特集|OPENERS的ニッポンの女性建築家 Vol.5 永山祐子インタビュー
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2015年3月6日

特集|OPENERS的ニッポンの女性建築家 Vol.5 永山祐子インタビュー

Vol.5 永山祐子インタビュー (1)

とどかない場所~あたらしい時代のスタンダードのあり方

現代はなにもないところからなにかをつくり出すような経済成長時代とは異なり、いまそこにあるスタンダードから、なにか別のスタンダードを生み出す、時代のあり方としてはそんなフェーズに突入しているといえるのではないだろうか。いまあるものに価値を見いだし、これまでにない視点からものを見たり、そこにある現象を考えることで、あたらしい時代の価値は生まれる。永山祐子氏は建築を通してものごとに偏在する普遍的なものから誰もみたことのない価値を抽出し、次世代のスタンダードを創造する。

インタビュアー、まとめ=加藤孝司

小さなスケールと、大きなスケール

──建築に興味をもったきっかけを教えてください。

じつはうちの祖父が建築を志していました。私には祖父の記憶はありませんが、谷口吉生さんのお父さまの谷口吉郎さんの研究室にいて、在籍当時、島崎藤村美術館などの設計を手伝っていたそうです。祖父は若くして亡くなったので直接的なやりとりはなかったのですが、家にはブルーノ・タウトの『アルプス建築』の日本語の初版本や柳宗悦の本がありました。

私自身は高校までは理系のクラスにいて、大学はバイオを専攻しようと考えていました。そんなとき、友人のひとりが建築学科に行くというのを聞きました。それまで私自身、進路に建築という選択肢はなかったのですが、建築に進むという方向もあるんだとそのとき思いました。そこで祖父のことや、いろいろなことが一気に結びついて、私が進む方向はバイオじゃなくて建築だと、瞬間的に思いました。

──そもそもバイオにはどのような経緯で興味をもったのでしょうか。

父が生物物理の研究者でしたので、私にとってはそれも身近なものでした。そのころ、バイオテクノロジーというものが注目を集めている時期で、私自身も、自然のなかの小さな世界を研究することに興味をもちました。

建築家|永山祐子 03

afloat-f(2002年)

──建築も、バイオという微細な世界を扱う分野とおなじように、身近な生活に近づいてみたり、ときに大きな視点からひいてみたり、その振幅に共通点がありそうですね。

そうですね。扱うスケールが、小さなものから、少し大きなものに移った、という感じですね。昔からイームズの『パワーズ・オブ・テン』(1968年)という本が大好きで、最初はそのなかに描かれていたミクロの世界を扱うバイオの仕事をしたいと思っていました。建築をはじめてからは、実際の人間のスケールに近いもの、そして、都市スケールへと、バイオの世界よりはもう少し大きなスケールの世界に興味が移ったという感じです。

──家から都市まで、さまざまなスケールを扱う建築家にとって、この世の中の存在すべてのスケールが描かれている『パワーズ・オブ・テン』のような映像はとても示唆的なものだと思うのですが、パワーズ・オブ・テンはどのような経緯で知ったのですか?

小学生のときでした。それはとても衝撃的な出会いでした。そこで描かれていた、相似系、フラクタクルな世界への興味は、そのころからもっています。──これを話すと精神世界の話のようになってしまうので、あまり話したことはないのですが、小さいころから、自分がどうしてここにいるのか、自分がこの世に存在していることを誰が証明してくれるのか、私はなぜここにいて、どうしてそれを認識できるのだろうか、本気で悩んで眠れなくなっていた時期がありました。自分の存在を疑う時期って誰しも一度はあると思のですが、そのときは、この世界と、自分を繋ぎとめるものがないと考えていました。

──この世界のなかにあるように見えるリアルなものと、自分は本当に繋がっているのかという不安ですね。

もちろん、日々のさまざまなひとやモノとの関係など、私を取り巻く環境が、一応私を現実の存在として認識させてくれているように感じるけれど、もしかしたらそれは完全な虚構かもしれない。そんな妄想をするような子どもでした。それで、『パワーズ・オブ・テン』を見て思ったのが、“私のなかにはもうひとりの私がいる”ということです。

あの映像ははじまりと終わりがおなじ画で、宇宙の星屑と素粒子の世界である一番下の層がまったく一緒、つまり円環状にどちらのスケールに進んでも存在の根本のところに帰ってくるような映像でした。私のなかに、私のような誰かが住んでいて、そのひとのなかにまたほかの誰かが住んでいてと、わたしの存在は、そうやって巡り巡っていく循環の一部だと思ったら、私のなかで妙に腑に落ちるものがありました。それから、そのような問題について悩まなくなりました。

──『トゥルーマン・ショウ』という映画がありますが、さきほど永山さんがおっしゃっていた、存在の層のレベルのなかの、もっと上の層のひとに見張られているような、そんな想像を僕もしたことがあります。それはまた、たくさんの人びとのなかで、自分自身を客観視してみている、ということでもあるのですが。

この世界に存在していること自体がフラクタルな構造のなかの一部だという認識は、『パワーズ・オブ・テン』を見たことによる影響が大きいです。自分のなかにほかの誰かが住んでいるのなら、自分はその誰かに対して責任をもたなければならない。そのひとつでも欠けたらいけないんだと思うようになりました。そういった意味では、私が存在する意味ということを、そのことが示していてくれていると思ったらとても落ち着きました。

──普段は友だちと元気に遊んでいるけど、どこかで冷めている自分がいる、というような感じですか?

どこかで俯瞰しているところがありました。でも当時はこういった話というのは、友だちにはできませんでしたから、父親が聞いてくれたり、それについての本を教えてくれたりしていました。

Vol.5 永山祐子インタビュー (2)

とどかない場所~あたらしい時代のスタンダードのあり方

世の中を建築的視点で捉えるということ

──そのような永山さんの思考の来歴は、建築の道に進むようになってから、どのように繋がっていったのでしょうか。

そうですね、さっき言ったように、生物に興味をもっていた自分は、『パワーズ・オブ・テン』のなかでいえば、ミクロな視点を志向していたんだなと考えたり、そのスケール感が建築を志すようになってから、もっとヒューマンスケールに近いものに変わったことを意識しました。それは日常のうつろいみたいなものにヒントを得るということであります。小さいころから物語をつくるのが好きで、絵本とか物語をつくるひとになりたいという夢をもっていました。そういう物語みたいなものを自分の日常とか、自分の認識できるスケールのなかでつくれればいいなと思っていました。

──それで大学に入って本格的に建築を学びはじめたのですか。

急に進路を変えたので、受けることのできる学校があまりありませんでした。ですが、住居であれば受けられるということで、生活美学科に進みました。

──建築を学ぶようになって、どのような建築に興味をもちましたか?

最初にいいなと思ったのは、オーストリアの芸術家で建築家でもあるフーデンスライヒ・フンデルトヴァッサーの作品でした。バイオに進もうと思っていた影響で、当時、自然にすごく興味をもっていました。

フンデルトヴァッサーの建築は人工物でありながら自然に近いという印象をもっていました。それと彼の作品は正確には建築とはいえないのですが、なにかすごく自由に生活をクリエイトしようとしているところがいいなと思いました。建築を勉強していくうちにモダニズム建築や、さまざま様式をもった建築を知るようになりました。私が学生のときは、あたらしい建築の潮流がオランダから来ていて、その中心にいたのが、レム・クールハースでした。彼は巨大な都市から小さなスケールまで取り扱っていて、彼に対する同時代的な影響はもろにうけていると思います。

──クールハースにかんしては、1990年代後半当時、建築にかかわっているひとであればほとんどの方がそうおっしゃりますね。

そうですね、あの当時多分、クールハースはもっとも影響力のある建築家だったと思います。

──大学を卒業されて建築家の青木淳さんの事務所に入るわけですが、そこでの経験をとおして建築についての考え方が変化したことはありましたか。

青木事務所では建築的に考える思考方法や、身のまわりのことを建築的視点で捉えることなど、基本的な建築のプロセスを学びました。

建築家|永山祐子 07

CAST(2003年)

──青木事務所で学んだことが、永山さんの現在の考え方の基礎になっているという感じですか?

多分、どこかで建築を考えるうえでの基盤になっていると思います。これまで学問として建築を学ぶなかで考えてきた建築的な思考が、青木事務所で経験を積むことでしっかりと繋がったように思います。それは、さまざまな興味の対象の蓄積を、建築というかたちに落とし込む方法であったり,考え方のプロセスをきちんとかたちにすることであったりします。それは青木事務所時代に教えてもらったことです。

──当時、同世代間の交流はありましたか。

私たちの世代は、まわりを見回してもすごく優秀なひとが揃っている世代だと思います。建築を志すうえでは、いい世代のなかに自分がいたと思っています。

──そういった意味では建築は、ほかのデザインの世界、たとえばプロダクトデザインやグラフィックなどよりも、同世代との横の繋がりや、世代を越えた交流が学生のころからしっかりとあるなあ、と感心しています。その繋がりも、たんに趣味や嗜好が似ているということではなく、建築という、職能がもつものに意識的になりながら繋がっているところがいいなあと僕は思います。それは多分、建築がその根本のところで、社会と密接に繋がっているからだと想像するのですがいかがですか。

建築の世界には学生が設計事務所で経験をつむオープンデスクという慣習があります。そこで学外のひとと知り合う機会があって、ネットワークが自然と広がっていきます。それと、つくる対象にもよると思うのですが、建築はほかのデザインのジャンルと比べても扱う規模が大きいので、ひとつのものをつくりあげるためにかかわる人数が多いということがあると思います。模型ひとつつくるにしても大がかりなものですので、ひとの手が必要になります。そこで出会うことでさらに学生のネットワークが広がります。

それはいいことばかりではないのですが、いまの時代は私が学生のころと比べても、情報化が進んでいます。逆に情報が行きわたりすぎて、いまの学生たちがつくるものが均質化しているともいえると思います。大学で教えていることや講評会に呼ばれることもあって思うのは、いま誰だれのスタイルが人気があるとなると、安易にその作風を真似る学生が多いことです。時代に敏感になっているだけに、必要以上にある方向に流されすぎてしまうひともいると思います。

Vol.5 永山祐子インタビュー (3)

とどかない場所~あたらしい時代のスタンダードのあり方

 

建築とインテリアのちがい

──その後、独立されてご自身の事務所を設立されたわけですが、最初のお仕事について教えてください。

いまも表参道にあるお店ですが、『afloat-f』という美容室のインテリアのお仕事でした。そこでは照明もふくめ、空間全体を手がけています。建築とはちがって、すでにある3次元の箱という制限からいかに自由に空間をつくるかということを試しました。余条件としてある空間を引き伸ばしたり、奥行き感を変化させたりすることを、家具などの配置によるボリューム感の操作、光、また鏡による反射などによってつくりました。

──建築全体のプランニングにかかわることと、インテリアのように個別のプログラムとどうかかわっていくかということとのちがいは?

どちらにしても、建築的思考でものをつくっていくなかで、インテリアも和風だ、洋風だというような「テイスト」ではなく、光とか、空間のボリュームの操作とか、そこにある物質の疎密であるとか、プリミティブで本質的な要素であるところから私は考えはじめます。建築を一から建てるときであれば敷地という条件があると思うのですが、インテリアは3次元的な余条件がすでにあります。そこには最初の条件のちがいがあるだけで、考える思考のプロセスは自分のなかではあまり変わりがないんですね。

あとちがうことといえば、耐候性と耐久性などのハードルが外部にさらされる建築の場合はとても高いのですが、インテリアであれば少し実験的なことを試せることがあります。

──さきほど、空間を引き伸す、奥行き感を出すとおっしゃっていました。その対象は建築であれば敷地で、インテリアであれば空間だと思うのですが、それに対する永山さんの独自のアプローチがあれば教えてください。

それに対しては、たとえば「届かない場所」という話をよくしています。実際の物質的な制限を越えるような身体的体験としての空間よりも、意識のほうに作用する空間というもののほうが、もしかしたらその物理的制限を越えられると私は思っています。

建築のなかに、あえて入ることのできない、手の届かない場所をつくることによって、精神的な広がりを感じるということがあると私は考えています。そうすることで見えないことへの興味や、はかれないことへの興味が生まれると思っています。たとえば、『afloat-f』のあとにつくった『CAST』ですと、わざと奥行きをなくすような空間をつくって、一瞬みただけでは把握できない感じをつくったりしました。

──空間は繋がっているのに、それぞれは別の空間のように感じられますね。

物理的な制限をいかに越えて、精神的に自由にしていくかを空間をつくるときに考えています。

──先日京都にいったときに、永山さんが手がけられた『LOUIS VUITTON 京都大丸店』のファサードを拝見したのですが、偏光板という物理的に実際にそこにあるものと、格子という見えがかりとのあいだに奇妙なズレを感じて不思議な印象をもちました。建築はつねに街のなかの風景のひとつとして、立ちあらわれる宿命をもっています。『LOUIS VUITTON 京都大丸店』は、京都という強い場所性を背景に設計されていると思いますが、その場所性はどのように意識されますか。

じつは、最初にコンペをしたときは、場所は京都ではなく、大阪でした。結局京都で実現することになったのですが、先方からは大阪で考えたことをそのまま京都でやってほしいというお話をいただきました。ですが京都、しかもアーケードがある商業地域という敷地条件を考えると、そのままではどうしても合いません。そこで、どうしても考え直させてほしいとお願いしました。

──そんな経緯があったんですね。

あたらしく考えた案では、京都の町並みに使われている縦格子を意匠として採用しています。いまでは京都イコール縦格子というのはある種の記号のようになっているのですが、どうして京都に縦格子が採用されているかといえば、町家が並ぶ道を歩くとき、人間はリニアな動きをします。その動きに対して目隠しとして有効に働くのが縦格子です。京都にとって縦格子はとても単純で合理的なファサードシステムなのです。それがいまでは京都的な風情になっている。京都の町中にある「LOUIS VUITTON」のファサードは、と考えたときに、横動線が多く、アーケード沿いという立地を考えるのなら縦格子、というモチーフに行き着くのは自然な流れでした。

──なるほど。

その縦格子をいろいろなパターンに変えているのですが、町家は、職業によって格子の間隔や細さが変わるんですね。そんな理由もあってよくみると町にはさまざまな格子がならんでいます。『LOUIS VUITTON 京都大丸店』は25mという横幅があるのですが、それをおなじリズムとスケールで格子をつくってしまうと間延びしたものになってしまいます。京都の町家がもっている町並みのリズムをつくりだすために、格子自体の幅を変えたり、格子の間隔の幅を変えたりしています。

『LOUIS VUITTON 京都大丸店』はそういうことを考えながら、町がもっているコンテクストや素材、ひとの動きというものを考えていました。ただそれは、京都に固有のストーリーであり、この現象に対する合理的なアプローチなのですが、ブランドショップのファサードとしてはそこにブランドがもつストーリーが入ってこないと最終的な強いメッセージにはなり得ません。そこでいろいろ調べていたら「LOUIS VUITTON」の歴史的なモチーフに縦ストライプの模様があることを発見しました。そこで古都・京都で歴史的な「LOUIS VUITTON」の柄である縦ストライプを蘇らせる、という美しいストーリーができあがりました。

──そこで、京都という町がもつ歴史と、「LOUIS VUITTON」がもつ伝統がぴったりと合致したんですね。それにくわえて建築を考えるときには社会性というものがとても重要になってきますね。

建築家|永山祐子 12

LOUIS VUITTON 京都大丸店(2004年)

そうですね。「LOUIS VUITTON」のファサードであればそのブランドのもつメッセージを表現しないと仕事になりません。でも、それだけではなくブランドメッセージ以上に、社会に対してもなにか強いメッセージとなることができるんじゃないかと考えています。そこに、すぐには理解できないようなことが起こっていると、立ち止まり、その現象がなになのかを考えます。京都四条の町を歩いているひとの日常にちょっとしたきっかけを投げかけることで、そのひとのなかにある感覚を呼び覚ましたいと思いました。その感覚を得ることで、少し大げさですが、いまこの瞬間にここにいるというリアリティを感じてもらえればと思っています。

ファサードデザインの可能性はそういうところにあるような気がしています。私自身、最初は偏光板の生み出す現象のおもしろさに興味がいってたのですが、つくっていくうちに、この場所にどういうメッセージを残すことができるのだろうか、ということを考えるようになりました。そのときに気をつけたのが、偏光板の仕掛けみたいなもの、物理的トリックを見せるだけになってしまっては、それは表現にはなっていないということです。ある「仕掛け」は、そのアクションが誰かに届いて、そのひとのなかになにかあたらしい感情がわき起こったときにはじめて表現になり得ます。なので、このファサードにおいても仕組みが理解できなくても、見るひとによっていろいろな想像をすることができる、それでいいと思っているんですね。よくよくみると、あんなに薄いものが6メートルも微動だにせずに立っているということ自体、自然世界ではあり得ません。なにかおかしいぞと疑うはずなのですが、ひとの感覚って疑わしくて、あり得ないはずのバーチャルなものに対してもあると思い込んでしまう。それがおもしろいと思いました。突き詰めてみると、ものの存在ってじつは疑わしいことなんだな、と思いました。

──そこにある現象の存在は、見る側の感覚に委ねられると?

ものがあるってことはどういったことだろうって思ったときに、見られることに還元されるというか。見るひとがいるから存在し得る。網膜に映ったものを、ひとは存在として受け入れてしまう。

この仕事が終わったあとに京都の円通寺に行きました。借景の庭を見たときに、私はまさにこういうことをしたかったんだなと思いました。それはものとして「どうあるか」ではなく、「誰かにとってどうあるか」。物理的に存在しているかしていなか、ということはそれほど重要ではなくて、対峙しているひとに対してなにが伝えられるかということが重要だと思うんです。

円通寺のお座敷はお庭の木の間隔に合わせ、柱の間隔をグリッドから外して配置されています。見ているひとに対してどのような風景、絵をみせられるかということを考えて建築もつくられています。たんに物質の構成によってつくられた固定化された空間ではなく、見るひとが受け止めた瞬間にどうあるか。円通寺はものすごくインタラクティブな表現だと思います。

『LOUIS VUITTON 京都大丸店』では、この格子が見る状況によってちがったリズムを生みます。バスで移動するのか、歩いて移動するのか、動く速度によっても変わります。そういう現象自体をつくりだせたかな、とは思っています。

Vol.5 永山祐子インタビュー (4)

とどかない場所~あたらしい時代のスタンダードのあり方

とどかない場所~あたらしい時代のスタンダードのあり方

──歴史とか文脈みたいなものを、あらたにつくりだすことができるのが建築やデザインの魅力かな、とも僕は思っています。

そうですね。いろいろな出来事や、事柄とか、その場所がもつまだかたちになっていないこともふくめ、そこに起こっていることをよく観察します。自分の内面からなにかを絞り出すというよりは、いろいろな事柄や物事を自分のなかに一度取り入れて変換して出す、そんな高性能変換器になりたいなと思っています(笑)。そう考えるとアイデアとかヒントって身のまわりにたくさんあると思います。

建築家|永山祐子 14

URBANPREM 南青山(2008年)

──そこにある現象に憑依する、ということですか?

憑依というか、私の世代は、ものにしても情報にしても、もうそこにすでにある程度揃っている、ということが前提になります。誰も見たことのないこと、あたらしいものを自分のなかから絞り出すようにクリエイトするというよりは、すでにいろいろなものが乱雑にある状況を見るあたらしい視点を示せる、ということがいいなと。それも俯瞰したり近寄ったり自由なスケールの視点をもつ建築の役割かなと思っています。

──永山さんが手がけられた南青山の商業ビル『URBANPREM 南青山』があります。決して高いビルディングではないのですが、近くから見上げたときと、少し離れたところから見たときに、ちょっとちがった見え方をします。ひとつの建物があることで、そこにいままであった空間がこれまでとは少しちがった空間の見え方をする。ビルディングという知っているものが、知らなかったもののように見えてきたりする不思議な存在感がありますね。

その感想はうれしいですね。

──あの建物を街のなかで発見したのは、本当に偶然なんですね。表通りから少し外れたところを歩いていたときに妙な嗅覚を感じて発見したのですが、あの建物はよく永山さんがいう言葉「とどかない場所」をよく表現していると思いました。

どの建築にしてもとどかない場所というのは、屋根の上であったり、外壁であったり意外にあるのですが、そのとどかない場所があることで、建築は豊かになることは個人的にも感じることがあります。建築は意識的にその豊かさをつくることでできるのかなと思います。永山さんが「とどかない場所」とおっしゃるときに、どのようにそれを意識しているのでしょうか。

たとえば青山のビルを具体的にお話すると、ものすごく高いビルが建ち並ぶ大通りと、一歩裏に入るといきなり住宅地になるというような、すごいスケールのギャップがある場所に建っています。それは極めて都市的なシチュエーションだと思います。

なにかそういった境界線、というのがあの場所のコンテクストとして一番大きなものでした。また、プログラムとしては賃貸用のほぼスケルトンに近いビルディングでしたので、なかのプランニングは手をくわえられず、また都市の真ん中にあるので高いレンタブル比(賃貸面積比)を求められました。ですので、どのような構成をもつ建物であるかというよりも、建物の存在として町並みのなかにどうあるかということが重要になります。そこでまずはじめに気になったのは、ひとが建物に出会ったときにどんなことを思うのかということでした。スケールのギャップがある街に対して、逆にスケールをもっていない、どちらにも属していない建ち方ってなんだろう。大きさを特定できない、なにか曖昧なものとして建ってほしいな、と考えはじめました。

この建物の正面は垂直ではなく、建物の中ほどに向かって上からも下からも膨らんだようなかたちをしているので、下からも見上げたときに距離感がわかりづらくなっています。ここには、そのような曖昧な建ち方のものがいいと思いました。ここで試みているのも、ものというよりは、コトというほうに近くて、ひとと建築の出会い方です。

──プランニングもそうですが、インテリアもできないなかでは、コトをつくりだすことも難しかったのではないでしょうか。

私たちは日常にあるリニアな時間帯のなかで、予定を組んだりしながらある程度予測できる流れのなかで暮らしています。でもそんな日常とは異なる時間の流れがもう一方にあるような気が私はしています。それはこのときにここでないどこかで誰かがしていることを思い浮かべることで生まれる2本の時間の帯のようなものです。そんな日常のなかに自分が過ごしている時間とは異なる時の流れを、ふと感じる瞬間をつくりたいと思っています。それは届かない場所を思う感覚と近いです。

ものすごく単純に世の中の空間を2種類に分ける方法があるとすれば、「自分がいる空間」と「自分がいない空間」だと思っています。そのふたつの空間は相反するけれども、つねに表裏一体のもので、そのバランスで空間はできている。自分がいない場所に思いを馳せることで精神的な自由さを感じることがあります。その感覚は言葉ではなかなかうまく表すことができないかもしれないのですが、思うことというのは身体的な制限を越えて、遠くへ飛ばすことができる。遠くの山を見ながら、その山の上に思いを馳せることで、精神的にはそこに行った気持ちになることができると思うんですね。そういう作用をもたらすきっかけとして「届かない場所」というものに可能性を感じます。

有名な龍安寺の石庭も目の前にしながら、そのなかには誰も立ち入ることができません。しかし、そこに配置されている石を眺めていると、精神は自由にそこをさまようことができます。逆にどこにでも行けるということは、じつは精神的には自由ではないんじゃないかと考えることがあります。いま、特別だった場所がどんどん開示されすぎて、行けない場所、届かない場所が減っていっているような印象を個人的にはもっています。逆にそういったものを残すことで日常とちがう流れを意識するような、精神的に自由な場所がなくなっているのが気になります。

──それを建築でつくることができたらいいですね。

そう思っています。

東京という街

──永山さんは東京のお生まれですよね。東京の街の移り変わりをみて育ってきたと思いますが、海外のほかの都市と比べて、どのような印象をおもちですか?

東京はほかの国のどの都市と比べても、茫洋とした印象があります。中心部はそれなりの密度があり、それが徐々に広がって、周辺部はどこが境かわからないくらいぼんやりしています。でも解像度をあげていくと、街のなかに隠れキャラのような活気ある小さな路地が潜んでいたり、不思議な街だと思います。

──お生まれはどちらですか?

中央線沿線にある街です。山手線の外側で、中央線沿線という、ちょうど都市の端境という感じです。すごいビルディングがあると思えば住宅地もあるという場所です。中央線沿線というのは独特な雰囲気や文化的背景のあるエリアです。

建築家|永山祐子 17

丘のある家(2006年)

──高円寺や荻窪、中野など、独自のサブカルチャーが根づいた街という印象があります。地理的には平坦な土地のなかに、東京の外側に向かって放射状に環状7号線や8号線が走り、それをまたぐように郊外に向かって幹線道路が延びている。そのあいだにせい然とした街並みや入り組んだ路地や川が流れていたり。

思わぬところに境界があったり、混沌とした東京という都市とはちがう一断面を象徴するようなエリアだと思います。

──個性的でありながら、一見均質な街並みは無個性のようにもみえますね。そこでは、誰かに監視されているようでいて、都市の端境のなかで深い森のなかで暮らすかのようにひっそりと暮らすこともできる。かと思えば、街に対して積極的にアプローチしていけば、どんどん楽しみが増えていくようなアクティビティも備えています。そこでは、建物によって、その街での振る舞い方がきまってくるくらいにしっかりとした区画がつくられているので、都市では街の個性が建物によってつくられていることがわかるような仕組みにもなっています。そのような建物をつくる建築家とは、日々街をどのように考え、見ているのか、とても興味があります。

建物をつくっているとわかるのですが、あきらかに建築法規が街の様相をつくっているという一側面があることがわかります。通りに面して大きなビルが建ち、その後ろには小さなビルしか建たたないということも、建築法規から決められた街の様相です。法規が変われば、街の様相は簡単にがらっと変わると思います。法規のちょっとした見直しで街がいい方向に変わることもあるんじゃないかな、と思います。そこらへんに建築家がかかわることでもう少しうまく都市の様相を変えることができないかな、と思います。

──ひとりひとりの建築家が変えることはできないのでしょうか。

それは微小なことかなと思いますね。でも、たとえば道路斜線という法規があるのですが、南青山のビルはその法規を逆手にとったアプローチでもありました。道路斜線により沿うように局面に反り返ったビルのファサードにはグラデーション状に光がおちてきます。そして前面道路までふんわりとした光をおとしていました。それを見たときに道路斜線って、その下を歩くひとにとってはいいものなんだ、と実感しました。

Vol.5 永山祐子インタビュー (6)

とどかない場所~あたらしい時代のスタンダードのあり方

地域性を考える

──東京の下町にある『カヤバ珈琲』のリノベーションはどうですか。

『カヤバ珈琲』の場合は建物保存に近い考え方でした。この仕事にかかわることによって私自身考え方が広がりました。リノベーションのお仕事自体これまであまりやったことがありませんでした。地域の町並み保存をしている台東区歴史研究会との共同のプロジェクトだったのですが、最初この場所がもつ歴史的な、ある意味ノスタルジックなお話を聞きながら、どういうふうにアプローチをしょうかと考えました。

そこで思ったのが、「うつわ」としてノスタルジーに浸るのは避けたいなということです。ここにある長い時間をかけて建築のなかに生まれている空間特性を、捉え直すとしたらなにがあるんだろう。そのような視点で見たときに、ここに固有のものとしてすでにある、光のコントラストをみつけました。

だいたい、昔の喫茶店の店内って暗いじゃないですか。そのような暗い店内で、黒い飲みものである珈琲をながめて(笑)、珈琲の表面に顔が映るなあとか思いながら、顔を上げると窓の外が明るくて、外側を歩いているひとが生き生きと見えてきます。そういう喫茶店独特の時間の流れみたいなものをつくりだしているのが、この光のコントラストだと思いました。そのような、そこにある普遍的ともいえる要素を拾いあげて、この場所の再スタートポイントとするというふうに決めました。

また、スケールにかんしても、いまのひとにあったちょっとだけあたらしいスケールに直すことをやっています。この場所は天井が低いんですね。そこで天井にガラスに変えて、その反射によって物理的にではなく現象として上方向に広げています。そうすることでいまのひとの感覚やスケールにあった空間になるんじゃないかと思いました。照明はこまかく調光できるようにして、窓の外の光とバランスを取ることができるようにしています。入って奥に見える壁は1面光壁として、奥に抜けていく感覚をつくリました。

この建物はふたつの通りに面したコーナーに建っているので、通りからも見通しがききます。奥の光壁は照明を消すと白い壁になり、プロジェクターで映画を上映することができるようになっているのですが、通りからもよくみえます。都市に対してなにか発信するような場として開かれていくといいなと思います。

──いまどきのオープンカフェというのは、街に対して物理的に開かれているものは多いと思うのですが、昔ながらの喫茶店は、ひとりが前提というものが多いような気がします。

そうですね。明るくて白っぽいいまどきのカフェもいいのですが、それとは少しちがう、中は薄暗いのだけど、その薄暗くモノクロな場所から明るくてカラフルな窓の外を観察しながら物思いにふけれるような喫茶店がもっとあったらいいな、と思いますね。

──『カヤバ珈琲』はしばらく休業していたと思うのですが、その存在を昔から知っているひとであれば誰もがその行く末を案じていたような街のランドマーク的存在でした。ですので、今回それが永山さんの手によって、多くのひとが望んでいたようなかたちで引き継がれたことは、建物と街、そして建築家との関係においてとてもよかったと思っています。建物としての記憶がたくさんあるものだけに改修にあたって難しかったことも多かったのではないでしょうか。

ひとつひとつの記憶に向き合っていると大変なことも多いのですが、その記憶を生み出してきた根源的な要素のひとつはなんなのだろうかと考えました。そこで空間に向き合うことで見えてきたのが、さきほほどもお話したこの場所の「光のコントラスト」でした。晴れの日もあれば、曇りの日もあり、明るいときもあれば暗いときもあるというように、おなじ一日でも光の状況はうつろっていきます。店内の天井には黒い透けるガラスを使用し、照度が低いとそこに映り込む景色が白黒に映り、明るいときはカラフルに映るという、反射した映像の方もさまざまなな光の状況をつくるようにしています。映り込み方もじつはうつろうと。『カヤバ珈琲』はSCAI(白石コンテポラリーアート)との共同プロジェクトでもあるのですが、2階はギャラリーのオフィスになっています。将来的には天井裏にアート作品をおいて、黒いガラスを透かして天井裏にあるアートがちらっと見えたりするといいなと思っています。お膳立てを抜きにしてアートと対峙できる場所になるといいです。そんなふうに、日常のなかに建築でふとした気づきの瞬間をつくれたらいいなと思います。

Vol.5 永山祐子インタビュー (7)

とどかない場所~あたらしい時代のスタンダードのあり方

あたらしい価値を創造する

──現在進行中のプロジェクトを教えてください。

まだ不確定な要素があるのですが、中国でレジデンス用共用施設を設計しています。具体的にはマンションがたくさん建つ場所に、住人用の中国式の庭のあるパブリック空間をつくるプロジェクトです。

あとは住宅のプロジェクトがあります。75平米の小さな家です。半分くらいは斜めの床になっています。さきほどの届かない場所ではないのですが、斜めの床には可能性を感じています。なぜかというと、斜めの床にはモノを置けないので、空間として汚されず、そこだけニュートラルな状態で残すことができます。そこに陽の光が入ってくると、日差しが光のボリュームのようにみえてきます。

──斜めという場所は考えようによっては興味深いですね。もともと家型をした屋根は三角形で斜線になりますし、その屋根を内側から見ると,水平に屋根を切り取るよりもものすごく広い空間に感じることができます。

この家では、地下にレジデンスをつくって、ひとが泊まれるようにしたいとも考えています。いま、家を建てるとしたらたんなる家としてだけじゃなく、可変的な要素をもったものをつくりたいと考えています。それは「自分の家」ではなく、自分の居場所、自由に使え、都市とコネクトできる「スペース」をつくるという感覚です。

これは『カヤバ珈琲』をやってから気づいたことなのですが、建築はたんに壊してあたらしくつくるということだけでなく、あたらしい見え方をつくる、あたらしい視点を指し示すことも建築の行為なんじゃないか、と思うようになりました。ですので、いまは活用されていない場所を、こういうことに使ったらどうですか、と設定をすることも建築家ができるおもしろい仕事だなと思っています。

建築家|永山祐子 22

住宅のプロジェクト(2010年)

それで、ホテルでアーティスト・イン・レジデンスをするというプログラムをつくりました。場所は清家清さんが設計した『エル・ボスコ』という長野の野尻湖の湖畔にあるホテルです。以前お仕事でご一緒した、このホテルを運営されている浅生亜也さんと、ホテルでなにかできないかというお話になったときに、ホテルでアーティスト・イン・レジデンスの案を思いつきました。ホテルの部屋は24時間、365日誰かが使用しているわけではないので、その部屋の空いた時間をアーティストに貸して、そこをアトリエに使用してもらう。それで「ホテル・ソルテュード」というアーティスト・イン・レジデンスというプログラムを浅生さんとアーティストの名和晃平さんにも参加してもらって、3名で発起人になってはじめました。

普通のアーティスト・イン・レジデンスとちがう点は、「考える時間」をもってもらうということです。アーティスト・イン・レジデンスというと創作場所を提供する、というイメージがあると思いますが、自由に考える時間を提供するプログラムはあまりないなと思っていて。現在、試験的に若いアーティストの方にロングステイをしてもらっています。

──考える時間をプレゼントするという感覚はあたらしいですね。考えることに適した環境が、しいてはあたらしい発想を生むような気がします。

このホテルは美しい湖畔の森のなかというすばらしい自然にかこまれた環境にあるので、たんに手を動かすというよりも、頭を働かせるのに最適な環境です。都市からの喧噪から逃れて、普段とりまく周囲の関係から自由になり、自然のなかでじっくり考える、そしてつぎの創作に向かう、というクリエイターとしてとても大切な時間が、時間の流れの速いいま、とりづらくなっているのを感じます。また、このプログラムは地域にとってもいい効果があると考えています。クリエイターがそこに滞在し、それが創作の源になっている、という知の蓄積をつくることで、その場所に文化的な系譜ができるのではないかという考えです。それがその地域の場所に根づく大切な価値になると思います。

地方都市が衰退していくというどうしょうもない現実のなかで、巻き返しをはかることができるとしたら、ひとつはその場所にある文化的背景だと思っています。たとえば、城下町という歴史をもっている街だとしたら、それだけでその街の文化的背景になり得ます。それに対して、新興都市のような、街としての歴史もなければ、その街が都市たりえていたような背景さえも希薄な場所が衰退していくと、復興に向けた手がかりが乏しい。ですので、その場所に文化的な蓄積を残していくということは、長い目で見たときに、アーティストにとっても地域活性にとってもいいことだと思います。そこで、このプロジェクトではアーティストが作品を残すということは義務づけずに、この滞在という行為をアーカイブに残しつつやっていこうと思っています。

建築はスケールの大きさゆえに、街やひとにとって、ある意味暴力的な行為となることがあります。だからこそ、つくるものに責任をもたなくてはいけないなと、いつも意識しています。これからの時代、建築家はたんに建築物をどんどんつくるというだけの時代ではなくなっていくと思っています。建築家の役割として、あたらしい視点をつくるというのが重要だと思います。ただ物理的に空間をつくるというだけではなく、たとえばホテルとアーティストを結びつけるというような設定を提案していくことも建築的行為だと思っています。

あたらしくものをつくりだすことと同時に、すでにあるものの定義や、ものがつくりだされ、そこに持続していく設定のことも考えていけたらいいなと思っています。それが私自身、クリエイトする上での良いバランスになっています。

──どうもありがとうございました。

(2010年10月13日 荻窪の永山祐子建築設計にて)

Photo by Takashi Kato

永山祐子|NAGAYAMA Yuko
1975年 東京生まれ。1998年 昭和女子大学生活科学部生活環境学科卒業。1998年 青木淳建築計画事務所勤務。2002年 永山祐子建築設計設立。主な仕事に、「afloat-f」2002年、「CAST」2003年、「LOUIS VUITTON 京都大丸店」2004年、「丘のある家」2006年、「URBANPREM南青山」2008年、「カヤバ珈琲」2009年など。
http://www.yukonagayama.co.jp

           
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