特集|OPENERS的ニッポンの若手建築家 PARTII  Vol.3  吉村靖孝インタビュー
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2015年5月21日

特集|OPENERS的ニッポンの若手建築家 PARTII  Vol.3 吉村靖孝インタビュー

Vol.3 吉村靖孝インタビュー(1)

社会における建築のあり方を変える

社会や、暮らしのあり方を考えることは、同時に建築の現状を考えることでもある。建築家 吉村靖孝氏は、社会における建築のあり方を変えたいと言う。それはとりもなおさず、建築が社会やひとに対して優しくあるべきだという考え方に繋がっているのではないだろうか。震災による強烈なインパクトをまえに、建築や都市は、もろくもはかない姿を露呈した。建築のオリジナリティを意識したうえで、それを他者と共有し、かつあたらしい価値を創造すること。震災以後の取り組みを中心に、吉村氏の建築へのスタンスを聞いた。

インタビュー、まとめ=加藤孝司

いま何を手がかりに都市をつくるか

――吉村さんは大学院修了後にオランダに渡ったと聞きました。当時のオランダの建築家たちの都市への立ち向かい方や、情報化社会における先験的な取り組みは、現在においてなお有効的な方法論たり得ていると思います。日本でも震災以後、都市が抱える問題や街づくりは、社会問題として議論されています。それを踏まえ、吉村さんがオランダで得たことを教えてください。

オランダに行ったのは1999年。オランダが好景気に湧いていた時期です。なかでも僕が働いていた「MVRDV」は、はっきりとその影響を受けていました。入所した当時のスタッフは15人程度、2年後に帰国するさいは60人ほどもいましたから、右肩上がりのムードをイメージしてもらえるのではないかと思います。

僕がもっとも感心したのは、そういった状況をうまく利用して、実験的な試みを数多く世に送り出していたことです。帰国して10年になりますが、いまふり返って考えてみると、それはけっして簡単なことではなかったはずだと思います。たとえば日本でもバブル期の建築が実験的であったことは疑いのない事実ですが、日本の場合は、建築の表層的な差異による付加価値の操作に終始していました。オランダでは、都市の骨格にメスを入れるような、より本質的で大胆な提案が受け入れられていって、地図を塗り替えているような手応えを感じることができました。美容整形ではなく、心臓を入れ替えるような大手術をしていたわけです。

また日本では、バブル崩壊以降、床面積を獲得することが利益につながる不動産の一番単純なスキームが前景化して、単調な高層マンションなどが建ちならぶことになりますが、オランダの建築家たちは、そのスキームにも飲み込まれずに独自の価値観を提示しようとしていたように思います。当時のオランダの都市に対するアプローチの多様さには、いま思い返してもワクワクさせられます。しかしそんなオランダでも、僕が帰国してから急速に景気が後退し、それ以後は大胆な提案が受け入れられにくくなったと聞きます。

日本がいま置かれている状況は、オランダが経験していない領域に踏み出していると思いますが、それでも学べることはあるように思います。好景気と震災では、条件が大きく異なりますが、どちらも都市的実験の採用条件になり得ると思うのです。研究や議論ではなく、決断が必要なフェーズにはからずも突入してしまったわけですから、ここで、どれだけ深く都市や社会の構造にコミットできるのか、建築家だけでなく、あらゆる分野のデザイナーたちの力量が試されているように思います。

吉村靖孝|建築家 02

『オリンピアクウォーター』(2009年~)Stadgenoot and MVRDV

吉村靖孝|建築家 03

『オリンピアクウォーター』(2009年~)Stadgenoot and MVRDV

――都市というものを批判的に捉えながら、実験的な試みをしてきたオランダとおなじ状況に、いま日本はあるということですか?

むしろ日本こそシビアな状況に直面していると思います。オランダは大きな国ではありませんから、いわば試験管のような取りまわしのよさがある。日本はずっと大柄ですし、しかもいきなり臨床段階を迎えてしまった。実験的であらざるを得ないような、緊迫した状況ではないでしょうか。

――建築家が都市に回帰する局面が、半世紀をかけて一巡してもどってきたということでしょうか。

その役が建築家になるのかどうか、正直なところまだよくわかりません。でも、いま日本の建築家はこの問題に真摯に取り組んでいると思うし、これまでとはちがう力が作用しはじめているような感覚はあります。建築家は、コンセントの位置だとか子ども部屋の数だとか隣家からのクレームだとか小さな条件に寄り添いながらも、そこに数十年後の都市といった大きな対象へと繋がるビジョンを織り込むよう訓練されています。ともかく動き出してしまったこのような状況下では、もっとも必要とされる力を備えていると言えるかもしれません。

――オランダは決めることを前提に、話し合うことを重視する社会だと言われます。いままさに我われが直面しているのは国難とも言える状況です。それが、1000年に一度のものなのか、50年に一度なのかわかりませんが、つぎの地震や津波に対して、どう備えるのかについて、規模のちがいこそあれ、オランダをお手本とすることはありそうですね。

たしかにオランダ人は洪水に耐えながら干拓を繰り返してみずから国土を築いてきた国民です。合意形成過程が極めて機能的にできているのは、そういった切迫した背景があるからだといえます。

――「オランダの土地はオランダ人がつくった」と言われるゆえんですね。歴史を積み重ねたり、文脈をつくる手がかりがないところからはじめているんですね。

オランダの干拓地と東北の津波による水害地域は、一見すると似ていますが、単純に海面下だった場所と、すでに長いあいだひとが住み、まだその痕跡が残っている場所とでは背景が大きく異なります。合意形成のシステムなど学べるところは学びながらも、より複雑な条件を解いていかなければなりません。そもそも日本のように豊かな地形をもつ国では、白紙に絵を描くように提案してもうまくいかないでしょう。人間はその単調さに耐えられないはずです。じつはオランダ人たちも、そこは後悔しているところがあります。

――それはどういったことですか?

彼らがよかれと思ってつくってきた1970年代、80年代のソーシャルハウジング(賃貸公共住宅の一種)が機能不全を起こしているんです。それらは十分に美しいけども、単調すぎて息苦しいわけです。僕は「MVRDV」がマスタープランを担当したアルメラのニュータウンの開発計画に参加していますが、そこでは世界中から25組の建築家を招聘しています。建築家の個性によって多様性を担保するわけです。皆でおなじ方向を向くことには大きな危険が潜んでいます。日本でもできるだけ多くの建築家が独自の行動を起こすことで多様性を生んでいかなければいけないと思います。

――震災からの復興が急がれるなかで、本来の都市や暮らしのなかにある、個々のちがいや多様性がないがしろにされていないか。さきほど吉村さんがおっしゃっていたように、経済性だけが優先され、ひたすらおなじものを反復するような建築が建ちかねない現状に僕も危機感を感じています。

吉村靖孝|建築家 04

『軒の家』(2008年)Photo by Yasutaka Yoshimura

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『軒の家』(2008年)Photo by Yasutaka Yoshimura

Vol.3 吉村靖孝インタビュー(2)

「かたち」以前の、デザインを考える

――高度経済成長期以降、社会全体が右肩上がりで進展していく過程で、自分たちが生きているあいだには大きな天災は起こらないであろう、という見込みのもとで社会をつくってきたところがあります。これまで意識的にも無意識的にも、隠蔽してきたことが起こってしまった。原発の問題にしても、これからおなじことが日本中で起こり得ることが明らかになってしまった。

そういったなかで、吉村さんのお仕事で、僕が興味深く思ったもののひとつが、建築法規もふくめての既存の都市へのリサーチ活動でした。これまで日本の都市は個性や美観という多様性よりも、効率優先でつくられた美しいとは言えない街並みが特徴的でした。そんなところで、いまある街や建築をありのままに見てやろうという同世代の視点が、とても新鮮でした。そこで質問ですが、現状をまず肯定してからはじめようという、吉村さんの建築家としてのモチベーションはどこからくるのでしょうか。

いま大多数を占めているもの、主流と呼ばれるものには、それなりの理由があるはずです。それをいったん信じてみる。そのうえで、少しチューニングを変えると俄然よくなるようなポイントがないかを探す。その繰り返しです。より多くのものがよりよくなることを探求するのは、僕にとってはテーゼのようなものです。

あたりまえのことのように聞こえるかもしれませんが、建築家は少数でも圧倒的によくすることのほうに関心があるタイプが多いと思います。僕自身もそういう教育を受けているし、そうやってできた建築のファンでもある。でもいまは、建築家が小さなことや少数でしかできないことをつうじて培ってきた手法を、大きなことや多くのことに適用することに興味があります。手法はおなじでも対象がちがえば当然ちがう結果が生まれるわけですから、そこであたらしい建築が生まれるのではないかと期待しています。

なかでも法律は多くのものを一気に変える可能性を秘めていると思います。そこでまず、現在の法規に対して、建築家や建築士がどのようにふるまっているのかを研究する必要があると考えてはじめたリサーチが『超合法建築図鑑』の下敷きになっています。しかしいま言ったように、僕は法規だけではなく、建築を背後でコントロールする規制力全般に興味があります。

――そのような既存の建築の背後に書かれているルールに興味をもつきっかけは?

菊竹清訓さん(※1)の『代謝建築論』という本があります。そこには有名な「か」「かた」「かたち」の話があって、菊竹さんはそれぞれに構想、技術、形態をあてています。僕はこの本を読むことではじめてはっきりと「かたち」以前の段階を整理できました。「か」は神の「か」で超越的なビジョン。そこに「た」(田や手)がくわわると典型ができて、さらに「ち」(血)がくわわると形態になる。この3段階をうまくドライブさせることで、建物が建築になるわけです。

ミース(・ファン・デル・ローエ)が「ふたつの煉瓦が注意深く置かれるとき、建築ははじまる」と言っていますが、これはまさしく「か」+「た」の段階を示しています。建築は「かた」の段階ではじまっているともいえる。建築家は「かたち」だけでなく「かた」(=ルール)にかかわらざるを得ないと思っています。

吉村靖孝|建築家 08

『超合法建築図鑑』(2006年)

――吉村さんにとっては「かたち」でも、「か」でもなく、「かた」であるということですか?

「か」も「かた」も「かたち」も重要です。どれが欠けても建築にはならない。ただ、「かたち」はある種の飽和状態というか、なんでもありの、箍(たが)が外れた状態にある。そこにいたるまえに一歩踏みとどまって「かた」にかかわることで、より本質的な次元で建築を変えていけるのではないかと思います。

――建築家が都市のような大きなビジョンを描きにくくなったと言われて久しいのですが、いまふたたび、そのような大きなものに対峙する必要性がある時代ではないでしょうか。吉村さんは建築家として都市のような規模の大きなものに対しては、どのように考えていますか?

ひとりの人間の強力な個性が、都市のような大きな対象に影響をあたえていくことは大いに考えられるのですが、ひとりが描ききったものは、それがどんなに大きくても都市ではないと思うんです。

都市というのは、異なる個性の混在にその本質的な意義がある。個と個の干渉が起こらないほど十分に広い状態は都市とは言いませんから、密度と多様性こそ都市の成立要因で、それを是が非でも魅力に変えなければならないわけです。しかし不思議なもので、この世にあるものは、ほうっておくと、衛生的で、整頓が行き届いて、おもしろみのないものに置き換えられていく性質があるようです。都市やその郊外も例外ではなく、実際クリーンで揃った街並みこそ豊かであると考えるひとも多い。でも僕はそうは思いません。そういった波にどうやって抗(あらが)うかということと、建築家として生きるということとは、矛盾しないと思っています。

――さきほどのルールにかんする「かた」のお話などをうかがうと、現在の吉村さんの活動に繋がっていると想像します。吉村さんが取り組まれている「C.C.ハウス」のプロジェクトも、かたち以前の「かた」のお話なのかなと思いますが。

そうですね。展覧会にあわせたレクチャーのタイトルは「建築の買い方」にしました。完全にかたち以前の話です。でもそれをかたちに結びつける方法があるのではないか、というのが「C.C.ハウス」の試みです。具体的には、建築の図面を安価、または無料で配布し、しかもそれを自由に改変できるようにするものです。ユーザーは建築のあたらしい手の入れ方を獲得することになります。

僕は、建築を使うひとの生活に興味があります。建築を「買う」ことで、その生活が大きく拘束されるような事態は避けたい。実際、家を手に入れるために35年ローンを組んだりしていると、一生会社を辞められないとか、家のために子どもは何人までとか、家が生活の重荷になってしまっている現状があって、建築家として、これは耐え難いものがあります。どうやったら建築をおおらかで風とおしのよいものにできるかと考えるとき、買い方の問題は避けてとおれないと思います。

※1
菊竹清訓|KIKUTAKE Kiyonori
建築家。1928年生まれ。1960年代より、黒川紀章、槙文彦らとともに、新陳代謝を意味する建築運動「メタボリズム」を提唱。著書『代謝建築論』のなかで、「か」「かた」「かたち」をそれぞれ、構想、技術、形態に対応させ、建築デザインの方法論とした。代表作は「スカイハウス」(1958年)、江戸東京博物館(1993年)ほか

Vol.3 吉村靖孝インタビュー(3)

どうつくるかではなく、いかに使われるか

C.C.ハウスの場合は、そうやって購入の負荷を下げながら改変の自由度を高めることで、やがて民家のような、知恵の蓄積を伴う建築ができないかと期待しています。それは、建築の創造性って何? という問いかけでもある。特殊な敷地、特殊なクライアントに対して、特殊な解決法を導くことだけが建築家の能力を発揮する場となってしまうのはつまらないと思います。

――建築が固有の敷地やクライアントの要望に応える、「その場かぎり」のデザインになってしまうということですか?

表現がおだやかすぎるということによって民家を評価できなくなっているとすると、それは評価軸を提供している現代建築のほうに問題があるように思います。おだやかさだけでなく、民家にはさまざまな創造性の蓄積があり、それが魅力になっていると思うんです。それに対して、現代の作家は、オリジナリティを追い求めるあまり、ほかの誰かが試みたアイデアを禁じ手にしてしまう。せっかく創造的な仕事をしても、その成果を蓄積しにくい状況だと思います。

――C.C.ハウスのプロジェクトでは、その問題に対してどのようにアプローチしているのですか?

著作権の存在が、上書きを重ねて少しずつ進化していく過程を阻害しているかもしれないと感じ、クリエイティブコモンズのライセンスを利用してみようと考えました。C.C.ハウスのCCというのは、クリエイティブコモンズの略なんです。ご存知のとおり、クリエイティブコモンズというのは、著作権を完全に保護するのと完全に放棄することのあいだに本来グラデーション状に存在するはずの権利について、細分化しながら明示し、創造的な仕事を共有しようという試みです。音楽や映像の分野ではすでに広く知られていますが、建築であまり大々的に取り上げられることはありませんでした。

クリエイティブコモンズによってオープンエンドなデザインが可能になれば本当に画期的だし、建築も上書きを繰り返しながら、生物が進化するような変異をしたらよいと思います。

先日とある鼎談で、オリジナリティとクリエイティビティはちがうという話になりました。オリジナリティは自分の内側に潜っていってアイデンティティを探り当てるような感じです。かたやクリエイティビティは、そのオリジナリティの限界を越えたときに起こる飛躍です。設計のプロセスに他者を組み込むことによって、この飛躍の可能性は高まります。C.C.ハウスは凡庸で退屈なものを目指しているわけではないです。建築のクリエイティビティを否定しているわけではないんです。

僕ら建築家が設計するものすべてをオープンソース化するべきだとまでは思いませんが、部分的にでも開いていくことで、建築全体がよりよくなっていけばいいと思いますね。

――建築設計のオープンソース化という試みは、これまでにないあたらしい考え方ですね。

ただ建築ってもともとそういう性質があったと思うんです。まず音楽とか映像の分野と比べると著作権感覚がすごく甘いところがあるじゃないですか。師匠の芸当を受け継ぐところからはじまり、雑誌で本来秘伝のはずのディテールを惜しげもなく公開しちゃったり、業界全体が比較的おおらかに著作権を運用しているところがあると思います。1900年に日本の著作権法が施行されたときには、「本法ハ建築ニ適用セズ」という条文がありましたが、その感覚がいまも脈々と生きているように思うんです。

そういう感覚があるからこそ建築が徐々に底上げされてきたのだけれど、この状態はけして盤石ではない。誰かが異議をはさみ込んだ途端にもろくも崩れ去ってしまう可能性があると思います。そうなってしまうまえに、クリエイティブコモンズのような考え方を導入しておけば、建築の健全性が保たれるんじゃないかと期待しています。建築にはまだまだ蓄積すべき知恵がたくさんあると思うんです。

吉村靖孝|建築家 11

『C.C.ハウス図面』(2006年)資料提供:吉村靖孝建築設計事務所

吉村靖孝|建築家 12

『C.C.ハウス図面』(2006年)資料提供:吉村靖孝建築設計事務所

――C.C.ハウスにはあらかじめ、著作権の一部放棄みたいなものが謳われていますが、建築ってそもそもそういうものだったじゃないか、というご指摘ですね。

そうです。著作権を守りすぎるとおかしなことになるよ、という警告の意味もあります。実際、海外では映画のなかに登場する建築に対して著作権を主張する裁判が起こりはじめているので、急を要すると思っています。かりにニュース映像などでも建築にモザイクがかかるような時代がきたら本当に嘆かわしいと思います。たんなる劣化コピーのようなことは、もちろん避けなければなりませんが、複製することでデザインによりふさわしい敷地を手に入れたり、複製することでより多くのひとが建築に触れることができるようになるならば、積極的に試してみる価値はあるんじゃないでしょうか。

――たしかに音楽にしても、これまではオリジナリティにかんして、たとえばビートルズの曲を真似してはいけない、ということばかりに注意が向けられていたけれど、そこにある問題をクリアしながら、DJがその場の空気を絶妙に読み既成の楽曲をサンプリングして、圧倒的に場を盛り上げる音楽をつくるようなことが当たり前になっています。

そうなんですよ。建築家って自分の図面を一回しか使わないじゃないですか。それは、固有の敷地に対して固有の建築をつくったという満足感と自信に支えられているのだけれど、よくよく考えてみると、これがほかの敷地に建っていたらとか、別のクライアントがいたら、別の予算がついたらなど、自分の図面を自分で再利用できる機会があったら、建築がより一層よくなっていくんじゃないかと想像します。

――思考の蓄積であるはずの建築に対し、つぎの建築に繋がっていくあたらしい道筋を示すことができたならよりよいと。

いまの世の中、これだけ無秩序に一品生産が許されているのは建築だけですからね。フェラーリだって複製されているわけですから。

――建築家の書いた図面で、コピー/ペーストじゃないですけれども、複製されていった例はいままでありましたか?

スキポール空港の図面が売られてアフリカのどこかにまったく同一の空港があるという噂は聞いたことがあります。ロンシャンの教会が中国の市街地にコピーされたという話もありました。ハードウェアはおなじでも、文脈が替わるだけでまったくあらたな価値が見出せることもあるかもしれませんが、それらの実例が、そこまで達成できたか疑問です。

まったくおなじものではなく、少しずつモディファイされていったほうがいいと思うんです。工業化による複製よりも、図面による複製のほうが手をくわえやすいですから、僕はその意味で図面の複製に期待しています。

――僕らが素直に美しいと思える都市の風景、たとえばフランスのパリの街並みをつくっている個々の建築にしても、よくよく見てみれば互いには、それほど個体差はありません。少しずつちがっているものが寄り集まることで、街並みとしては均整のとれた美しさが生まれることはあると思います。そういった意味では、日本の街並みは整っているとは言い難いのですが、ひとつの集合として、多様なもので構成されているもののよさは感じることがあります。

とくに東京のこの風とおしのよさは、ほかの都市には見られない特筆すべき質だと思います。日本の建築基準法の第一条には「最低限の基準を定める」と書いてありますが、それだけに市場の欲望が最大化して、かえって法の輪郭を描き出してしまうという状況です。『超合法建築図鑑』を書いたときには、それをポジティブに乗り越えていこうという思いがありました。

しかし最低限といっても、建築は古いジャンルなので、規制が重荷になることは数多くあります。「エクスコンテナ」という、コンテナハウスを被災地に送ろうというプロジェクトに取り組んでいますが、壁また壁の連続で、やっぱり法規ってすごい拘束力なんだなとあらためて実感しています。

――エクスコンテナ・プロジェクトは、このような災害時には有効だと思えるだけに、現状の法規に対するもどかしい思いがありますね。

日本人というのは、この非常事態においても、違法なバラック住宅を建てたりしないことに驚きました。想定外の災害なのだから、想定外の方法で家を確保しなければ、命にかかわるはずです。自主的にそこら辺にあるものを寄せ集めて家を建てはじめてもおかしくないと思うんですよね。

――規模も時代背景もちがうかもしれませんが、広島や長崎の原爆投下のあと、街にはすぐに建物が建ち、そこで商いをはじめるひとたちがあらわれたと聞いたことがあり、人間の力強さに驚いた記憶があります。今回の震災以後、東北でも一部あったようですが、法を侵していると非難されたようです。社会性という名目でルールをかたくなに守ることによって、人間にとって本当は大切なはずの本能的なものの芽を摘んでいるような気がしています。

異常な拘束力を発揮する、法律がもつ嫌な側面があらわにされたような気がしますね。

吉村靖孝|建築家 14

『ベイサイドマリーナホテル横浜』(2009年)資料提供:吉村靖孝建築設計事務所

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『ベイサイドマリーナホテル横浜』(2009年)Photo by Yasutaka Yoshimura

Vol.3 吉村靖孝インタビュー(4)

未来のビジョンを示す必要性

――いままでのお話のつづきになりますが、震災以後考えていることを教えてください。

震災後すぐに、被災地にコンテナ規格を流用した仮設住宅を送るプロジェクトを立ち上げました。それがエクスコンテナ・プロジェクトです。

安価で常設にできるコンテナのプロジェクトは、震災とは関係なくここ6~7年継続して取り組んできたので、そこで蓄積してきた技術を応用して、なにかできることがあるはずだと思ったんです。

災害救助法で規定されている応急仮設住宅というのは、2年経ったら撤去してしまうことになっていて、仕様もそれなりです。それを改良してそのまま常設の住宅として使えるような仕様にし、2年後以降も継続的に利用してもらうことを目的としています。

エクスコンテナは工場で内外装を仕上げてしまうので、現場での工事は最小限ですみます。したがって移設も容易なんです。まずは校庭や公園などで仮設住宅として使ってもらいますが、2年の法的な存置期限が過ぎたあとで安く払い下げて、それ以降は引きつづき自分の土地に持って帰ってもらってリユースするというスキームを想定しています。

――2年といえば、やっとそこでの暮らしが安定してきて……という段階だとも思うので、住民の方にとってもよいかもしれませんね。

2年後に行き場を失うひとを出さないために先行投資が必要だと思います。しかし土地が足りないもののプレファブ協会の供給能力が十分にある現状では、応急仮設住宅としてエクスコンテナを受け入れてもらうことは難しくなっています。

その理由をいろいろ考えてみると、税金を使って建てるものをリユースして個人の資産に組みいれるという、そのスキーム自体がまちがっているんじゃないかということがまず挙がります。そういった問題に対し、これまで日本は、2年で撤去することが決まった応急の支援であって、個人の資産をうるおすための税金投入ではないというロジックを構築していたわけです。でも、僕の感覚からしてみたら、今回の災害では、そんなことを言っている場合じゃない。これは大きな壁となっています。

もうひとつの壁は、仕様のちがいそのものに潜んでいる可能性があります。エクスコンテナには、透光断熱壁や積んだ場合に階段になるトップライトなど、小さいながらも、さまざまなアイデアを組み込んでいますが、それが不公平感の助長につながるという意見があるそうです。

それとこれは誤解なんですが、工場でつくることを前提としているので、地元のマンパワーをあまり活用できないと思われているかもしれません。でも僕らは設計事務所だから、実際の施工は被災地の工務店でつくってもらったとしてもなんの問題もないわけです。それでも2年後に動かして常設できるというコンセプトはそがれません。

いま現在は、民間の支援団体とコラボレーションしたり、被災された個人や企業の方から依頼されたりとさまざまなお話をいただいて導入に向け準備している最中です。

――今回のエクスコンテナは、これまでホテルの実績もあるなど、暮らすひとへの最低限のホスピタリティが配慮され得るのではないかと感じます。とりあえず住めればいいということでは阪神淡路大震災のときのような、孤立や老人の孤独死といった問題を繰り返すのではないか。仮設であっても、住み心地はないがしろにされてはいけないとも思います。そこに建築家でしか考えつかないような、デリケートなアイデアが活かせるんじゃないでしょうか。

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『EDV-01』(2011年)Photo by Yasutaka Yoshimura

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『EDV-01』(2011年)Photo by Yasutaka Yoshimura

――吉村さんのコンテナプロジェクトから発展した、インフラフリーの「EDV-01」について教えてください。

大和リースの50周年を記念したプロジェクトです。災害によりインフラが壊滅的な被害を受けた地域で、おとなが一定期間暮らせるだけの設備と生活空間を備えたコンテナをデザインしています。運び込んだあとで2階建てに伸張するギミックが仕込まれているのが特徴です。それで生活空間という空気の塊を運ばずにすみます。

今回はプレゼンテーション用の試作機しかなかったため、実際に被災地で使うことはできませんでしたが、このプロジェクトは災害後だけでなく防災的な観点でも有用だと思っています。

たとえば、今回の福島第一原発の事故によって、東京電力管内のエネルギーを福島でつくっていることがあきらかになりました。東京の輪郭は、じつは僕らが普段認識しているような地図上の米粒型の形状ではなくて、すごくいびつに「飛び地」をもっていることになります。どうやって輪郭の整合性を高めていくのかと考えたときに、インフラフリーであることが効いてくるわけです。またインフラフリーであることによって、被害を最小限にとどめることが可能になります。被害がなければ地震や津波そのものは災害ではなくなるわけですから、もっと真剣に議論されていい重要なテーマだと思います。

たとえ自然エネルギーを利用したあたらしいエネルギー供給システムであっても、一ヵ所にまとめてしまえば、今回のような問題があったときに全体がストップしかねません。発想はエネルギーのクラウド化に近いものだと思うのですが、できるかぎり単位を小さくして、それぞれの家がインフラを抱えて自立しているような状態ができれば、災害に対しても強い状態がつくれるのではないでしょうか。

――それぞれの家庭で発電したエネルギーを、個々で使うと同時に、蓄電池などに蓄えて、余ったぶんは電気会社に売ったり、ご近所同士でシェアする。個別でエネルギー源をもつことにくわえて、それをみんなでシェアするという方向性もありますね。そこで最後の質問なのですが、その一貫した考えが生まれた背景は、どんなことがあると思いますか?

大学4年生のときに、阪神淡路大震災(1995年)が起こりました。そのとき僕は卒業設計の年で、ボランティアもなにもせずただもんもんとしていたんです。でも報道で見る被災地のようすから、建築がたんに「かたち」と戯れることのむなしさを、はっきり感じました。

しかし一方で、やはり建築家は「かたち」を生み出すことしかできないわけです。たとえそうだとしても、「か」や「かた」と真剣に向き合うことで、「かたち」の背後に手応えを感じることができるようになるだろうと思いました。

地震で変に気負ったわけではなくて、逆にわりとリラックスしながら建築に向き合うことができるようになった感じです。それ以前、なにをしていたかといえば、学校の課題に漫画を描いて提出したりしていたんです。

――建築設計の課題にですか?

そうです。漫画を描いたり、目隠しのためのアイマスクをつくったりして提出していました。「かたち」不信で力が入りすぎてしまって、建築をつくれなくなっていました。壁や柱を建てなくても、建築的に豊かな経験を誰かのなかに呼び起こすことができるんじゃないかというアプローチです。だからいっこうに設計がうまくならない(笑)。

――本来的に建築って、街に建ったときのかたちであったり、間取りであったりに住むわけではないじゃないですか。それ以前に、そこで何をしたいか、誰とどんなふうにして暮らしたいか、未来の夢みたいなものが大切だと思うんです。かたちは、そのためのうつわにすぎない。そのうつわが美しかったり、好きな建築家が手がけたものであったり、それが暮らしの豊かさにつながっていくことが大切かなと思います。
逆にいえば、そこでどんな暮らし方やふるまい方をしたいかがわかっていなければ、あらかじめつくるかたちは、絵に描いた餅になりかねないという。

本当にそうですね。建築のプログラム、与件にあたる部分を変えていかないと、建築って変わっていかないと思うし、逆に与件が変わってしまったことをすなおに受け入れさえすれば、建築は自然に変わるともいえます。その意味で、いまの社会状況に対応する建築はまだまだぜんぜん足りないと思っています。建築家があまってるなんて冗談でしょ? という感じです。

――建築のあり方次第で、社会がいまよりよい方向に変化する可能性はまだまだありそうですね。今日はどうもありがとうございました。

(2011年7月4日 吉村靖孝建築設計事務所にて)

吉村靖孝|建築家 20

Photo by Takashi Kato

吉村靖孝|YOSHIMURA Yasutaka
1972年 愛知県生まれ
1997年 早稲田大学大学院理工学研究科修士課程修了
1999年~2000年 文化庁派遣芸術家在外研修員としてMVRDV在籍
2001年 SUPER-OS設立
2005年 吉村靖孝建築設計事務所設立
http://www.ysmr.com

           
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