連載・塚田有一│みどりの触知学 第14回 旧暦の七夕をはさんで、九州を旅した
火の国、水の国、緑の国
第14回 旧暦の七夕をはさんで、九州を旅した(1)
おもに熊本県をさして「火の国」と呼ばれるが、九州全体に火山が多い。「火の国」の象徴である阿蘇をはじめ、桜島や雲仙、不知火、霧島、久住山、由布岳などなど、火山だらけだ。でも、行ってみると、火とおなじくらい「水の国」でもあった。同時にそれは「緑の国」のことでもある。
文・写真=塚田有一(有限会社 温室 代表)
【ながす】
震災から5ヵ月。青森のねぶたも、仙台の七夕も、秋田の竿燈まつりも斎行された。ねぶたも、竿燈まつりも、七夕とおなじルーツをもつ。音楽や踊りがくわわり、なにかに肖(あやか)り、習合され、風土や気質や時代がそれらを独自のものにしていく。風流(ふりゅう)になる。大きな災禍があればその穢れを祓い、流す。潔斎(けっさい)をし、供犠(くぎ)をし、その荒魂をどうかどうかとなだめる。哀しみが大きいぶん、暮らしがきつければそれだけ過剰に、派手になっていくものだったのかもしれない。
祭りは大切だ。コミュニティとしての絆もたしかめられる。被災地では、哀しさではち切れそうな胸とあふれる涙、一方でぽっかり心に空いた穴を同時に、どうにか抱えながら、誓いを立てなければならない日でもあっただろう。僕にはただ、想像してみることしかできない。
本来の七夕はお盆の準備をはじめる日でもある。
今年の旧暦の七夕は8月6日(土)で、九州を巡る道中、いたるところで墓地の草刈りや、お墓を水洗いしている家族を見た。迎え火も焚いた。家では庭の手入れも欠かさない。精霊棚もおそらく設えられていることだろう。ご先祖さまの魂を迎える準備は、こうして普通におこなわれている。
泊まった温泉宿の女中さんのひとりが、里芋を煮るのを忘れてしまったと仲間に言っていた。聞いていた女中さんは、それはまずいという。「ご先祖さん、今年だけは許して」と当の女中さんは手を合わせていた。久しぶりに聞いた懐かしいやりとりだった。
火の国、水の国、緑の国
第14回 旧暦の七夕をはさんで、九州を旅した(2)
【みずほのくに】
大分空港から国東半島を巡って、玖珠の温泉へむかった。道行きの途中で気になる神社を見つけてはクルマを停めて、お参りをする。古層の神々がたくさん鎮座していて、バリエーションも豊か。稲の神様であろう歳の神、八坂神社や八幡神社、平安時代の浄土信仰、夥しい数の仁王像、磨崖仏、密教の仏たちなどなど、たくさんのアジアが共存している。
古い神社や寺は、琉球の御嶽のように、見えないちからに満ちていて、それぞれうつくしい。ひとつの神域には、いく柱の神々が祀られ、小さい社がならんでいる。拝殿の裏にはかならず守られた静かな聖域があった。
台風の影響で雨や曇りの日が多かったせいか、2日目以降はとくに「水の国」九州を感じた。行く先々で水の神々に引き寄せられるようだった。
稲穂をつけはじめた水田は山間のどんな透き間をも埋め尽くすように、美しい棚田の風景を見せてくれた。豊かな水がこの風景を可能にしている。ふさふさと風になびき、雨をよろこんでいる稲。葉先すれすれについついと飛ぶ蜻蛉(とんぼ)、カッターのように風を切る燕。降る雨の滴は集まり、流れが生まれ、いく筋もいく筋もの川となって渓谷へ。
“every tear is waterfall”──あるバンドの曲を想い出す。火山活動が、切り立った深い渓谷も生んだのだろうし、美しい水は溶岩に漉された地下水が固い岩盤にあたるなどして噴出したものだろう。
火の国、水の国、緑の国
第14回 旧暦の七夕をはさんで、九州を旅した(3)
【いずみへ】
天岩戸神話で有名な高千穂の天岩戸神社にも滾々(こんこん)と湧き出る泉があった。高千穂の峡谷もとても深い。高天原パンテオン。雲が棚引き、文字どおり神々しい土地だと思う。古事記では神々が天鈿女命(アメノウズメ)のセクシャルな踊りを見て大笑いし、それが天照大御神(アマテラスオオミカミ)の好奇心を誘い、世界に光が復活したことになっている。「笑う」は「割る」と語根が一緒だ。闇を打ち割るちからが「笑い」にはある。古事記では「笑う」は「咲う」と書かれている。「咲く」も「割く」につうじる。
天岩戸神社から高千穂神社へ向かう。天岩戸神社を出てすぐ、小さな鳥居が田んぼのあいだに立っているのに気がついた。クルマを停めて谷へと下るその参道を降りて行った。沖縄にもこうした断崖に架けられた祭壇がよくある。
深い渓谷は雨を集めて濁流となっていた。時折光が射し込む風のつよい日で、浅深の陰影がそのたびにくっきりとする。その断崖にぽつんとある小さい祠(ほこら)は「瀬織津姫」を祀っていた。この神様の名前は、夏越しの祓えの大祓詞にも登場するから、穢れを祓うさいに欠かせない女神だ。「七夕つ女」「棚機津女」のバージョンかもしれない。
阿蘇は世界最大級のカルデラ湖をもつ。その火山の山麓いたるところから水がわき出している。水源が点在し、それが田や畑を潤している。そのなかでも突如看板が目に飛び込んできた「山吹水源」へ。その名も不死の泉を連想させる。毎分30トンという水がいったい何年のあいだ湧きつづけているのだろう。
その季節にはやまぶきの花が咲き誇るであろう泉。沢を辿って歩くその奥へ。息を呑む美しさだった。
自分の姿は、水に映る影のほうがくっきりとしている。どちらが本当なのか? 『金の斧 銀の斧』というお話を知っていれば、なにか落とせば女神があらわれそうな……。山吹とは黄金のことでもある。繁った緑からこぼれる光が鏡のような水面でゆらめき、無数の光を生む。
山吹水源から少し下った集落に『乙神社』がある。「乙姫」と関係がありそうだ。そう、竜宮城に住み、浦島太郎と恋に落ちたお姫さまだ。扇のように水田が広がる山間の小さな集落。小高い場所に鎮座する「乙神社」。これも乙姫、弟七夕など、海と山の婚姻関係などをしめしているのかもしれず、興味深い。祠のひとつには白い玉石が祀ってあった。
火の国、水の国、緑の国
第14回 旧暦の七夕をはさんで、九州を旅した(4)
【火のくに 水のくに】
山の民と海の民、火の神と水の神、九州の風土や地形に、たくさんの対称を見た。でも、そもそも山は水源でもあり、植物を抱え、水を蓄える場所であり、雲が沸く場所でもある。マグマという火を体内にもち、山にとってそれらは決して分けられるものではないことを考えると、どちらがどうということではなく、陰陽が和するように、光と闇、明と暗、ハレとケ、荒魂と和魂、男と女、その無限の間というものがおそらく存在する。
だから八百万なのだろうか。火の神とか水の神はいつもおなじ神の異なる名前だったのかもしれない。
「かみ」とは「火(か)」と「水(み)」のことでもあると、去年の京都祇園祭で出会った茶坊主だというおじいさんが教えてくれた。八坂神社でのことだった。
そのとき僕はかれから安全ピンをもらったものだ。「あんた、そうとうに、ゆるんどるよ」って。
なにを締めればいいのか、閉めるのか、絞めるのか、いまだにわかっていない。どこかが緩んでいるのはたしかだとしても。出会ったらきっとまた安全ピンを渡されるのだろう。