特集|OPENERS的ニッポンの若手建築家 PARTII  Vol.4  南後由和インタビュー
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2015年5月21日

特集|OPENERS的ニッポンの若手建築家 PARTII  Vol.4 南後由和インタビュー

Vol.4 南後由和インタビュー(1)

いま必要とされる建築家像をめぐって

建築は都市を覆い尽くし、われわれの身体のなかを流れる血や肉とおなじように、生活のすみずみにまで浸透しているものだ。だがこれまで一体どれだけのひとが、社会における建築の在り方や、そのつくり手である建築家像について、体系だて研究し、横断的に考察を重ねてきただろうか? 社会学者の南後由和氏は独自の視点から都市と建築の両方を、歴史を根拠に考察する。いま求められているのは、時代も場所も越境する広範な視点をもち、社会と建築を取り結ぶ存在だろう。今回は社会学者の南後由和氏に、いま求められる建築家像について聞いた。

インタビュアー、まとめ=加藤孝司

自分であると同時に個人を超えた視点

──南後さんの社会学者としての建築家や建築への同時代的な視点について、今回ぜひお話をうかがいたいと思いました。社会学が扱うものとして歴史、ひと、経済などがあると思うのですが、南後さんにとってなぜ建築であり、建築家だったのでしょうか?

最初から建築や建築家を研究対象としたわけではなくて、もともとは、大きくマスメディアや都市に関心があり、社会学を選びました。自分であると同時に自分を超えた集合的な現象に興味があったからです。

おっしゃるとおり、社会学が扱う対象の範囲は広大です。社会学には、都市社会学、法社会学、教育社会学、医療社会学など、さまざまな分野があります。建築家にコルビュジエ、ミース、ライトなどの巨匠がいるように、社会学にもエミール・デュルケム、マックス・ヴェーバー、ゲオルグ・ジンメルなどの巨匠がいて、学部時代の授業ではそれらの古典ばかりを読まされました。いまとなっては貴重な経験でありがたく思っていますが、当時はあまりおもしろいと思えませんでした(笑)。

けれど卒業論文は、自由に好きなテーマを選択することができました。そこで卒論は、もともと都市に興味があり、ちょうど『空間の生産』という本の邦訳が出たということもあって、フランスの思想家であるアンリ・ルフェーヴルの都市・空間論が、都市社会学、地理学、メディア論などにあたえた影響を探るという学説史的なテーマで書きました。

都市論から建築へ

伝統的に都市社会学といえば、1920年代にアメリカのシカゴ大学を中心として形成されたシカゴ学派を指します。簡単にいえば、シカゴ学派の都市社会学の特徴は、東京都なら東京都、文京区なら文京区という、一定の地理的範囲内の人種・民族、社会解体、逸脱行動などの事象を主にフィールドワークによって観察・調査することにあります。それに対して、60年代後半の主にフランスにおいて、それまでの都市社会学を批判的に乗り越えようとする新都市社会学と呼ばれる潮流が出てきました。いわば、シカゴ学派の都市社会学が出来事の容器として都市を扱いがちだったのに対して、新都市社会学は、それを批判し、都市を住宅、交通・輸送、教育、福祉などの集合的消費のプロセスと捉えて、都市計画が抱えるさまざまな矛盾をあきらかにしようとしました。そもそも都市という空間的枠組み自体を疑おうとしたのです。ルフェーヴルは、このシカゴ学派の都市社会学から新都市社会学への展開に大きな影響をあたえたひとです。

たまたま本屋で目にして購入したのですが、僕にとって『空間の生産』との出会いは、都市論から建築に入っていく契機にもなりました。僕は社会学の都市論をバックグランドにして建築に入ってきたので、建築系のひとたちと議論しはじめた当初は、建築だけを考えているというか、都市と建築を分けて考えるということを不思議に感じていました。新都市社会学の都市という空間的枠組みに対する問題意識とおなじように、建築という空間的枠組みは自明ではないと思っていましたので。

──個別の建築をテーマにした社会学というものは、いまだに確立されたものではないのですか?

都市社会学というのはすでに制度化されたものとしてありますが、「建築社会学」という分野は、まだ確立されていません。

社会学は個別なものより、どちらかというと集団や集合を扱う学問です。ですので従来の社会学は、建築を扱う場合でも、個別性の高い、作品としての「建築」というよりも、ハウスメーカーなどによる「建物」の群に着目してきました。実際に、街中に建っているもののほとんどはアノニマスな建物であり、いわゆる建築家が設計した建築は稀です。その希少性が価値とされてきたわけですが。

──自分たちの身のまわりを見渡してみても、見慣れた街並みの風景を構成しているほとんどの建物は、マンションなどの集合住宅や、戸建ての建物にしても設計者が匿名的な建物ばかりです。

街に建っている建物の9割以上が、匿名的な建物ですよね。建築に詳しいひとにとっては作品としての「建築」が図で、匿名的な「建物」が地でしょうが、一般のひとにとっては図と地の関係はフラットというか、むしろ後者の「建物」のほうが社会にとっての「リアリティ」としてあるわけです。それで社会学においては建築を扱うにしても、戸建て住宅と集合住宅とにかかわらず、住宅の間取り図の変遷や、そこでの家族形態の移り変わりなど、住宅の歴史社会学が主流を占めてきました。

建築家|南後由和 02

Constant Nieuwenhuys「New Babylon」(Gemeentemuseum Den Haag) Photo by Yoshikazu Nango

建築家|南後由和 03

Constant Nieuwenhuys「New Babylon」(Gemeentemuseum Den Haag) Photo by Yoshikazu Nango

なぜその対象に興味をもつのか

──都市論から建築に入ったというお話でしたが、具体的にはどのような経緯で建築に興味をもたれたのでしょうか?

学生時代から、建築を見てまわることが好きでした。僕が学部生の2000年前後は、ちょうど雑誌『カーサ・ブルータス』や『建築MAP東京』など、素人でも建築を「わかる」ようになるというか、わかったような気分が味わえるガイドブック的な書籍がたくさん出はじめたころでした。僕はそれらの模範的な読者でした(笑)。

一方、当時は社会学専攻の学生として、都市社会学の学説史を勉強していた時期でした。都市社会学というのは、どちらかというと「建築家なしの建築」のほうに興味があって、建築家は批判の対象として取り上げられる傾向にあります。たとえば、80年代にはポストモダニズム建築がありましたが、社会学からは難解な理論や高尚な思想を唱えて、もったいぶったことを言うだけで、実際には使いにくい「ハコモノ建築」ばかりつくっているにすぎないと揶揄されたりしていました。

社会学者という存在は、建築家が考えるような、空間が社会のあり方を規定するというベクトルとは真逆の考え方の持ち主で、むしろ建築家が考えたことがどんどん裏切られていく、意図せざる使い方や結果が招かれることをおもしろがる人種です。ですので、社会学者と建築家のあいだでは、プロレス的な批判の応酬ばかりが見られました。

そもそも、僕にはなぜ自分がその対象に興味をもったのか、ということに興味をもつという変な癖があります。自分では興味がなかったことでも、「なぜそのひとはそのことに興味をもっているのか」ということに興味がわくのです。建築にかんしていえば、じつは高校ぐらいまでは建物から建築を区別するまなざしすらもっていなかったのですが、そんな自分が、なぜ建築に興味をもつようになったのかということ自体に興味がわきだしたというわけです。

それはメディア環境の変化と無縁ではありません。これも、自分であると同時に自分を超えた何ものかや、自分もそこにふくまれた集合的現象への関心の一例になるかと思います。そして、文化資本として消費される「建築」やメディアをつうじて消費される建築のイメージ、あるいは建築と建物の差異が存在していることも社会の「リアリティ」であり、社会学の研究対象に十分なるのではないかと考えるようになりました。

──それはまさに社会学的なアプローチですね。建築は単体でも建築独自のスケールや、都市的なスケールをもち、人間のスケールとは異なる大きさがあり魅力的だと僕も思っています。

社会学の特徴のひとつに、鳥の眼と虫の眼というか、ミクロとマクロというか、普段僕らが営んでいる日常生活をさまざまなスケールの重層性のなかで捉えていくアプローチがあります。もうひとつの社会学の特徴に「常識くずし」というものがあります。世の中で常識や当たり前とされていることを、本当にそうなのか、と疑ってみる姿勢です。

そもそも建物と建築はどうちがうのか、建築士と建築家はどうちがうのかは、社会的には曖昧なまま流通している。その曖昧なまま流通しているものを曖昧なまま放置するよりも、そこの境界線がどうあるのかを考えたい。先ほども触れたように、建築界でいわれている建築の枠組みは、自明なものとされがちですが、それをさまざまな角度から解きほぐしていきたいというモチベーションがあります。

──南後さんのようなスタンスで社会学に取り組むことは、主流のひとつとなりつつあるのでしょうか?

いや、正統的な社会学者のひとから見れば、異端なほうだと思います。いま僕がいる情報学環・学際情報学府も、べつに社会学の本流ではなく、むしろ学際領域の研究をしている研究者や学生が集まっています。僕はわりと学際ということを真面目に引き受けて学生時代を過ごしてきたところがあって、ある確立された専門を長年研究してきてからの学際ではなく、学生のころから学際をデフォルトとしてきたのが上の世代とちがうところです。

正統的な社会学のひとたちにはできない実験的なことをやりつつも、社会学のアカデミックな系譜に貢献し得る仕事もしていきたい。また、異分野との関係において自分のモノサシが繰り返し相対化されることに耐えつづけなければならないですし、安住の地がないので体力がいることですが、こればっかりは動きながら考えつづけるしかないと思っています。学際領域って、身を落ち着けることのできる場所としてではなく、つねに途上にあるというか、可能性に向けて開かれた地平のようなものだと思っています。

僕が社会学を学びはじめたのは2000年前後ですが、当時はカルチュラル・スタディーズという分野が出てきたり、社会学をはじめ、地理学、メディア論、表象文化論などの知見ももち、領域横断的に都市論の仕事をされているひとたちが何人かいました。

──ではそのころ、建築と社会学は人文系のカルチャーのなかで、自然に結びついていた、という感じだったのですか。

雑誌では、『10+1』がそのようなひとたちが寄稿する媒体の典型で、自分の指導教員である田中 純先生をはじめ、若林幹夫さんや吉見俊哉さんなど、同誌に寄稿されていた方がたの仕事に触発されるところが大きかったです。

僕は、もともといわゆる社会学ど真ん中というよりは、「際(きわ)」と呼んでいますが、そういう境界領域をウロウロしつづけています。建築にかんしても、建築そのものというよりも、建築とメディアの関係、たとえば、建築を雑誌や写真との関係で考えるとか、そういう関係性の学問としての社会学をとおして建築を捉えてきました。

敷地でいえば、地域、東京、日本、あるいはもっとグローバルで多層的なスケールの関係性のなかで重層的に考えていく視点というか。

──南後さんがおっしゃるジャンルを越境していくような感じというのはよくわかります。そこに僕は、情報化社会以降における同時代的な問題意識を感じます。

僕自身は建築家でも社会学者でもないのですが、都市というものを僕なりに考えたときに、家や家族といった身近なスケールから、それが町になって、その集合が都市になったりと、意識や空間が、扱う規模やその関係性によって少しずつ拡張していく感じにリアリティをもちます。

誰にとっても自明であり、かつそれゆえに曖昧でもある都市や建築のようなものに対して、南後さんがそれをどう読み換えていくのかとても興味があります。南後さんが都市に興味をもつようになった背景にはどんなことがありましたか?

僕は大阪の郊外のニュータウンで育ちました。都市もそうですが、「ニュータウン」って外から見るひととそこにいるひとにとってかなりちがいがあります。典型的な「郊外ニュータウン批判」のイメージってありますよね。

──ありましたね。新興住宅街ということで、土地に歴史がないゆえに、住民同士の関係性が希薄で無機質、少年犯罪が多発しているというようなイメージです。そのように批評される背景には、おなじような街並が広がっている、ニュータウン独特の均質な風景があると思います。

でも、一概にはそうとは言えないんですよね。基本的にはニュータウンとは土地があたらしく切り開かれた上に造成された街なので、そこの住人というのは、ニュータウン完成とともに、ある時期一斉に入居してくる。僕の出身は電車の駅が3つある、大阪で2番目に大きなニュータウンでした。近所の親同士も子ども同士もほぼ同世代です。そうすると地域の子どもたちが集まる子ども会やお祭りがあって、親同士も付き合いが密になり、近隣のコミュニティがしっかりと築かれていきます。

そういう人間関係が濃密なところで暮らしていると、ニュータウンから都市に遊びに行くとあきらかに普段生活している場と空気がちがうわけです。いつもは“匿名・顕名”でいうと顕名な人間関係のなかで生活しているわけですが、都市に行くと匿名なひとたちばかりなのに、活気あるアクティビティが形成されている。知らないひと同士のあいだでコミュニケーションが成立していて、そこに高揚感を憶えるのはなぜなんだろうと疑問に思いました。ここでもまた、自分が都市に魅かれるのはなぜなんだろうということ自体に興味をもっていたわけです。

──ニュータウン独特の地形や地理については何か感じたりしましたか?

ニュータウンの多くは、都心と郊外を結ぶ鉄道の駅を中心として街が広がっています。10代のころから、その電車のなかから見える風景として、工場地帯があったり、仁徳天皇陵の古墳があったり、時代も背景もばらばらなものが同時に存在することによって、街とか都市ができていることがおもしろいと思っていました。

──本来そういった時代性というものは、地層のようにレイヤー(層)になって見えてくることが普通なのに、ニュータウンが都心から少し離れたところに造成されるがゆえに、それが都市との境目に交通手段などを使って移動するたびごとに、あたかもテクスチャーのように顕在化していくという。

そうですね。

──その身体的な体験は社会学者としての南後さんの実践的な考え方に繋がっていると思いました。そこにリアリティがある感じがしますね。

Vol.4 南後由和インタビュー(2)

いま必要とされる建築家像をめぐって

ウェブ世代の“第二の自然”という自然

──いままでのお話をうかがって、下町は地域としてのコミュニティが密接で隣近所の関係も密というステレオタイプなイメージがあります。かたや郊外のニュータウンはそういったものが希薄、というイメージがいまも根強くあるということが不思議に思いました。

下町には同世代の関係があると同時に、年功序列的な縦社会の繋がりもあり、それがある世代にとっては重荷になったりするのですが、ニュータウンにはその縦の繋がりが希薄に見えるのがとてもうらやましかったです。

さきほど南後さんがニュータウンでの暮らしを同世代がたくさんいて、コミュニティもあると語っていたように、僕も郊外に対してそれに近いイメージをもっていました。僕にとってニュータウンは90年代のスケーターやグラフィティカルチャーを中心にした、あたらしいカルチャーがどんどん生まれる場所というイメージです。

たしかに浅草などに比べると、ニュータウンには遊歩道、公園、広場のベンチ、手すり、階段、坂とか、スケートボーディングに適した場所はたくさんありますよね。といっても、スケートボーダーはどんな地域であろうとも、場所を発見したり、読み換えていく能力に秀でているので郊外との結びつきが必ずしも強いとはいえないような気がします。

──スケーターなどは都市を身体的に拡張していくというイメージがあるのですが、あたらしいカルチャーという点では90年代には、郊外をテーマにしたホンマタカシさんの写真が話題になったり、岡崎京子さんの漫画があったりと、郊外というのは、そこを知っているひとにとっては、あたらしいものが生まれてくる背景だったのかなと思っています。

そうですね。ニュータウンの周辺はいまも田舎というか農村なんです。農村を切り拓いた台地の上に造成されているので、ニュータウンには、「◯◯台」という地名が多い。街は斜面とか谷のもともとの地形の起伏に沿ってできているのですが、隣の台から隣の台まで移動するあいだには、山とか畑などが存在しています。

──そうなんですね。

僕にとってのニュータウンの生活空間としての広がりは、自然と人工の領域を横断したものとしてあります。雑木林や畑も、建売の住宅ばかりが立ちならぶ街並みも、僕にとってはどちらも“自然”だという感覚があったのです。

手つかずの自然を第一の自然とするならば、僕たちを取りまく環境は、人工物などの“第二の自然”だらけです。もはや、インターネットの環境も僕たちにとっての自然といえますよね。また、肯定も否定もせず、自然なものとして人工的なニュータウンの空間を領有していく感覚は、ホンマさんの作品にみられるニュータウンを舞台にした写真のリアリティともつながっているのかなと思います。

──個人的にも大阪に行って、郊外行きの電車に乗ることがあるのですが、斜面を切り崩して街ができているから、線路に向かって街全体が迫ってくるようにほぼ全体が見わたせますね。それが風景として独特だなあと思いました。

しかもそれぞれに心理地理学的な濃淡があって、繁華街がある駅前に近い小中学校のほうが不良が多いとか、おなじニュータウンでも地区ごとに特色があります。

──おなじニュータウンのなかにも心理的ヒエラルキーがあると?

そうなんです。新興住宅地という意味ではフラットかもしれませんが、たとえば駅からの距離によって学校の雰囲気がちがったり、戸建て住宅と団地のあいだの序列があったり、ひとがあまり近づかないひんやりした裏山があったり、心理地理学的にはぜんぜんフラットではないんです。

建築家|南後由和 06

Photo by Takashi Kato

建築家|南後由和 07

「大阪近郊」Photo by Takashi Kato

匿名性と有名性をめぐって

──そういった意味では郊外と区別するものとして、都市を都市たらしめているものとはなんだと思いますか。

都市社会学的にいえば、密度の高さ、資本の集積度の高さ、ひとやモノや情報の流動性が高いこと、お互いに異質な他者同士がコミュニケーションをしている場であること、などが挙げられます。郊外やニュータウンの場合は、ゆるやかな相互監視という、近所のひとたちに見られている環境があって、良くも悪くもしがらみが多いですよね。都市ではそのしがらみから解放される。一言でいうと「自由」。ですが、匿名的であるがゆえの危険や犯罪も多い。その両義性があることが都市の条件のひとつだと思います。そうはいうものの、都市と郊外の境界はなくなりつつあるとも思うんですよね。

──それは現在に顕著なことという意味ですか?

そうですね。たとえば東京でいえば、渋谷にヤマダ電機や洋服の青山ができたり、六本木ヒルズでさえ、オープン当初から郊外的な雰囲気を感じました。他方で、渋谷的なるものが、たとえば千葉県柏市の駅前にでき、渋谷まで行かなくても、まったりとした郊外で、それまで都市的とされていた消費空間を享受することができる。90年代以降、インターネットやケータイが普及したことによって、どんどんその境界が失効しつつあると思います。

──それは比較的、都市に近い環境である浅草に住んでいた僕にとっても実感としてあります。90年代以前は、浅草にはファミレスはできないといわれていたのに、90年代後半あたりから進出してきました。逆に都会の象徴でもあったスターバックスコーヒーが、ゼロ年代後半には当たり前に郊外にできたりとか、マーケット的な視点からみても、都市的、非都市的なるものが混ざり合っている感覚はあります。東京くらい巨大な都市だと、富士山の裾野にむかって都市が浸食していくイメージがあって、隣接するエリアまでふくめて都市ともいえて、東京とそれ以外の街との境界が見えにくいのは事実ですね。もはや都市と郊外という文脈では、語れないものができつつあることを実感します。

都市もふくめて、匿名的なものについてのお話になってきたところで、最近の南後さんの活動のひとつとして、同世代の建築家とのかかわりのなかからの都市への言及があると思います。匿名性の高い都市と、有名性として建築家。社会学者にとって建築家という存在はどのようなものとしてあるのでしょうか?

最初に研究対象としたのは、いわゆる建物を設計した建築家ではない、60年代のシチュアシオニスト(※1)のメンバーであるオランダ人のコンスタント・ニーヴェンホイスでした。それまで支配的であった建築のつくり手からの視点ではなく、使い手の視点から都市や建築に関与していく動きが60年代のカウンターカルチャーから出てきました。コンスタントにとっては、「建築家の解体」というか、建築家は解体すべき存在としてあったんです。

空間にかんしては、哲学者でいえば、デカルトやカントらが空間について論じたり、数学者や物理学者も空間について論じてきましたよね。社会学者も概念としての空間については興味を示してきましたが、物理的な空間や個別の建築作品に対しては関心をもたなすぎたというか、これまでほとんど読み解こうとしてきませんでした。

──個別の建築への興味や、なぜ?といった視点をもつことから、これまで扱われてこなかった領域へ踏み込むことになったのですね。さきほどの南後さんのお話ではないのですが、身近な暮らしのなかに第二の自然ともいえるくらい、これだけ多くの建物があるのに、個別な建物については分析があまりなされてこなかったというのは不思議ですね。

(※1)近代における画一的な都市計画の理論的/実践的のりこえを目的として、芸術と社会の融合をめざした活動

Vol.4 南後由和インタビュー(3)

いま必要とされる建築家像をめぐって

生きられる経験としての空間

アンリ・ルフェーヴルは、空間には3つの次元があるといっています。ひとつめが物理的に知覚される空間である「空間的実践」。ふたつめが地図に描かれている空間とか、建築家や哲学者が頭のなかで考えた抽象的空間である「空間の表象」。そして3つめが「表象の空間」といわれるもので、こちらは住民が身体を介して具体的に生きられる空間のことです。

ふたつめの「空間の表象」については、社会学のなかでも議論するひとは多いですし、記号論や現象学は主に「表象の空間」を扱ってきたわけですが、「空間的実践」「空間の表象」「表象の空間」の3つを絡み合ったものとして横断的に考えていくという視点が抜け落ちていたように思います。

いままでは、建物をつくるまでが建築家がやるべきことで、竣工後に建物が社会のなかでどう受容されていくかについて関心を示すのが社会学者というように、建築家と社会学者のあいだに、役割分担があったと思うんです。僕はそこをたんに棲み分けるのではなく、ちがいがあるにしても地つづきなものとして捉えたいと思っています。

──ルフェーヴルにしても、空間は建築家だけのものではない、それは自明なことなんだけれど、さきほどの3つの空間の捉え方のお話にしても、人間誰しも身体的にはそれを無意識に捉え実践しているのではないか。それが対立することはあっても、連続して言語化されることが社会学のなかでも建築学のなかでも、これまで表立ってなされてこなかったのは意外ですね。これまでほかのジャンルでそれが実践されてきた例というのはあったのでしょうか?

社会学者でも建築家でもありませんが、多木浩二さんは、著書である『生きられる家』のなかで、磯崎 新さんや伊東豊雄さんなど同時代の建築家たちと議論をしていて、建築界に大きな影響をあたえたひとだと思います。多木さんの仕事がすごいところは、ルフェーヴルの言葉でいえば「表象の空間」である、身体を介した空間経験の多様性を掘り下げつつ、先の3つの次元の動的な結びつきを丹念に記述したところです。

僕は多木さんの仕事を評価し継承しつつも、他方で、建築家と作品、あるいは建築物とユーザーだけではなくて、クライアント、メディア、コンペなどがどう建築とかかわってきたのかという、建築家と作品を取りまくネットワークを読み解いていきたいという思いがあります。

たとえば、戦後の日本を代表する建築家である丹下健三さんは、一生のうちに数軒しか住宅を手がけず、官公庁がクライアントの仕事が多かった。黒川紀章さんであれば、30代のころから大企業のクライアントが多かった。いまの若手建築家の多くは、まずは住宅施主との関係からはじまりますよね。当たり前かもしれませんが、丹下さんの時代と現代では、建築家とクライアントとの関係がまったくちがう。

このようにクライアントからみた建築家のイメージというか、クライアントの歴史的変遷をたどれば、社会がこれまでどう建築家を捉えてきて、今後どういう関係性がありうるかということが浮かび上がってくると思います。

──そう考えていくと、これまで自明と思われていながら言語化されていなかったことの繋がりを解きほぐしていくだけでも、研究テーマとしては発展していくことが大いにありそうですね。

南後さんは、60年代のシチュアシオニストの都市論に引き寄せながら、建築や都市、そして現代の建築家像の研究をされていますが、建築との関係におけるシチュアシオニスト、そしてシチュアシオニストのメンバーでもあったコンスタント・ニーヴェンホイスの「ニュー・バビロン」について少し教えていただけますか。というのも、シチュアシオニストたちの都市へのかかわりかたはトップダウン的発想というよりも、ボトムアップによる思考をもっていたように思うからです。

当たり前なことが当たり前でなくなってしまった3・11以後の日本を考えても顕著なように、これからの都市というものを考えるときに、ボトムアップ寄りの思考をもつシチュアシオニスト的手法が何かの手がかりになるのではないかと思いました。

フランスの思想家で映像作家のギー・ドゥボールを中心としたシチュアシオニストは、建築、絵画、彫刻、映画などの諸分野において、芸術と政治の統一的実践を試みた領域横断的なアヴァンギャルド集団です。その初期メンバーであったコンスタントは、思想的にはアンリ・ルフェーヴルに影響を受けています。

コンスタントの「ニューバビロン」については『SITE ZERO/ZERO SITE』という雑誌に連載中なのですが、ニューバビロンは遊戯的な生活を送るノマドたちの「状況の構築」によって形づくられるエフェメラルな集住体で、構造的には内部配置の可動性とフレキシビリティを備えています。

ルフェーヴルやコンスタントの空間の捉え方が新鮮だったのは、先ほどお話したように、空間をつくっている主体は建築家だけでなく、ユーザーなども空間を生産していく主体であるといっていることです。シチュアシオニストは、ボトムアップ的に空間が生成されていくシステムを考えようとしていて、そのひとつのあり方として、「転用」という既存の空間を従来の用途とは異なる方法で使用したり、カスタマイズしていくという、DIY的思考につながっていくことを当時から実践していました。特別なリテラシーをもったひとではなくても関与しうる、可塑的な建築・都市を構想し、現代でいえば「集合知」をどう建築や都市が形づくられるプロセスにフィードバックするかを考えていたひとたちです。

──コンスタントはつくることと同時に、それを使う主体について考えたのですね。

シチュアシオニストの話は60年代の話ですが、現代においても見過ごしてはならないのは、建築と政治とが無縁ではないことです。それと、ベタな政治ではなくても、美術館や展覧会、メディアのフィルターはけっして透明なものではなく、建築家はどうしてもそれらの制度に囲いこまれていくわけです。シチュアシオニストたちはそういった芸術をめぐる制度にも抵抗したひとたちです。

またシチュアシオニストは資本主義の直線的な時間の進行に疑問を呈し、「転用」はそれらを脱臼する企てでもありました。もちろん、「反◯◯」というのは、60年代的な考え方かもしれません。たとえばレム・コールハースは、反ではなく、資本主義のメカニズムを逆手にとりながら、グローバル状況に介入し、それを批判的に乗り超えていこうとしている。その点では、シチュアシオニストを「転用」しているといえます。

建築家|南後由和 09

「デザイナーズ集合住宅の過去・現在・未来」展(2010)Photo by Yuki Hyakuda

建築家|南後由和 10

「デザイナーズ集合住宅の過去・現在・未来」展(2010)Photo by Yuki Hyakuda

建築と社会をつなぐインターフェイスとしての存在

──リーマンショック以降、絶対的なものがなくなりものの価値は流動性を増しました。そこで起こった価値観の変化が大震災によってさらに加速しているという印象をもちます。僕が南後さんに興味があるのが、社会と建築を産官学民を横断して繋ぐ存在のほうなんじゃないかということです。そのような立場から、建築やメディアは今後どのようになっていくべきだと予想しますか?

建築ジャーナリズムというものが機能しているかいないかはべつとして、とても狭い世界だなと感じています。たとえば、雑誌やシンポジウムにしてもそこに登場する建築家はいつもだいたいおなじで、だからこそ議論を深めたり育てたりできるという利点もあると思うのですが、やはり自閉はまぬがれえない。また、建物が建ったあとの批評的なコメントは雑誌に掲載されたとしても、ユーザーをふくめた実際的な評価というものがほとんどなされていないのが現状です。ユーザーや社会の視点からみた建築ジャーナリズムというものがあってしかるべきだと思うんです。

建築に可能性を感じるのは、政治にかぎらず、環境、経済、福祉など、あらゆるものとも関係している点で、それらとの雑多な関係を統合していく技術が建築の強みです。書き手と読み手ともに、官や産を巻きこんだジャーナリズムがあれば、多元的な評価軸ができてくると思うんです。今後、産官学民の連携ということでいえば、建築ジャーナリズムのあり方を拡張していきたいという思いがあります。

そのとき外の視点というのは重要で、建築の評価軸を多元的にしていくことは、建築プロパーだけの仕事ではないはずです。今年の春にロンドンへ行ったときに、2006年のヴェネチア・ビエンナーレのディレクターやロンドン・オリンピック2012の建築アドバイザーなどのほか、多くの建築コンペの審査員をやっているLSEのリッキー・バーデットという社会学系の研究者と話をしてきたのですが、彼は広い意味で建築と社会のインターフェイスを「設計」している、日本にはいないタイプのひとだと思います。

──そういった意味ではいま何か取り組んでいることはありますか?

建築と社会の接点となるような、それをつなぐ存在が日本では圧倒的に少ない。自分もその役割を担えればと思いますが、そのための装置として、たとえば展覧会のキュレーションやアーカイブなどに興味があるので、今後は人文社会科学の知のアウトプットとしての展覧会の実践にも取り組みたいと思っています。

──2010年にミサワホームAプロジェクトでおこなった展覧会「デザイナーズ集合住宅の過去・現在・未来」展は、その実践としての試みのひとつということですね。

この展覧会はミサワホームさんからの依頼を受けて企画したものでした。社会学者が建築の展覧会をキュレーションするというのはこれまであまりなかったとは思うのですが、ミサワホームさんのAプロジェクトを紹介するという枠組みはあたえられたものだったので、今後はその枠組み自体を自分で提示していきたいですね。

研究目線でいえば、そもそも建築の展覧会やコンペというものが、社会的にどう機能しているのか。これまで建築といえば、「建築家の、建築家による、建築家のための建築」というものがほとんどだったと思います。僕は建築家のひとたちが考えていることや建築的思考に可能性を感じているので、それを社会にいかに伝達したり、溶かし込んでいくかということに取り組んでいきたいと思っています。そこのところでのメディエーター(触媒者)になれればいいんじゃないかなと思っています。

──今後の活動として予定していることはありますか。

たとえば、ロンドンにあるデザイン・カウンシル、RIBA、アーキテクチュア・ファウンデーション、美術館・博物館など、建築関連の文化政策や文化産業団体の実態をフィールドワークによってあきらかにして、文化経済の観点から建築を捉えなおしていきたいと考えています。

またロンドンでは、コンペの審査やデザインの審査など、計画前・竣工後の評価・分析をするメディアが制度化されていたり、建築の文化産業の諸機関が発行する報告書が、建築ジャーナリズムの一角を担っていて、その内容がマスメディアの記事で紹介されるという流れが見られます。ですので、研究としては、それらの刊行物と建築専門誌・一般紙誌・テレビなどのマスメディアを横断して研究することで、社会における建築の受容をめぐる建築ジャーナリズムの総合的な枠組みを提示できればと思っています。

これら建築の文化政策、文化産業、建築ジャーナリズムの研究を軸とした「建築の社会学」に取り組みつつ、日本でも同様な動きができたらいいなと。建築家の有名性にかんする博士論文など、これまでの仕事をいくつかまとめなければならないので少し先のことになってしまうかもしれませんが。

Vol.4 南後由和インタビュー(4)

いま必要とされる建築家像をめぐって

変わるものと、変わらないもの

──これまでお話いただいたような建築と社会、歴史を横断するような南後さんのグローバルな視点というものは、今後ますます必要になってくると思います。日本では、3・11以後、エネルギーや経済政策において大きな転換期をむかえています。ポスト3・11を踏まえ、社会学者の視点からいま考えていることがありましたら教えてください。

いかに建てるかではなく、どこに建てるかなど、いままでの都市や建築のあり方を根本的に考えなおさなければならない、というのは重要な課題としてあると思うのですが、抽象的な言い方になってしまいますが、「変わるもの」と「変わらないもの」があります。いま多くのひとが変わらなければいけないということに目が向きがちです。けれど、僕はその境界に関心があります。日常と非日常、見えるものと見えないもの、残すべきものとそうでないもの、それらが自分たちの社会にとってどう位置づけられているのか、ということです。

──たしかに、変わることばかりに目がいきがちななか、変わらないことを考えるという視点は新鮮ですね。

阪神・淡路大震災でも、神戸が大惨事になっているときに、大阪では若者がデートを楽しむ日常が営まれているという光景を目の当たりにしました。たった数キロの大阪湾を挟んだ対岸同士でも、かなりの温度差があったのですが、その温度差があることが社会のリアリティだと思うんです。そういった意味でいうと、東京で生活しているひとの誰しもが震災に対して、アクションを起こさなければならないとか、全員が普段とはちがうことをやらなければならないということは難しい。むしろ、急進的に変わらなければならないという観念は怖い。もちろん、現状のままでいいとはまったく思わないし、見なおさなければならないこともたくさんある。
けれど、変わらなきゃと思っている一方で変われない、変わらない自分を引きずっているということも現実だと思うんです。あるいは、なぜ変われない、変えることができないのか。そこにも目を配りたい。

僕はAからBにがらっと変わる革命的な変化よりも、徐々にグラデーションをなすように着実に別の様相へと変わっていく生命的な変化の仕方のほうにリアリティを感じるほうだったので、その価値観が、3・11を受けて大きく揺さぶられたのも事実だと思っています。

でも自戒を込めていえば、やっぱり、ポスト3・11という言葉を安易に使ってしまうことには慎重でありたいと思います。これは、もうすぐちくま学芸文庫から文庫化されるルフェーヴルの『都市への権利』の解説にもちょこっと書いたことですが、技術やインフラが抱えている多くの課題は地震以前から潜在していたことです。それらが僕たちの日常生活を「当たり前」のものとして構成していて、以前は潜在していた問題が危機として認識された。そうだとすれば、危機は急に訪れてやがて終焉を迎えるものというよりはむしろ、現代には危機が蔓延していて、日常生活の営みと表裏一体のものとしてあると考えることのほうが難しいでしょうが、大切なことなのかもしれません。

それからこれも3・11をきっかけに、よく目に見えるようになったというだけですが、いままで都市的な人間関係とされてきたものとはちがう、都市のあたらしい人間関係が希求されています。

社会学に、ゲマインシャフトとゲゼルシャフト(※)という言葉があります。ゲマインシャフトというのは、農村など、ある場所で生まれると、そこで教育を受け、就職して結婚して子育てをしてと、主に血縁、地縁関係によって形成される親密性が高く流動性の低い集団です。一方、ゲゼルシャフトというのは、東京やニューヨーク、パリといった大都市に地方から出てきたひとたちが、匿名的な他者同士お互いのことをあまり知らずに暮らしている状態にある集団です。

これまでの都市は匿名的な他者同士でお互いが無関心であっても、そこで難なく暮らせたわけですが、都市にもゲマインシャフト的な人間関係を必要だと感じるひとたちが増えつつあるように思います。かといって町内会的に何でも一緒にしなければならない縛りがあったりすると、わずらわしい。個々人の独立性を担保しながら、互いにつながりうるコミュニティの場をいかに都市に組みこんでいくことができるかが課題ですね。

(※)ゲマインシャフトとゲゼルシャフト。ドイツの社会学者フェルディナント・テンニースが唱えた社会類型の一種。ゲマインシャフトは、共同体における、血縁、地縁、友情関係を中心にした親密な人間関係のより結びついた集団。ゲゼルシャフトは、都市や国家、会社など、合理的な人間関係に基づいた社会的集団。

建築家|南後由和 12

建築の際・第4回「振舞の際」(2009)山本理顕×野田秀樹×山内祐平

建築家|南後由和 13

建築の際・第3回「形式の際」(2009)青木 淳×菊池成孔×岡田 猛

いま、何ができるか

──まさに、今回被災地となった東北の農村などは、ある意味近代以前の社会に近い共同体であり、現在の被災地における仮設住宅での暮らしにおいても、これはいつも言われることなのですが、もとからあった共同体の繋がりをどのように検討していくかが重要になっているようですね。

最近、東京でもお寺があたらしいパブリックスペースとして注目されていたりしますからね。一方で、ミクシーやツイッターなどのネット上の「つながり」がありますが、それに空間的なかたちをどうあたえることができるのか。それを都市と情報空間を横断したものと捉えた場合に、そこにどう建築家が関与することができるのかも課題ですね。

──おっしゃるとおり、これだけインターネットが発達してくると、第二の自然ではないですが、インターネットのなかでの仮想的な繋がりも、リアルな世界と無縁であるといえないところにきていると思います。震災後で変わるべきことはあるのだけれど、変わるということにさいしても、何をどう変えるのか、根本的なところを見定める必要がありそうですね。

かつては建築とはどうあるべきか、とか、建築家のあるべき姿とは、といった問題は、べき論というか、規範や倫理に照らし合わせて考えられてきたと思うんです。いまはそれをいったん括弧に入れて、もっと建築に何が可能か、何ができるか、ということを考えられるようになったと思います。原広司さんの著書に『建築に何が可能か』(1967年)というタイトルにもあるように、60年代的状況と似ているかもしれません。

そこでは建築のあり方も当然変わってくると思っていて、何ができるかということを考えると同時に、建築とは何か、という根本的なことをいま一度考えたいと思っています。

──なるほど。

建築とは何か、を問いなおす活動としては、東大の情報学環・福武ホールで「建築の際」という連続シンポジウムを開催しています。これは建築家と、音楽、演劇、数学、生物学、映画などの異分野の方と、東大教員の3名がゲストの企画で、僕が大学院生のときにはじめました。たんにゲストの話を聴いて終わりというのではなく、大学院生がゲストの選定、テーマ決め、当日の問題提起と司会、レポート記事執筆まですべてを組み立てていくボトムアップ型の企画です。

「建築の際」には、いままで建築として認識されなかった領域を建築を軸として編集していくことや、本来的に学際性を備えた建築に焦点を当てながら、専門家に閉じた議論のなかでは見えてこなかった建築の本質や強度に迫りたいという狙いがあります。建築家と異分野、双方のインサイダー=専門家のひとたちにとって発見があってほしいです。

「際」という言葉には多義性があって、英語に訳すとボーダー、エッジ、フロンティアなどのさまざまな意味があります。フロンティアであれば、建築の最先端という意味になるので、建築と異分野との共通点と差異を確認するだけで終わるのではなくて、そこから第三の道筋を導き出せればと考えています。「建築の際」は現在も継続中で、来月10月にはパリやリヨンで開催される「東大フォーラム」の一環として、フランスの専門家や学生と一緒にやる予定です。

──いま現在、日本人全体が「際」の状態に直面しているともいえて、どちらに転ぶかによって未来が大きく変わる、そんな瀬戸際にあると思います。

おっしゃるとおり、現在は試練としての危機であると同時に、物事の様相を転換しうる好機でもある重要な時期だと思います。

「際」を、建築家の磯崎 新さんの概念である「間」(日本語の時間と空間の語源となった言葉。そこでは「時間」も「空間」も同様の概念とされていた)と比較検討してもおもしろいかもしれません。磯崎さんがいう「間」はどちらかというと美学的、静態的な概念ですが、「際」にはつねに揺れ動いているイメージがあって、そこから何かが生成する予兆があります。

──「際」もそうですが、決して混じり合うことのないと思われていた異なる分野の知見が、共通のプラットフォームを得ることで、それぞれの専門的な知識や情報をシェアすることになれば有意義だと思います。

そうですね。建築とは何かにくわえて、建築家という職能の幅にも可能性を感じています。編集者的な視点をもっているひともいれば、プロデューサー的な能力をもっているひと、マーケッター的なことをできるひともいて、先のヴィジョンを示すことができるひともいる。

3・11をめぐって、ネット上に流通する膨大な情報を読み解くうえで、誰が情報を発信しているかが重視され、情報源であるひとへの「信頼資本」が高まりをみせたように、「ひと」の重要性が増しています。建築家は多くのひとを巻き込みながら仕事をしているわけで、ひととしての建築家の再評価が高まると思います。たとえば安藤忠雄さんなど、優れた建築家は多くのひとを束ね、牽引しうる力をもったひとたちだと思うんです。

──ありていな言葉でいえば人間力ということですね。

コミュニティデザイナーとして注目を集めている山崎 亮さんのお仕事も、ひととしての魅力によるところが大きいのではないでしょうか。藤村龍至さんも、年齢、分野を問わず、ひとを巻き込む力がすごい。集団制作を統合していく建築家の振舞いの根源的なところが再評価されつつあると思います。

──今日は社会学の視点からみた建築のお話とても興味深かったです。建築家と施主、都市と郊外など、さまざまなものを繋ぐ関係の背景にあるものがみえてきました。今後もいろいろと一緒に考えさせていただければと思います。今日はどうもありがとうございました。

(2011年7月7日 本郷の東京大学福武ホールにて)
建築家|南後由和 14

Photo by Takashi Kato

南後由和|NANGO Yoshikazu
1979年 大阪生まれ
2004年 東京大学大学院学際情報学府修士課程修了
2008年 同博士課程単位取得退学
2008年~2011年 東京大学大学院情報学環助教
2011年~ 同特任講師

           
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