生方ななえ|連載第16回|夏空のころ
連載第16回|夏空のころ
写真・文=生方ななえ
「温泉に行きたい」。ふと思った。
冬のしんしんと雪が降るなかでの温泉も好きだけど、夏の豊かな緑を楽しみながら入る温泉も意外と好き。浴衣を着て、湯上がりにキンと冷えたビールを飲んでのんびりする。蝉の音が響くなか、畳の部屋で本を読みながらごろごろ。そんなことを想像していたらいよいよ行きたくなってきて、雑誌の温泉特集ページを見はじめた。
“宿はどこにしようかな。旅気分を味わいたいからちょっと遠出して湯布院? それとも近場で箱根?”と思いを巡らせページをめくる。すると、雰囲気ある旅館の写真に目が止まった。
「わぁ、すてき!」。一瞬にして心を奪われた。さっそく修善寺にあるその旅館に電話をしてみると、ちょうど一部屋空いているとのことだった。
青い空に真っ白な雲がふわふわ広がる夏のある日。東京からクルマに乗って目的地へ向かった。気持ちのいい陽気のなか、クルマの窓を開けて走っていると自然と心がリラックスしていくのがわかる。
しばらくすると通りに土産物店や宿が立ち並び、穏やかな温泉街が見えてきた。さらに急な山道を進んでいくと、深い緑のなかにその旅館はあった。しっとりと趣あるたたずまい。一歩足を踏み入れると、静かな、落ち着いた時間がそこには流れていた。
緑の木々に囲まれた露天風呂はやさしい湯で、美しい景色はうっとりした。開放的な空間のなか、滔々と流れている湯の音に耳を傾けながら静かに目を閉じる。ふうーっ、と思わず幸せなため息がこぼれた。
離れには月見台と呼ばれる広いテラスがついていて、目前にはもみじの木の青葉が眩しく、遠くにはなだらかな山々が広がっていた。その借景を楽しむ位置に緩やかなカーブの籐の椅子が置いてあり、腰を下ろす。軒にかかった風鈴がチリリンと鳴った。さわやかな風がとおり過ぎ、温泉でほてったからだに心地よい。そこで本を読むことにした。
この日は“温泉”つながりということで、ヤマザキマリさん著の漫画『テルマエ・ロマエ』を持参した。題は“ローマの浴場”という意味で、古代ローマの浴場設計技師である主人公がひょんなことから現代日本の入浴にかんする場所にタイムスリップしてしまう物語である。行き先は温泉、銭湯、個人の風呂、浴室ショールームなどさまざまだ。
彫刻のようなタッチで描かれた主人公が大真面目に日本の風呂文化にカルチャーショックを受けているようすはおかしく、つい吹き出してしまう。笑って、心が和んで、くつろげる漫画。くたくたに疲れているときに読むのもいいけれど、こんなふうに温泉後のほっとした頭で読むのもぴったりな本だなと思った。
いつのまにか寝てしまったようで、涼やかな風に目が覚めた。ジーリジーリと蝉が鳴いている。山肌にかかる陽があまりにもきれいで、時間が経つのを忘れてぼうっと眺める。
そういえば、秋になるとこの月見台から見える色鮮やかな紅葉と月が見事だと宿の主人が言っていたっけな。温泉と温泉漫画。また『テルマエ・ロマエ』のつづきをもって、秋の月を鑑賞しに来るのもいいかもしれない。