特集|OPENERS的ニッポンの女性建築家 Vol.3 貝島桃代インタビュー
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2015年3月6日

特集|OPENERS的ニッポンの女性建築家 Vol.3 貝島桃代インタビュー

Vol.3 貝島桃代インタビュー (1)

いえ、住居、まち、建築についてのいくつかの覚書

街はさまざまなスケールの建物で構成されている。ビルディング、タワー、家。街を構成する要素としての「いえ」と言ったときに、人びとはなにを想像するだろうか。街のスケールに対し比較的小さなスケールをもつ「いえ」の設計をつうじ、建築や都市にダイレクトにアプローチするアトリエ・ワンの貝島桃代氏。近著を巡る著者自身による考察と、まちと建築にまつわるさまざまなプロジェクトをとおし、「いえ」からみえてくる、東京と都市について考える。

インタビュアー、まとめ=加藤孝司

住宅を「建築」としてみる

──最近まとめられた貝島さんの『建築からみた まち いえ たてもの のシナリオ』という本があります。この本の成り立ちについて教えてください。

建築は、言葉で考えることと、ものをつくることを並行して進めます。このおもしろさを私自身、日々体験するのですが、これを伝えたいと思ってまとめました。

──以前から雑誌などで、貝島さんの文章を拝読していたので、こうやってまとめられているものを読むと、一冊の短編集を読んでいるようで、とても楽しかったです。

この本には、大学卒業から現在までの約19年間の文章がおさめられています。あとがきの文章が一番古いテキストで、「建築文化」という雑誌の懸賞論文のために書いたものです。いま読み返すと、考えていることはあのときからあまり変わってないなと思いました。

──この本の目次はどのように決まりましたか?

この本におさめられた文章は、雑誌などで発表してきたものと、書き下ろしたものが半々くらいです。本をつくることで自分としても、なにをしようとしているのかということが、より鮮明になっていったと思います。

全体は、タイトルのとおり、いえ、まち、たてものの3章構成です。最初は私が日本女子大学の住居学科で建築を学んだこともあり、「いえ」にしました。「いえ」は誰でもが知っている建築なので導入にもふさわしいと思いました。つぎの「まち」は私の大きな興味ごとです。

最後のカテゴリーは「たてもの」です。専門の建築が最後になるのは、変だと思われるかもしれませんが、私が学んできた順序も実際そのようでした。というのも、大学で住居については知識も増えましたが、卒業するころ、ちょうど建築のおもしろさもわかりはじめてきたのです。そこでなんとか建築を本格的に勉強してみたいと思い、東京工業大学の大学院に進みました。そこで学んだのは「建築」が概念だということです。だからそれを議論するには抽象的な思考や枠組みが必要です。研究室の議論では、こうした概念と日常的な問題意識を自由に行き来する、その楽しさを実感しました。

女性建築家|貝島桃代 03

ミニハウス(1999年)

女性建築家|貝島桃代 04

ミニハウス(1999年)

──この本は貝島さんが建築を考えはじめたきっかけや、そこで考えたこと、そしてそれをどう実際の建築につなげていったのか、ある意味建築をきっかけにした自叙伝のようにも読むことができると思いました。

建築を考えることは、社会を考える視点だと思います。社会についてただ話し合っていても話は閉塞的になってしまいますが、そのあいだになにか媒介となるものを差し込むと、話がダイナミックに展開しはじめることがあると思います。このとき媒介はなんであってもいいのですが、建築は概念でもありますが、同時に誰もが体験できてしまうという特徴的な媒体です。そういった意味では、建築は開かれた存在だと思います。しかも、より知ろうと思えば、技術や経済、歴史など、いろいろなものが書物とおなじように編み目のようになっていますので、掘り下げていけばいくほど深いところがみえてきます。

──建築はそれ自体ひとつの学問といえますね。

私は建築の、いつまでも話しつづけられるところや自分と年齢や国籍などの異なるひとが来たときに、またちがう対話がおこる、そういうことがとてもおもしろいと思いました。

──街なみにしても東京にしても、日々変化していて、育った地域や世代によって、異なる見方や、捉え方ができます。ある意味、これだ、という答えがないところがすべてのひとの興味の対象になりうるところだと思います。

そうですね。言葉とつくるもののズレがあることも建築のおもしろいところだと思います。

Vol.3 貝島桃代インタビュー (2)

いえ、住居、まち、建築についてのいくつかの覚書

アトリエ・ワンについて

──貝島さんはご自身の活動とともに、アトリエ・ワンとしてご活動されています。よく訊ねられることだと思うのですが、パートナーの塚本由晴さんとはどのような役割分担をされているのでしょうか。

お互い性格や考え方が似ているところがあって、アトリエ・ワンとして活動していますので、とくに役割分担はありません。

──では、「アトリエ・ワン」の名前の由来について教えてください。

私たちの活動がひとつに見えたほうがいいと思っていましたので、チーム名をつけることにしました。名前自体の由来は、当時私の実家で飼っていた犬からです。英語圏ではアトリエ・バウワウ(Bow-wow)といいます。日本ではワンと鳴くのに、英語だとバウワウと鳴く。おなじ鳴き声が言語によって変わってしまうこともおもしろいです。

女性建築家|貝島桃代 07

ハウス&アトリエ・ワン(2005年)

女性建築家|貝島桃代 10

ハウス&アトリエ・ワン(2005年)

──アトリエ・ワンとしてのこれまでの作品は、バブル崩壊以降の1990年代からゼロ年代にかけての住宅作品が有名だと思うのですが、これまでで一番思い出深い作品はどれになりますか。

それは難しいですね。一番長く接しているという意味では、自分たちの家であり、仕事場でもある「ハウス&アトリエ・ワン」でしょうか。

──ご自身の家でもあり、作品でもあるということで愛着が湧きますよね。

自分の家ということもあって、ひとと家の関係が大雑把で、荒っぽさがありますね。

──そもそもが自分たちの家だから、目的も機能もはっきりしているところがいいのでしょうか。

そうですね。自分たちの家だからかもしれませんが、建築ってこれくらいでいいんじゃないかと思っているところがよくでていると思います(笑)。この家の特徴としては、旗竿敷地に建っていますから、通りから見てほとんど外観がないのも気に入っています。また熱環境の快適さや多様な光のようすなど、いろいろな時間が感じられるのも好きですね。

Vol.3 貝島桃代インタビュー (3)

「メイド・イン・トーキョー」

──貝島さんは、東京の都心部で生まれ育ったそうですが、ご自身が生まれ育ったなじみの環境が建築家として建築を考えるうえでのベースになっているのでしょうか?

東京といってもいろいろな場所がありますね。私が育った外苑東通りのあたりでも、戦争で焼け野原になってしまって、あたらしく区画整理された地域や、戦災をまぬがれ江戸の町割りがのこる地域があります。

──戦争でもそうなのですが、僕らの時代でいえば、バブルのころの好景気の勢いにのって古い建物があたらしい建物に変わるなどして、いい意味でも悪い意味でも街が一気にリニューアルされました。貝島さんたちが「メイド・イン・トーキョー」で示したのも、これまでの西洋的な建築のセオリーではあまり考えられもしなかったような、建物の不思議な使い方や、建ち方をしている建築の姿であったと思います。それはある意味、西洋のモダニズムが標榜していた機能や合理性を追求した結果生まれたもののようにみえます。それがモダニズムにおける究極的な日本的な解釈であったと。なにがきっかけとなって都市のサーベイをされるようになったのでしょうか?

バブル崩壊はまさに私たちが建築の仕事をはじめた時期と重なります。「メイド・イン・トーキョー」のようなことを考えはじめたのもそのころです。1991年ごろに街のなかでおもしろいなあと思って気になっていた建物を集めはじめました。それを1996年に磯崎 新さんがプロデュースされた「カメラ・オブスキュラあるいは革命の建築博物館」という建築の歴史にかんする展覧会で展示することをきっかけにリサーチとしてまとめました。歴史の展覧会で、建築史を専門としない私は、ひとつの仮説をたててみました。いまある東京の風景そのものが、戦後の日本の高度成長の歴史の結果で、それが世界的にユニークな環境であるというものです。これを建物のかたちではなく、使い方から生態系としてみせることを考えました。

──それを一冊の書物のかたちでまとめたのが『メイド・イン・トーキョー』(2001年刊)ですね。ここでは、巻頭において現代の東京という都市のみえがかりとしての多様性や特殊性が生まれた背景を丁寧に説明しながら、それにつづくひとつひとつの建物についてはくどくどと説明的にならず、写真と図版によって見開きで、並列的にフラットに紹介しています。この形式はどのように決めたのですか。

女性建築家|貝島桃代 12

MIT_生コンアパート

東京の街にあるこれらの建物は、建築意匠の観点からみれば大胆な構想力や空間的なセンスがあると思い、それらを図化してガイドブックとして見せました。また東京の都市論を発信したいという思いもありました。ポストモダンの時代にはレム・コールハースは「錯乱のニューヨーク」を、ロバート・ベンチューリは「ラスベガス」というように、先人たちはさまざまな都市論から建築を提案しています。東京でそれができるか、試してみたいと思いました。

──2000年前後、僕は建築の人間ではなかったので、『メイド・イン・トーキョー』は当時のアートやファッションというような、サブカルチャーの流れで知りました。そういうような異分野の結びつきというのはいまもあると思うのですが、メイド・イン・トーキョーのユニークさは、この本のなかで写真を撮影されている写真家のホンマタカシさんはじめ、当時のカウンターカルチャーと結びつきながら、その時代に固有の都市論になっているところだと思います。そしてそれが10年以上たった現在も、オルタナティブたり得ていることだと思います。ホンマタカシさんとはどのような経緯でお仕事をご一緒するようになったのでしょうか。

1997年にホンマさんがアイスランドの郊外の風景を撮影した『ハイパーバラッド』という写真集にかんする書評を『アサヒカメラ』で書くことで知り合いました。そのきっかけとなったのは、「メイド・イン・ホンコン」という写真と図版とテキストによる調査を「SD(スペースデザイン)」で発表していたものにホンマさんが興味をもっていただいたことだと聞いています。『ハイパーバラッド』の書評では写真に映されている風景や建築を、当時私が関心をもっていた都市論というものに結びつけて語りました。

──ペット・アーキテクチャーや、マイクロ・パブリックスペースについて教えてください。

ペット・アーキテクチャーは、メイド・イン・トーキョーの一事例でもあります。小さな「隙間」の活用や設備との関係など、建築にあたらしい問題をもたらしていることを述べました。

『ペット・アーキテクチャー・ガイドブック』は、こうした小さな建物を集めたものですが、この本の反響は、アート展への参加という意外な方向に展開しました。美術館の展示作品としてペット・アーキテクチャーをつくってほしいという仕事がきはじめました。韓国の光州ビエンナーレでの「マンガ・ポッド」という美術展でアートから逃れてマンガで一息つく休憩スペースを提案したのが最初でした。これは展覧会がもともと「ポウズ」という休むことをテーマとしていたことにもよっています。その後、いくつかの美術展に出展しましたが、そこでは、最小限の小さな人びとが集まる場所「マイクロ・パブリックスペース」を都市につくりだすことを継続的に試しました。

──先日の国立近代美術館でのアトリエ・ワンの展示「まちあわせ」もそうでしたが、建築の展覧会というと自分たちの作品や考えかたを示すために建築の模型やスケッチを展示するのが一般的かと思うのですが、ペット・アーキテクチャーやマイクロ・パブリックスペースは体験型のものです。建築が体験するものであることを考えると極めて根源的なインスタレーションの方法だと思うのですが、それは、アトリエ・ワンとしての、「生き生きとした空間の実践」という考え方につながっているのでしょうか?

いろいろな展覧会を経験した結果、美術展では作品そのものが展示されていることが多いのですが、そのなかにあって模型や写真、図面などの2次情報を見せる建築は、抽象的で理解するのに、専門的な知識や興味が必要です。

──たしかに、建築模型を興味をもって見るのは、建築についての専門的な知識をもっているひとか、施主に限られそうですね。

そこで、実際に体験できる空間をつくることが、シンプルな解答方法ではないかと思ったのです。

Vol.3 貝島桃代インタビュー (4)

いえ、住居、まち、建築についてのいくつかの覚書

建築や都市のありかたを「地域」から考える

──街はかつて自分たちが行動を起こしていけば、どんどん広がっていく、そんなアクティビティある存在でした。いまは街のほうから、人間の振る舞い方を規定されているように感じることがあります。貝島さんが美術展のインスタレーションや、街を舞台におこなっているプロジェクトは、建築家がやっているということを抜きにしても、建築の概念を拡張していると思います。先日の「まちあわせ」にしても、それが置かれる場所での、ひとによって異なるさまざまなふるまい方を誘発するきっかけに満ちた作品だと思いました。建築家という存在が、現代の街や都市といったものにアプローチする方法とはどのようなことがあると思いますか?

東京は街自体が大きく、経済活動も盛んなのでなかなか簡単ではないですが、地方では最近まちづくりにかかわる機会も増えてきました。

2006年から2007年にかけて金沢21世紀美術館でのアーティストインレジデンスや展覧会で、金沢の町家のプロジェクトに取り組みました。金沢の街に現存する1400軒ほどの町家がならんでいるエリアを学生たちとともに歩いて調査し、その新陳代謝のようすを調べました。「メイド・イン・トーキョー」では規模の巨大さから、都市全体と建物の関係を具体的に語ることはできませんでしたが、金沢ではガイドマップをつくってそれを試みました。

金沢の町家をそのままに使っているものと、手をくわえ正面を改装したもの、新築だが町家らしい屋根型を残しているもの、あたらしいビル型町家の4つに分けて、どの地域にどれが建っているかを色分けしてマップに示しました。さらにその状況と関連があると思われる都市計画的な環境的圧力をいっしょに分析しました。そのガイドマップをもとに、しもたやになっていた町家を改装しゲストハウスにしました。

また筑波大学の貝島研究室では、岐阜県飛騨に「種蔵」という、12世帯が暮らす小さな集落の地図となる絵図を描き、観光看板を改修しました。棚田をいまでも機械化せずに守っている集落です。80、90歳の方々が現役で農業をされています。その魅力を伝えることができないかと研究室の学生たちと村のすべての建物を測量し、作物調査をおこないました。これも「メイド・イン・トーキョー」のようにアクソメで描いています。

その作業の過程で、集落のひとと風景の密接な関係に幾度も驚かされました。雑草ひとつ生えてもわかるくらい土地に目を配って、知らないことがないほど風景をつぶさに見ているんですね。それと同時に、風景自身が集落の生活史になっていることです。

──つぶさに村のなかでの出来事を記憶しているんですか? それはすごいですね。

風景は自分たちの世代だけではなく、先祖の記憶とも結びついています。集落の記憶を呼び覚ますインターフェイスになっているんです。

女性建築家|貝島桃代 15

種蔵のリサーチ(2009年)

女性建築家|貝島桃代 17

種蔵のリサーチ(2009年)

──これまで建築家やデザイナーといわれるひとたちがかかわってこなかったところにかかわっていくことで、暮らしている人びとがいなくなり、やがて消えてなくなってしまうひとと土地の記憶を次世代に残す手だてをつくることができたなら、それは双方にとってとてもいい関係といえるんじゃないでしょうか。

種蔵でのプロジェクトでは、建築に携わる専門家の視点から彼らの生活や風景のすばらしさを伝えるお手伝いをしました。金沢の町家のプロジェクトにしても、古い町家を支える枠組みをデザインすることで、その持続性を支えようとしました。古いものを残す方法として、かたちを変えつつも生きた状態で持続的に使いつづけられるための枠組みを考える創造力が、いま求められているのだと思っています。

──今日は長い時間どうもありがとうございました。

(9月21日 新宿須賀町ハウス&アトリエ・ワンにて)

女性建築家|貝島桃代 18

貝島桃代|かいじまももよ
1969年 東京生まれ。1991年 日本女子大学住居学科卒業。1992年に塚本由晴とアトリエ・ワン設立。2000年 東京工業大学大学院博士課程修了。2003年ハーバード大学大学院客員教員。2005~2007年 スイス連邦工科大学客員教授。2009年より筑波大学准教授。アトリエ・ワンとしての主な作品に、「ミニハウス」(1999年)、「ハウス&アトリエ・ワン」(2005年)、「まちやゲストハウス」(2008年)、「タワーまちや」(2010年)ほか多数。著書に『建築からみた まち いえ たてもの のシナリオ』(2010年)ほか。2000年吉岡賞受賞。
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