祐真朋樹対談|Vol.5 「細尾」取締役 細尾真孝さん
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今回のゲストは、元禄元年(1688年)創業の西陣織の老舗に生まれた細尾真孝さん。20代のころまでは家業を継ぐつもりはさらさらなく、大好きな音楽にアートとファッションをミクスチャーするような活動をしていたと言う。そんな細尾さんが日本の伝統工芸のクリエイティブさに目覚め、家業を継ぐ決意をしたのは数年前。いまでは他の伝統工芸の若き後継者たちとプロジェクトユニットを組み、これまでにないあたらしい日本の美を生み出している。現在その取り組みは、国内外から大きな注目を浴びている。
Interview by SUKEZANE Tomoki
西陣織の老舗の12代目は、意外な経歴の持ち主
祐真朋樹(以下、祐真) 真孝さんは「細尾」の何代目になるんですか?
細尾真孝さん(以下、細尾) 僕で12代目ですね。会社組織になったのは曾祖父の代からです。その前はずっと西陣織の職人でやってきました。注文をいただいて織って納めて、という商売です。それが100年ほど前に、いわゆる問屋業といいますか、ほかの織り手さんのものも買って売るようになりました。
祐真 2000年にお父様が社長になられたとうかがっています。真孝さんはいつからこの家業を手伝うようになったんですか?
細尾 6年前、2008年に戻ってきました。そもそも僕は家業を継ぐつもりはなくて、ずっと音楽をやっていました。西陣織なんて、コンサバティブで古くさいと思っていました。もっとクリエイティブなことがやりたかったんですね。
祐真 当時は西陣織がクリエイティブとは思ってなかったんですね。
細尾 全然思っていませんでした(笑)。高校のときにセックスピストルズにはまりまして、それまでも音楽は好きで、コピーバンドなんかをやっていたのですが、人の曲をちゃんとコピーしたことがなかったんです。でもピストルズを聴いて「ああ、ギターを鳴らしてメロディーをつければ音楽になるんだ」ということを学びました(笑)。それで、友だちとパンクバンドを組んで活動するようになったんです。
祐真 へ~。大学までは京都にいたんですか?
細尾 はい。大学は音楽をつづけるために行っていたようなものですね(笑)。大学に入ってからは、エレクトロニカとか、そっちの方向でした。
祐真 なるほど。
細尾 当時は音楽だけでは食べていけなかったので、バーテンダーとかのアルバイトをしながらやっていました。レーベルが東京でしたので、京都と東京を行ったり来たりして、YELLOWとかLIQUID ROOMとかでライブをしていました。そうこうしているうちに、ファッションの業界で僕と同世代の人たちが成功している姿を見たわけです。ファッションというのは浮き沈みの激しい業界だと思いますが、その「浮き」のほうを見て「あ、ファッションって儲かるのだな」と思いました(笑)。
祐真 (笑)何を見てそう思ったの? エイプとか?
細尾 そうですね。自分たちでマーケットを作って、そこで成功している人たちの姿を目の当たりにしました。僕は音楽をやっていたわけですが、やっぱり既存のマーケットでちょっと仕事をもらっても全然食べていけない。自分たちでマーケットを作ることが大事だと思いました。それで、音楽とアートとファッションを合わせたような、初期の「MAISON KITSUNÉ(メゾンキツネ)」みたいなことをやりたいと思ったんです。で、友だち何人かと服を作り始めました。3シーズンやりましたかね。そのころいっしょにやっていたのが、いま「RAIN MAKER(レインメーカー)」をやってる岸隆太朗くんです。
祐真 へ~。そのころはなんていうブランドをやってたんですか?
細尾 「SHANG QOO FUU(シャン クー フー)」っていうブランドです。当時、上海にちょっと行くことがあってですね、泰康路(タイカンルー)っていう、もともとは工場の跡地だった場所があったんです。いまはだいぶ観光地っぽくなっていますが、そこが昔のSOHOみたいな感じだったんですよ。アーティストたちが住んでいておもしろいエリアでした。で、「ああ、ここに住んで発信するのもいいな」と思いました。京都にいてもなかなか飛び抜けたことができない気がしていたので、だったら上海発で音楽とかファッションを発信した方がおもしろいんじゃないかと思いました。
祐真 それって何年ごろの話なんですか?
細尾 2001年とか2002年ごろのことです。
祐真 で、実際に上海に住んでいたんですか?
細尾 一時期、住んでいました。上海にフラッグシップストアも出したいなと思って。でも、僕はそれまで音楽ばかりしていて、経営がまったくわかってなかったんです(笑)。いいものを作りたい、っていうのは強烈にあったんですけど。「コム デ ギャルソンに負けないギャバを開発したいね」「そういえば大阪に昔企画をしていた人がいるらしいよ」「じゃあ行って話をしてみよう」、とか。でも、いいものはできてもすごく高いものになってしまい……。人気のセレクトショップとも取引ができたのですが、売れば売るほど赤字になる、みたいなことになっちゃいまして(苦笑)、結局解散しました。
祐真 ナイスな挑戦ではあるけどね(笑)。
細尾 結局、マネジメントができていなかったんですよね。でもこれで終わりにしたくなかった。なんとかリベンジしたいと思いました。それで、儲かっている会社に入ってノウハウを学ぼうと思いました。入ったのは国内に100店舗ほど展開している大手ジュエリーメーカー。儲かっている会社はどういうマネジメントをしているのか、それを知りたい一心でした。で、僕はここで原価率の何たるかを知るわけです(笑)。
祐真 あはは。それまで原価率を知らなかったの?
細尾 そうなんです。その会社には4年いました。商品部というところで最初は生産管理。そのあと、商品開発に携わりました。SPA形態の会社だったのでひと通り勉強させていただきました。そんなこんなの2006年、家業が海外に目を向けはじめたんですよね。
祐真 見本市に出展なさったんですよね?
細尾 はい。パリのメゾン・エ・オブジェです。その話を聞いて、西陣織を海外に発信するのはおもしろそうだな、と思いました。もともとはジュエリーだって外国の文化。でもいまでは日本人の生活に密着したものとなっている。つまり、その逆もあり得るのではないかと思いました。西陣織を、西洋の人びとが日常に普通に取り入れる日がこないとも限らない。京都からエルメスみたいな展開ができたらおもしろいよな……と考えたら、それまで古くさいと思っていた家業が俄然光り輝いてきた(笑)。一端興味を持つと、「ロゴももっと外人に受けるようにこうしたらいいのに」とか、「ホームページもカッコよくしないとわかってもらえないのではないか」とか、いろいろアイデアが湧いてきて、そのうち自分でやりたくなってきたのです。
祐真 海外に打って出ようと決めたのはお父さん?
細尾 そうです。うちの本業は着物や帯で、それを全国の着物の専門店や百貨店に卸しているのですが、父は、今後はそれだけではだめだと思っていたのですね。
祐真 メゾン・エ・オブジェに最初に出展したころは、細尾さんはもうここに戻ってたの?
細尾 いませんでした。
祐真 じゃあ、最初の出展を取り仕切ったのはお父さんだったんですね。
細尾 そうです。西陣織はこの30年でマーケットが10分の1に縮小しました。消えてなくなることはないとは言え、10倍に戻ることもないだろう、と。父はそう考えて、まずは西陣織をソファに張って出品したのですね。でもソファ自体は自社では作れませんし、物流の問題も考えていなかったので、ちょっと興味を持ったお客様が「これはどうやったら買えるの?」と聞いてくださっても、「いや、これは展示だけです」ということで1個も売れませんでした(笑)。また西陣織は、基本、幅が32cm。ソファのようなものに張ると、継ぎ目が出てしまうのです。それもネックでした。それで翌年からは西陣織のクッションを出品しました。これはまあまあ売れて、香港のレインクロフォードとかロンドンのリバティとか、いい店と取引きすることもできました。でも1軒100万円くらいのオーダーで、それ以上には広がらない。さて、どうしたものか、と考えました。
祐真 お父さん、チャレンジャーですね。広幅の織機を入れようと思ったのは?
細尾 2008年12月に、パリのルーブル装飾美術館で『日本の感性価値展/Kansei Japan Design Exhibition』というのが開催されて、そこにうちは帯を出展しました。これは、日本の伝統工芸だけではなく、アニメやリコーのカメラとか任天堂とか、ハイテク分野までカバーするというものでした。
祐真 クールジャパン的な? 経産省主導の?
細尾 はい。それがその後、2009年の5月にNYに巡回することになって、展覧会が終わった直後に「展覧会で帯を見た」とピーター・マリノ氏から連絡があったんですよね。西陣の技術にすごく興味をもってくれて、ラグジュアリーブランドのブティックの壁面に使いたいという依頼でした。僕、それまではクッション作るにしても、海外に打ち出すのなら和柄じゃないと差別化できないと思っていたのですが、マリノ氏から送られてきたデザインは鉄が溶けたような柄。非常にコンテンポラリーな柄です。これを西陣の技術で織って欲しいということでした。
さっき申し上げたように、西陣織って、基本は32cm幅なんです。 丸帯用でも最大幅70cm。「それでもいいから」とマリノ氏には言われたのですが、そのとき、「150cm幅にしたら一気に広がりが出るな」と思いました。もちろんリスクはあったけど、2010年、思い切って投資して、150cmという広幅の織機を開発しました。そのために、うちで長いこと働いてくれている金谷という職人を中心に西陣の7キロ圏内に住んでいるほかの職人さんも入れて、開発プロジェクトチームを編成しました。
祐真 7キロ圏内?
細尾 職人さんたちは、だいたいこの西陣の7キロから10キロ圏内で仕事をしているんです。
祐真 みなさん何歳くらいなんですか?
細尾 70歳アッパーですね。みなさん、すごい技術を持っておられます。その技術が若い人に引き継がれていない、というのが大きな問題なのですが。
祐真 もったいないね。で、金谷さんが中心になって、そのプロジェクトチームが始動したわけですね。何人くらいのチームだったんですか?
細尾 たしか5人だったと思います。当時はうちの職人も、金谷を含めて3人でしたので、150cm幅の織機が出来上がったときも、それを織るスタッフがいなかった。最初の頃、マリノ氏のオーダーのファブリックは金谷が自ら織っていました。いま、職人は7名。織機も年に1台ずつ増やしてきて、5台になりました。
祐真 さきほど工場を拝見しましたが、若い職人さんが多いですね。みんな専門の学校を出てこちらに来るんですか?
細尾 それぞれです。文化服装学院を出てアパレルの会社にいたんだけど、雑誌でうちの仕事を見て職人になりたいと入ったスタッフもいますし、芸大でグラフィックをやっていたスタッフもいます。彼らは伝統産業をクリエイティブ産業としてとらえています。西陣織をクリエイティブなものと捉えている。僕が家業に戻ったのとおなじ理由でここに来たのだと思います。
祐真 ご兄弟はいらっしゃるんですか?
細尾 弟と妹がいて、弟は建築をやっています。ミラノ工科大学院を出て、デイヴィッド・チッパーフィールドのところにいたのですが、去年帰ってきて、こっちで仕事したいと言っています。東京でやろうか京都でやろうか迷っていたようですが、結局京都でやることにしたみたいです。
祐真 おお、すごいですね。昨年の12月にNYでチッパーフィールドさんと会いました。ヴァレンティノのショップをやられてますよね。
細尾 ああ、そうですよね。弟はいま、知り合いの旅館を作るのを手伝っています。
祐真 へ~、いいですね。これからが楽しみ。妹さんは?
細尾 妹はちょうどひと回り下なので、まだ大学生です。医大に行っています。ちょっと変わっていて、小さいころから能の舞なんかに興味のある子でした。中学のころ、どんな人になりたいかと聞かれて「白州正子みたいな人」と答えるような子でしたね。
祐真 ほ~、渋いですね。
細尾 将来は海外で医療ビジネスをしたいみたいで、今年はインターンシップでシンガポールに行くそうです。
祐真 三人三様でおもしろいですね。しかし、これだけ歴史のある家に生まれながら、子どもたちに家を継げとも言わず、自由に育てたご両親というのも偉いですね。
Page.2: 海外との取り組みのなかで、西陣織がまたあたらしい「美」を繰り出す
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海外との取り組みのなかで、西陣織がまたあたらしい「美」を繰り出す
祐真 これがピーター・マリノさんのオーダーで作ったファブリックですね。
細尾 はい。箔という技術を使っています。シルクをベースに、和紙の上に金箔を貼って、それをスリット状にカットしたものを一本一本織り込んでいくんです。300年くらい前に開発された技術とされています。これもこの西陣に住んでいる、箔を貼る職人さんやカッターさんの技術が詰まった作品です。彼らも代々、家業としてその技術を受け継いできた方々です。カッターさんというのは、箔を貼ったものを細く切る職人さんですが、昔から、カットだけをやっているのです。いまはギロチンみたいな機械で切るようですが、昔はハンドカット。帯の世界では当たり前に使われる素材なのですが、テキスタイルの世界にはなかった素材です。外国の方は驚いたと思います。
祐真 これをカットする職人さんというのも高齢の方なんですか?
細尾 僕、実際にお会いしたことはないんです。箔屋さんに依頼すると、箔屋さんがカッターさんのところに行く、というやり方です。実際にカットしている工場は絶対に見せてくれません。その技術がそこのすべてですからね。鶴の恩返しみたいですね。
祐真 へ~。伝統工芸の世界はいまも秘密のベールに包まれているんですね。
細尾 箔屋さんは40歳くらいの方ですが、カッターさんはどうなんだろう、50、60歳くらいでしょうか?
祐真 いわゆる金糸銀糸とはちがうものなんですね?
細尾 ちがいます。あれは糸だけど、これは紙の上に金を貼ってそれをカットしているので、形状がきしめん状なんです。金糸の場合は撚りがかかったりしているので、妙にギラギラしたりするんですが、これは平面が多いので光り方がちがうんですよね。言ってみれば金屏風のように光るというか。
祐真 リフレクト感がちがうんですね。
細尾 ええ。壁紙として使う場合は、その前にいろいろな物が並ぶというのが前提となりますので、壁紙自体がギラギラしすぎるというのはよくないわけです。このきしめん状のものだと、織り上がったときにほどよい具合に光るものになるんですよね。ラグジュアリーさもあるし、ライティングでもいい感じに化けるという。
祐真 紙の強度で織り込んでいけるというのが不思議です。
細尾 シルクの中に織り込まれていますので、強度的には大丈夫なのですが、150cm幅で織るとなると、いかにきしめん状の箔をそのまま織り込んでいけるかが重要なポイントです。テンションのかけ方によっては切れてしまうこともありますし、途中でねじれたりすると傷になってしまうわけで、この広幅の織機の開発には1年かかりましたが、そのうち3ヶ月くらいは「いかに箔をまっすぐに織り込むか」、そこに時間を費やしました。
祐真 でも、たった3ヶ月でその問題が解決したってのもすごいよね。
細尾 金谷が頭を抱えながらがんばりました(笑)。金谷がいてくれたのが勝因です。
祐真 すごいね、金谷さん。
細尾 日本の場合、天皇や皇族でもジュエリーを付けるというのは、欧米ほどは文化としてなかったじゃないですか。着物のフォルムもそう変化があるわけじゃない。だから何で差を付けるかと言えば、やはり素材だったのです。西陣では、貝殻を細かく切って織り込んだりするように、宝飾的要素が生地のなかに含まれていたのです。そういう背景がありました。西陣では1200年くらい前から織物が作られていたそうですが、こういう生地って、とても僕ら一代じゃ作れないですよ。先人たちの膨大な技術の蓄積があったからこそ、いま、僕らがこうやって海外でも戦えるのだと思います。
祐真 紙みたいなやわらかいものから、鉄みたいな固いものまで織り込めるんでしょう? いろんなものが織り込めるということは、いろんな可能性があるということですね。
細尾 そうですね。織物というのは、縦糸と横糸の交差で作られているものですが、西陣って、非常に複雑なレイヤーで織り込む技術があるので、そこは大きな強みです。将来的には、それを応用してハイテク分野でも何か可能性がありそうです。特殊な素材をどう織り込んでいけるか、挑戦しがいがあります。まだまだ妄想レベルですが、ウエアラブルなコンピュータなんかも織り込める時代が来るかもしれません。
祐真 可能性はありますよね。
細尾 大きな可能性を秘めた、魅力的な業界にしていきたい。ほかの機屋さんにもいい職人さんがいっぱいいます。自分の会社だけ良ければいいというのではなく、ほかの織屋さんとも協力して、西陣全体であたらしいこと、おもしろいことをやっていきたいと思っています。西陣というのは、成り立ちからしてもどうしてもオートクチュールっぽい物作りになってしまうのですが、これからはプレタポルテっぽいものもみんなでやっていきたいなと思っています。
祐真 西陣織のプレタか~。作れるといいね。アイデアが必要だけど。
Page.3: 世界からも大きな注目を浴びている「GO ON」の活動
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世界からも大きな注目を浴びている「GO ON」の活動
祐真 そういえば、ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館(以下、V & A)の日本コーナー、あれもうちょっと何とかならないかと思うんですよね。隣が韓国のコーナーですが、韓国は国も経済界も自国の文化の見せ所だと思って気合いを入れて展示している気がします。いっぽう、日本のコーナーはというと、ちょっと寂しい。着物や工芸品など、日本には世界に見せたい素晴らしいものがいっぱいあるのに、それがちゃんと見せられていない気がするんですよね。細尾さんみたいな京都の若手が、いまこそ立ち上がるべきでは?
細尾 そうですよね。去年、開化堂の茶筒がパーマネントコレクションに選ばれたんです。その流れでV & Aの方が京都にいらしたりしていました。
祐真 おお、それは朗報ですね。でも着物だって日本にはもっといいものがたくさんあるのにね。V & Aみたいなところは、世界中の人が見に来るでしょ? だからあそこが日本文化のショールーム的役割を果たす、というのはもちろんなんだけど、同時に日本の若者だってロンドンに行ったら見に行くわけだよね。ということは、日本人がロンドンで日本文化に開眼するってことだってあるじゃない? そういう大事な場所には、帯だって着物だって、最高のものを展示してもらいたいと思います。
細尾 本当ですよね。いくらでも提供できるのでなんとかしたいですね。
祐真 去年の12月に仕事でNYに行ったときに、メトロポリタン美術館で『きもの – モダン・ヒストリー展』というのをやっているというので見に行ったんですが、途中で迷っちゃて行き着けなかった(笑)。
細尾 (笑)広いですもんね〜。
祐真 散々迷ったあげく、日本の甲冑コーナーみたいなところに行っちゃって、「まあこれでもいいか」と思って甲冑を見てきました(笑)。
細尾 外国人は甲冑、好きですよね。
祐真 日本の甲冑、大好きですよ。話が逸れたけど、最初、自分たちでマーケットを作っていこうということで上海からスタートして、それ自体はうまくいかなかったかもしれないけれど、そんなこんなのいろんな体験が、いまこうして花開いているわけですね。
細尾 ええ。ちゃんと振り返ったことはありませんでしたが、ぐるっとひとまわりしてここに行き着いた、ということなのでしょうね。一度家から出ないと見えないものがあったのだと思います。外に出て初めて、西陣織という伝統工芸がクリエイティブなものだと実感できました。そう言えば、家に戻る前、1年ほどフィレンツェにもいました。
祐真 へ~、それはなぜ?
細尾 一度家業に戻ったら、もう海外に住むこともないだろうな、と思ったので、1年くらい外国に住んでみたいと思いました。それで、どうせなら職人の街であるフィレンツェに住んで、いろんな職人の仕事を見てまわりたいな、と思いました。
祐真 なるほどね。
細尾 それに僕、4歳までミラノにいたんですよ。
祐真 えっ? そうなの?
細尾 はい。実は父も家業を継ぐつもりはなくて、世界を相手に仕事がしたいということで商社マンをしていたんです。それでミラノに駐在していたので、僕もあちらの幼稚園に通っていました。父はフェラガモが日本ではまだ鴨料理屋さんだと思われていた時代に、イタリアのアパレルのインポートをしていました。
祐真 鴨料理屋ね~(笑)。
細尾 まだ誰もエスプレッソなんて飲んでない時代の話です。40年近く前の話ですね。僕が家業に戻ろうと思ったころは、イタリアの革製品を日本に輸入するというビジネスも家業の一角にありました。商社時代に父がやっていた仕事の繋がりで。それならイタリア語も話せたほうがいいと思ったのもフィレンツェに住んだ理由です。幼稚園のころのイタリア語はすっかり忘れていましたからね。午前中は語学学校、午後はトスカーナの工房とワイナリーまわり、みたいな生活をしていました(笑)。あの1年も僕にとっては非常に勉強になったと思っています。
祐真 いるものね~、イタリアにはいい職人が。
細尾 いますね。いい職人もいるし、いいシェフもたくさんいます。
祐真 いるよね、すごいのがいっぱい。お父さんもイタリアの伝統工芸の職人の技に触れるうちに家業に目覚めたんでしょうか?
細尾 どうなんでしょうね~。ただ、イタリアの伝統工芸を日本に紹介したいという気持ちはあったみたいです。イタリアと日本の職人がコラボレーションできないか、とか、そういうのはいろいろやっていたみたいです。
祐真 日本の伝統工芸を海外の人たちに見せるにあたって、何か思うことはありますか?
細尾 ん~、たとえば日本のものを海外に持っていったときに、最初から「これは創業何百年のなんたらで」というところから入っても、そのもの自体に心を動かされるものがなかったら外国の人には何の意味もないですよね。やっぱり見たり触ったりして、それが心に刺さって、横にあるパンフレット読んでみたら何百年も前からある日本の伝統工芸だった、という順番じゃないとだめだと思います。「おっ!」と思ったときに、その商品に脈々としたストーリーがあったとなれば、商品の魅力は格段にアップするはず。それを気に入った客にとっては「自分の目は確かだった」という証明にもなりますし。
祐真 ホームとアウェイってよく言いますけど、たとえば洋服なんて日本人にとっては完璧にアウェイなわけですよ。でも細尾さんはこういう日本伝統のもので勝負できるわけだから、うらやましいと思いますね。
細尾 そうですね。僕の希望としては、京都でクラフトビエンナーレみたいことができるといいな、と思っています。
祐真 へ~、それいいね。おもしろいと思います。ところで「GO ON(※)」、やられてますよね。あれはどういう流れではじまったんですか?
細尾 GO ONは2012年にスタートしたのですが、変な話、京都の伝統工芸の世界というのは横の繋がりがあまりなくて、西陣は西陣、友禅は友禅という感じなんですよ。昔はその業界のなかで経済的に成り立っていたので、べつに繋がる必要もなかったのだと思います。でもこの30年で着物のマーケットは10分の1に縮小しました。ほかの業界もおなじで、みんながお茶を飲まなくなれば茶道具の需要も減るわけです。それに危機感をもった若手が、メゾン・エ・オブジェやミラノサローネに自社の製品を出品するようになりました。それが縁でGO ONのメンバーと知り合ったわけです。
みんな京都出身なので「幼なじみですか?」とかよく聞かれるのですが、そうではないのです。サローネに行ってみたら横で出展している日本人がいて、話してみたら同世代で京都出身だった、みたいな感じでした(笑)。みんな手探りで海外の見本市に出したりしていたのです。おなじ思いを共有していた。それで仲良くなっていろいろ話していくうちに、日本の伝統工芸は斜陽産業と思われているけど、やり方を変えれば成長産業にできるのではないか……みたいな話になって、そこからですね。1社だけでやっても影響力はたかがしれているので、何社か集まってやってみよう、伝統工芸を活性化していきたいね、ということでスタートしたのです。
祐真 なるほど。
細尾 子どもの憧れといえば昔は野球選手、いまならサッカーだと思いますが、中田英寿さんみたいなスターが出て、海外でも脚光を浴びて、見た目も格好いいよね、となると、子どもたちは自分もああなりたいと思うじゃないですか。伝統工芸もそういう職業にできるのではないか。職人だからといって、何も作務衣着て仕事しなくてもよいのではないか。本来、この世界はもっと自由でクリエイティブなものなのだってことを発信したい。もっとみんなにこの世界の魅力をわかってもらいたい、と思うようになりました。
祐真 そうだよね。
細尾 そうそう、2016年の高校の社会科の教科書にGO ONが出ることになりました。
祐真 おっ! それはどういう出方をするわけ?
細尾 いままでの教科書にも日本の伝統工芸というコーナーはあったのですが、「マーケットが縮小して、職人も少なくなって、疲弊している。危ない状況だ」というところで終わっていたのです(笑)。そこにあらたな取り組みとしてGO ONが紹介されました。「ちょっと光が見えてきた」、という文脈に変わってきたのです。素直にうれしかったです。
祐真 すごいね。
細尾 ミハラヤスヒロさんのランウェイでうちのテキスタイルが使われた写真も掲載される予定です。最近で一番うれしかったのがこの教科書の件ですね。
祐真 それはすごいよね。その教科書を使ってる高校生はみんな見る、ってことだもんね。職人になりたい、という子がいっぱい来るんじゃないの? 国としても、この分野が活気づくというのは非常にいいことだしね。
細尾 教科書の隅っこに小さく載るだけなのですが、でもうれしいです。
祐真 いやいや、スペースの問題じゃないよ。いっぱい面接に来るんじゃない? 全国から若い人たちが。ヤンキーとかも来るよ、「やりたいんですけど」って言って(笑)。ヤンキーは一度目覚めたらとことんやるしね。
細尾 「金網つじ」の辻くんも、もともとはヒップホップのB-BOYだったんですよ(笑)。いっぱいパワーをもっているけれど、それをどこにもっていっていいかわからない若者ってたくさんいると思うんです。そういう若者たちの受け皿になるのもいいんじゃないかと思っています。辻くんとも、「工房に行ったらそういう若者がいっぱいいる、みたいなのもいいよね」って言っています。
祐真 GO ONは、細尾さんと、開化堂の八木隆裕さんと、金網つじの辻徹さんと、あと誰がメンバーなの?
細尾 あとは「公長齋小菅」の小菅達之さん、「中川木工芸 比良工房」の中川周士さん、そして「朝日焼」の松林佑典さんです。
祐真 こちら(細尾さんのショールーム)にもシャンパンクーラー桶が展示されてますが、これ、きれいですね。
細尾 桶の技術ってすごいんです。このシャンパンクーラーは、20枚くらいの木片を箍の力で留めてあるんです。接着剤を使わずに。いま、これはオーダーしてから1年待たないと入手できないそうです。おなじ技術でスツールも作っていますね。
祐真 へ~。朝日焼っていうのは京都市内に窯があるんですか?
細尾 宇治です。いま、16代目ですね。ひいお爺ちゃんの弟さんは単身イギリスに渡り、バーナード・リーチの窯を作った方です。昔から革新的なことをやっていたのです。
祐真 そういえば、ついこの前、益子の濱田庄司記念館でファッションの撮影をさせていただいたんですよ。
細尾 ほんとですか? 僕、行ったことないんですけど、すごくよさそうですよね。
祐真 三代目。お孫さんがいまはやられてます。おもしろかったですよ。
細尾 朝日焼の松林さんも、今年はそのひいお爺ちゃんの弟が作ったバーナード・リーチの窯に1~2ヶ月滞在して作陶するそうです。V & Aに初代が作った作品が残っているので、それをお借りして、バーナード・リーチの窯であらたに作った自分の作品とともに英国大使館で展示するというプランが進んでいるそうです。
僕らみたいに伝統工芸を継ぐ者と、いわゆるアーティストの差ってなんだろう、と考えるんですが、アーティストは一代で出てきて一代で終わる。その刹那的な美しさというのは素晴らしいです。でも僕らは、先代から預かった技術を守り、さらによいものにして次に引き渡すという「継続」が重要な役目。そこが大きくちがうよね、という話を、最近よく仲間としています。それはそれで意味のあることなのではないかな、と。
祐真 そうですよ。……まあ、その意味ではファッションなんていうのは刹那的やね(笑)。
Page.4: 伝統工芸にあらたな息を吹き込み、次世代に引き継ぐのが僕たちの役割
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伝統工芸にあらたな息を吹き込み、次世代に引き継ぐのが僕たちの役割
細尾 最近は、現代アートもどんどんクラフトとコラボレーションするようになってきました。たとえば、開化堂さんと中川木工芸さんは杉本博司さんとコラボして彫刻作品を作って、ロンドンのペースギャラリーとかNYのギャラリーでエキシビションしたりしています。うちも、テレシタ・フェルナンデスというNYアーティストとコラボレーションしてアート作品を作っています。彼女は「MASS MoCA (Massachusetts Museum of Contemporary Art)」でも1年間展示されている気鋭のアーティスト。直島ではパーマネントコレクションに選ばれているトップクリエーターです。
祐真 京都造形芸術大学のエントランスに展示されている作品を見ました。
細尾 彼女との取り組みには、僕たちも大いに触発されるものがあります。彼女とは、なぜいま、アートがクラフトに接近してきているのかという話もしました。もともとアーティストって、自分の手を動かして作品を作ってきたわけだけど、デュシャンが出てきたころからアーティストがコンセプトを考える人、みたいな位置づけになってきた、と。でもまた自分の手を動かす時代になってきたのかな、などという話をしました。日本の場合、職人とアーティストの境目というのは、もともとなかったのですけどね。
祐真 そうですよね。
細尾 日本語に「美術」とか「工芸」という言葉が出来たのもここ150年くらいの話らしいです。そもそもはパリ万博のときに、「アート&クラフト」というカテゴリーがあって、それに日本も出展するにあたり「美術と工芸」という言葉が作られた、と聞きました。「アート&クラフト」に相当する言葉が、当時の日本にはなかったのですね。それで急遽、「美術と工芸」という言葉を作ったわけです。それがあるので、みんな「美術」とか「工芸」という枠にとらわれているわけだけど、たとえば尾形光琳の時代だと、その境目はなかった。
祐真 でしょうね。利久と長治郎を考えても、長治郎が職人だったのかアーティストだったのか、わからないですよね。
細尾 多分、両方だったのでしょうね。「伝統工芸」という言葉も、50年くらい前に「伝統工芸保護法」というのができて、そのときに作られた言葉だそうです。それ以降、僕らの技術というのは「保護されるべき対象」となりました。本当は、ごく普通に日常に溶け込んでいた技術だったはずなのに。なんか人間って、言葉にとらわれてしまうところがありますね。言葉に縛られるというか。
祐真 日用品だったものが、突然 “守るべきもの” になるってことですね。
細尾 ええ。伝統工芸が守られるべきものになっていくわけです。
祐真 大事に守りすぎて、結果、日常から遠ざかってしまう、みたいなところもありますよね。
細尾 そうです。だからむしろ、守ろうと思わなくていいのかな、とも思います。どんどんあたらしいことにチャレンジして変わりつづけていったほうが、結果、その技術が残るということになるのではないかと思ったりしますね。かたちを変えて、でもそれが50年後、100年後の人びとに「伝統」として愛されるという考え方もあると思います。
祐真 どんなに素晴らしい技術も、時代に合うように少しずつモディファイしていかないと、だんだん忘れ去られて行きますよね。たとえばいま、伝統的な桶を出されて「伝統を守ろう。これを日常に取り入れよう」と言われても、現代の日常には取り入れようがない。でも桶は桶でもシャンパンクーラーになっていれば、「お、いいね」となる。家に人を呼んだときに、シャンパンがその桶で冷えてたら、招かれた友だちも絶対に注目します。
細尾 そうですよね。昔は京都に250軒あった桶屋も、いまや3軒です。
祐真 ああ、そうなんですか。でもこの手触りとか軽さとか、実にいいですよね。まずは日本人にこのよさを見直してもらいたいね。日本の風土にも合っているわけだし。
細尾 そうなんですよ。もしどこか傷がついたりしても、箍(たが)を外してその箇所を修理してまた箍をはめれば元通りになりますからね。修理して長く使いつづけられるものなんです。いまだにお寺さんから、300年前の馬の水飲み用の桶が、修理に持ち込まれるそうです。
祐真 へ~。そしてシャンパンクーラーの箍にはステンレスが使われてるんですね。
細尾 昔は銅でしたけどね。
祐真 箍がステンレスというだけで、ものすごくモダンに見える。ほんのちょっとのちがいで、いまの生活にすんなり溶け込むものですね。
細尾 やっぱり日常で使ってもらえるものを提案していかないと、なかなか技術は守れないと思います。
祐真 美術館で見るもの、みたいになっていくと、やっぱりどんどん忘れ去られていくよね。普通に毎日使われて、使う人の生活の一部になる、そういうかたちで残っていくのが理想的なんじゃないかな。
細尾 そうだと思います。そして伝統のものというのは使い捨てではないんです。長く使えます。たとえば開化堂さんの茶筒はいまだに100年前のものが修理に持ち込まれるそうです。そのために、作る行程も昔と変えていないそうです。
祐真 でしょうね。
細尾 銅と真鍮とブリキ、3種類の素材がありますが、毎日使っていると、手の脂でどんどんエイジングしていくんです。時間とともに育っていくというか。その変化を見るのも楽しいと思います。
祐真 何年か前にテレビで見たんだけど、だいぶ長いあいだ使ってエイジングした茶筒の表面をサンディングして、新品みたいにピカピカにしてましたよ。
細尾 へえ、なんかもったいない気がしますね。長年かけてエイジングしたのに。
祐真 (笑)そうだよね。もう、表面が真っ黒に近い色になってたものをバ~っと磨いたら、ピカピカになってました。
細尾 逆にいまは、最初からエイジングしたものを買いたいって人も増えていますよね。
祐真 僕んちもいろんなサイズの開化堂さんの茶筒を使ってますが、いいな、と思います。
細尾 機密性は高いし、本当にいいですよね。いま、100円の茶筒だってある時代に、この開化堂さんの茶筒は何万円もする。それを高いと思うかどうかだと思います。100年使えると思えば安いとも言える。着物も本来はそういうものだったと思います。
祐真 物の適正な価格ってありますよね。安けりゃいいってもんじゃない。安いもののなかにもいいものはあると思うけど、「この値段ならとりあえず買っとこうか」みたいな感じで買ったものって、どうしても大事にできなかったりする(苦笑)。
細尾 たしかに。
祐真 京都は僕の生まれ故郷。その京都で長年培われた技術が、今後も日本人の生活のなかで育まれ、時代にフィットしたアイテムとして長く残っていくといいな、と思ってます。それは必ず海外にもアピールするはず。細尾さんのような若手があらたなアクションを起こしたというのはまさに希望の光です。今後の活動を楽しみに見守りたいと思います。
細尾真孝|HOSOO Masataka
1978年、西陣織老舗 細尾家に生まれる。細尾家は元禄年間に織物業を創業。人間国宝作家作品や伝統的な技を駆使した和装品に取り組む。大学卒業後、音楽活動を経て、大手ジュエリーメーカーに入社。退社後フィレンツェに留学し、2008年に細尾に入社。09年より新規事業を担当。帯の技術、素材をベースにしたファブリックを海外に向けて展開し、建築家のピーター・マリノ氏が手がけたディオール、シャネルの店舗に使用される。最近では「伝統工芸」を担う同世代の若手後継者によるプロジェクト「GO ON」のメンバーとして国内外で幅広く活動中。日経ビジネス誌2014年「日本の主役 100人」に選出される。