生方ななえ|連載・第二回 「京都の思い出」
第二回 「京都の思い出」
写真・文=生方ななえ
本を開くと、過去に通り過ぎた思い出がふと浮かび上がるような感覚を覚えたひとはいないだろうか。
すごく派手でもなく、どちらかといえば日常のなかで経験してきた諸々の事柄。いつか見た風景や、そこに漂う匂い、ザワザワとしたまわりの音や聞いたことのある笑い声、手に触れた新芽のやわらかさや口いっぱいにひろがる清々しさ、などなど。
普段の生活のなかでは意識にも上がらない記憶の断片が、本を紐解くことによってひらひらと宙から舞い落ちるように、もしくは紙面という底を通して滾々(こんこん)と湧き出るようにやってくる。私がちょっとした空き時間やのんびりした休日に本をひらくのは、この懐かしくもせつない感覚に身を委ねたいから、という理由もあったりする。いつもの生活のなかではなく、いつか、どこかの空間や感覚に自分を“存在”させる。その一瞬の楽しみ。それが、過去に触れてきた町並みや景色、方言や文化であれば、なおさらよろこびの度は増す。私の場合。
オフの日、大好きなカップになみなみとお茶もしくはミルクを入れて、お気に入りのお菓子を幾種類か、少しずつ選んでお皿に盛り、それらを傍らに置くのがいつものスタイル。一息つきながら、今回手に取るは『雨にも負けず粗茶一服』。読みはじめると、とまらないくらい没入してしまう。何度も読んでいるのに、何度でも感じ入り、心震わせてしまう、この作品。しかも、勉強になる。人生訓は無論、お茶(茶道)のことからお着物にいたるまで……そう、“京都”にかんすることは何もかも。しかも、登場人物の京都弁率も高いとなれば、読みすすめるうちに自分が今いるのは京都であって、まさしく京都の街中で息をしているかのような錯覚に陥ってしまう──。そういう肌を通して得られる実感のようなものも、自身が大学時代に京都で過ごした経験と深くつながっているような気がする。
京都にのめりこむきっかけは修学旅行で訪れて、という月並みな理由からだけど、実際に移り住んでみると外から眺めただけではわからないことも、たくさんあって。京都での学生の時を一文に 纏(まと)めると「豊かな自然と文化に囲まれながら過ごした4年間は、私の宝物のひとつ」と表現することができる。
けれど、あらためて京都について記載された本をひろげると生まれ育った地とは異なる独特の雰囲気に対し時に親しみを感じつつ、時に遠巻きに眺めつつ、あのうだるような熱気のなか、関東出身の私には物珍しい水無月を買いに 自転車で走ったことや、またはとてつもなく冷え切った指先で冬の御所前をひとり散歩したこと、そんなことばかり自然と思い起こされる。その感覚がまた不思議といい感じであったりして。
甘美でありながらほろ苦いという七色の感慨に浸りながら、私は今日も本を通して京都のまちを駆け抜けている。
『雨にも負けず粗茶一服』
著者│松村 栄子
発行│マガジンハウス
定価│1995円
弱小茶道家元・友衛家のあとつぎを放棄して家出した主人公、遊馬。「自分らしくいきることにしたんだ」とはいうものの……。東西のユニークな茶人たち、ほんのり甘い恋心、消えた茶杓。京の都で繰り広げられる茶ごころたっぷりの傑作エンタテイメント。