かつて修験者たちが歩んだ登山道「村山道」。富士山信仰の歴史|TRAVEL
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2022年7月6日

かつて修験者たちが歩んだ登山道「村山道」。富士山信仰の歴史|TRAVEL

LOUNGE|富士山・村山道

富士山が特別な理由を修験者たちの足取りから探る

世界遺産、富士山。2013年にユネスコ世界遺産委員会によって、「富士山ー信仰の対象と芸術の源泉」として世界文化遺産に登録された。信仰と芸術の源として、未来に受け継ぐべき宝と世界に認められたのである。

Text by SAITO Tomoki

日本人の心の源・富士山

芸術に関しては、名のある絵師たちが富士山を描いてきたことから明白だが、富士山と信仰が密接な関係にあったことは、現在あまり知られてはいない。しかし、かつて富士山は、神や仏が住まう神聖な領域であり、またその存在自体が神と畏怖されていたのだ。
絹本著色富士曼荼羅図
室町時代後期に絵師の二代目狩野元信が描いたとされる国指定重要文化財「絹本著色富士曼荼羅図」。当時の富士山信仰と登拝の様子を描いたものだ。富士山頂に仏が鎮座し、それを目指すように人が列をなしているのが分かる。

富士山へ向かう始まりの地「富士山本宮浅間大社」

絹本著色富士曼荼羅図に描かれ、登拝を行う修験者たちが、まず初めに立ち寄ったのが富士山本宮浅間大社である。
岩盤や地層でろ過された澄んだ水が、ここにある湧玉池に溜まる。その水で体を清め、そして神の領域を目指したのだ。
現在は、舗装された道路と整備された登山道によって簡単に行くことができるが、当時は木々が生い茂る険しい道のりを修験者たちは歩んだ。

かつての富士山信仰の中心地「村山浅間神社」

富士山本宮浅間大社を出発した修験者たちが、まず目指したのが村山浅間神社だ。修験道の中心地であり、多くの修験者たちが来訪した神社だ。明治時代におきた仏教の抑圧・排斥をする廃仏毀釈運動までは、興法寺という寺院がここにあった。つまり、神と仏がこの同じ場所で祀られていたのである。
神仏習合の名残は現在でも残っており、村山浅間神社社殿そばには、興法寺の中心的な建造物で、江戸末期に建造された興法寺大日堂(平成26年に保存修理)が現存している。
村山浅間神社で礼拝と垢離(こり)を済ませ修験者は、再び富士山頂へ足を進める。
その道は「村山道」。今日、一般の富士登山客が入ることは少ないが、その道は今も残っており、当時の修験者たちに想いを馳せながら、富士登山を行うことができるルートだ。

願いを打ち付ける札打場と女人禁制の歴史

修行僧たちが願いを込めた札を打ちつける札打場。現在では幹回りが3.5mもあるケヤキに廻された綱に札を結び付けるようになっているが、かつては村山浅間神社から約2㎞地点にあったとされる発心門という鳥居に札打をしていた。
信仰の象徴であった富士山。しかし、女性たちは山頂への登拝を禁じられていた。
標高1260m地点にある中宮八幡堂跡と付近にある女人堂跡。人為的に整地され、かつて建物などがあったことを示している。中宮八幡堂は中宮馬返しともいわれ、この地点までは馬で往来することも可能であった。中宮八幡堂を過ぎた先には「剱王子」という表口における女性の参詣できる限界点があり、女性たちはその場所から富士山頂を直接拝んでいたのではないかと推測される。
では、男性なら古くから富士山に入山していたかというと、そうではなかったはずだ。富士山は人間が登るにはあまりにも過酷な山だった。火山活動が非常に活発だったからだ。
西暦800年には延暦大噴火、864~866年には貞観大噴火と、大規模な噴火が100年の間に二度も発生している。貞観大噴火では大量の溶岩によって湖が分断されてしまったという記録も残っている。そのため、富士山に登って信仰する登拝は一部の修験者たちに限られ、富士山を遥か彼方から進行する遥拝(ようはい)が主流だった。
富士宮市にある山宮浅間神社には当時使用された遥拝所が残っている。創建年代は不明だが、発掘調査で12世紀のものと思われる土器も出土している。日本一の山は、はるか昔から、信仰と畏怖の対象であったのだ。

富士特有の生態系と笹垢離跡に残された神仏分離

雨により一時的に沢ができるが、基本的に富士山に川は存在しない。スコリアという軽石に似た火山噴出物で地表が覆われているためだ。水はけが非常によいため、降り注いだ雨は溜まることなくスコリアの層を通過していく。
江戸市中まで火山灰が降下したとして有名な1707年の宝永大噴火でも、このスコリアが大量に噴出したという。
そんな富士山周辺の植物に水分を分け与えているのが、あたり一面に生している苔類だ。苔類が水を保水・供給することで、富士特有の生態系が形成されている。
神仏習合で信仰された富士山。しかし、明治時代に入るとその信仰形態は大きく変化する。廃仏毀釈運動の影響は、富士山中に安置された仏像にもおよんだのだ。前述のとおり、富士山には川がない。そのため修験者たちは水の代わりに笹の葉で垢離を行った。その笹垢離跡の仏像に廃仏毀釈運動の痕跡を見ることができる。
仏教の信仰対象である不動明王像など、仏像の首が切り落とされているのだ。この場所は村山から富士山頂を目指す登山道の中の、標高1860m地点にある。明治政府の神仏判然令以降に起きた廃仏毀釈運動は、人間の立ち入りが難しいこのような場所まで徹底的に行われたのである。
この廃仏毀釈によって村山を経て富士山頂を目指す人は減少。今では、知る人ぞ知る登山道となってしまった。標高1870m地点に現在でも富士山を一望できるスポットがある。その場所は、1996年の台風17号の被害によって、多くの樹木がなぎ倒された倒木帯だ。
生と死が入り混じる人間界のような倒木帯。その木々の間から、5合目より先、高木が育つことができない森林限界とされる岩肌の富士山が顔を出す。まるで、神や仏の世界と言わんばかりだ。
今回富士山信仰の歴史を巡った村山道は、5合目登山口よりも下にある。一般登山客は5合目から山頂を目指すことが多いため、村山道までのルートはショートカットされてしまう。しかし、富士山が世界遺産に登録された理由の一つである信仰の観点で見れば、多くの学びが村山道にはあるのだ。
富士山信仰の歴史は、当時の政府や思想によって大きく変化をしてきた。そんな騒がしい人間界と距離をおくように、そして絶対的な存在として、今日も富士山はそこにある。
提供:富士宮市富士山世界遺産課
問い合わせ先

富士宮市富士山世界遺産課
Tel.0544-22-1111
http://www.city.fujinomiya.lg.jp/

                      
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