度で飲んでいくと、今持ち上がっているライスプディングの香りとかヘーゼルナッツの香りっていうのが、まだちょっとお花が閉じたような印象になってしまうんですね」
また、器の素材によっても味わいは大きく変わる。山内氏は漆器での飲用を薦めている。
「クロスモーダルって言われる話なんですけど、人が感じている見た目の印象は、舌でも感知するんですね。唇が触れた触覚の滑らかさだったり、見た目の木質の穏やかさであったり、そうした要素も味覚に響いてくるんです」
低温熟成酒の未来と可能性
低温熟成酒は日本酒の新たな価値創造の可能性を秘めている。山内氏は国際市場での展望についてこう語る。
「熟成という時間に対してどれだけの価値をつけていくか、これは日本人よりも外国の方々のほうが慣れていて、そういった価値を育んできた歴史があると思っています」
また、低温熟成技術は日本独自の強みとなる可能性がある。海外の低温流通体制について尋ねると、山内氏はこう答えた。
「低温度帯、要するにチルド帯の流通インフラを海外はあまり持ってないんですよね。ワインは日本酒ほどの低温環境を必要としないんです。ビールもそう。今こんな流通システムを必要としてるのは日本酒だけです」
低温熟成は単なる保存技術を超え、日本酒に新たな価値軸をもたらす可能性を秘めている。山内氏は、日本酒の国際競争力についてこう指摘する。
「例えば指定の場所で寝かせる、熟成ログを明確にすることで、さらにもう一つの価値を生んでいくという動きがあるんです」
この視点は、ワインのテロワールに通じる概念を日本酒にもたらし、独自の価値創出につながる可能性を示している。熟成の場所や方法によって生まれる個性は、今後の日本酒の新たな魅力となるだろう。
低温熟成酒は、日本酒の可能性を広げる新たなアプローチとして注目される存在である。その繊細な味わいと滑らかな口当たりは、従来の熟成酒とは一線を画すものであり、日本酒愛好家はもちろん、これまで日本酒に馴染みのなかった人にとっても新たな発見をもたらすと断言する。
また山内氏が提唱する「低温でデリケートなものを、デリケートに熟成させる」という取り組みは、日本酒の国際的な評価向上にも寄与するだろう。世界各国で日本食人気が高まる中、こうした独自の技術と価値観は、日本の食文化の奥深さを伝える重要な要素となるに違いない。