連載エッセイ|#ijichimanのぼやき「自由が丘編」

カフェ アンセーニュダングル

LOUNGE / EAT
2020年2月7日

連載エッセイ|#ijichimanのぼやき「自由が丘編」

第17回「本質的にいいものが根付く街・自由が丘」

ひたすら肉体の安全無事を主張して、魂や精神の生死を問わないのは違う(三島由紀夫)」――日本初のコールドプレスジュース専門店「サンシャインジュース」のボードメンバーの伊地知泰威氏の連載では、究極に健康なサンシャインジュースと対極にある、街の様々な人間臭いコンテンツを掘り起こしては、その歴史、変遷、風習、文化を探る。第17回は、おしゃれなお店や施設が立ち並ぶ自由が丘をナビゲートする。

Photographs and Text by IJICHI Yasutake

無駄なものを削ぎ落した本物だけが残る

中学・高校・大学2年間の合計8年間、私は渋谷から日吉まで東横線で通学していた。大学はあまり行っていなかったから正確にはもっと短いかもしれない。いずれにせよ、青春時代に最も利用した電車であることは間違いない。当時は各停と急行だけだったけれど、渋谷〜日吉間で最も大きい駅で、特急ができた時に唯一停車する駅が自由が丘だった(中目黒は当初は通過駅だった)。
当時の私たちは、「渋谷組(山手線や井の頭線、銀座線沿線に住み放課後の主戦場は渋谷)」と、「ガオカ組(大井町線沿線や都立大学・学芸大学界隈に住み放課後は自由ヶ丘)」に大別されていた。新大久保に住んでいた私は渋谷組だったから自由が丘で遊ぶことは少なかったけれど、たまにガオカ組と一緒に自由が丘で遊ぶことがあった。

遊ぶと言っても、「カラオケの鉄人」に行ったり、「GAP」の前でペチャクチャしたりするくらい。逆に言えば、当時の学生には遊ぶ場がなく、飾り気がない素朴な地元密着型の街というのが正直な印象だった。後々各種メディアで“おしゃれ”な街として紹介されるのを見るたびに、腑に落ちないもやもやした感じを抱えた。
そもそも“おしゃれ”とは何なのか。広辞苑によれば、美しい姿や面白い人のこと。語源は“曝される(さらされる)”の意で曝されて余分なものがなくなった状態、あるいは機転が利いて気が利いて垢ぬけている様である“戯れる(される)”とも言われる。おそらく私が感じたもやもやは、“おしゃれ”に内在された、身なりに気を配った“美しい姿”の意にだけ捉われたが故に感じたものだろう。
そんなおしゃれな街・自由が丘は、実は戦前から名称が変わらない歴史ある街である。

現東横線が開通される前は竹やぶしかなかったと言われる自由が丘は、1927年に現多摩川駅から渋谷駅まで延伸され九品仏駅が開設されたのが起源。時期同じくして、自由主義教育を掲げる「自由ヶ丘学園」が手塚岸衛により創立される。1929年に現大井町線が開通されて九品仏寺院により近い場所に現九品仏駅が開設されると、元の九品仏駅が現在の自由が丘駅の元になる衾(ふすま)駅となり、ほどなく自由ヶ丘駅に改称。

その後、「ヶ」が「が」に変わり1966年に自由が丘駅と改称された。諸説あるもののこれが現在に至るまでの流れというのが有力な見方だそう。ヨーロッパの良好な在宅地をモデルに宅地開発された自由が丘は、追々商業的・文化的に発展し、東京の城南地区を代表する住宅地となり、多くの文化人や芸能人が居を構えるようになった。
また、自由が丘は多くの人気スイーツが生まれた地であることも一応触れておきたい。日本におけるモンブランの発祥は自由が丘。1933年に日本で初めてモンブランを提供する洋菓子店として創業した「モンブラン」。
モンブランと言われて脳裏に浮かべる黄色のソバのような栗のクリーム。それはこのモンブランで生み出されたもので、当時多くの文化人が集ったというが、広くゆったりと快適なティールームには今も多くの人が優雅な時間を過ごしている。
1938年にはお菓子のホームラン王ナボナで知られる和菓子の「亀屋万年堂」が創業。日本を代表する和と洋の菓子の老舗は、今も自由が丘を見守り続けている。1982年にはその歴史が1682年のヴェルサイユ宮殿まで遡るパリの「ダロワイヨ」が不二家と提携して自由が丘に本店を開業。有名パティシエ辻口博啓氏が1998年に初めて立ちあげたパティスリー「モンサンクレール」も自由が丘。自由が丘では多くの人気スイーツが生まれ、流行り、定着していった。
自由が丘を紐解いていくと長い街の歴史があることがわかるが、その時間の流れがわかりやすい形で残っているエリアが実は随所にある。見るからに年季が入った昔ながらの飲み屋が密集する北口の高架下には、1936年に屋台から始まったという「金田」、1951年創業のうなぎ専門店「ほさかや」など、東京を代表する酒場が点在し、行き交う人々の足を止める大井町線の踏切や、東横線が開通される前の竹やぶの一部が残っている「熊野神社」も、味わい深く数十年変わらず残っている。こうした街の風景とともに今も愛され続ける名店がたくさんある。
踏切沿いにあるフレンチコーヒーとチーズケーキの店「アンセーニュダングル」は、コーヒーの香り漂う仄暗い空間がゆったりとした時間を楽しむのにはたまらない老舗喫茶店。1975年に原宿で創業した同店の3号店である。
正統派のほろ苦いコクが芳醇なコーヒーと、なめらかで甘さを控えたチーズケーキは、賑やかな休日午後の自由が丘でも静かな平日も、いつでも穏やかな時間を過ごせる良きお供。物思いに耽たり、読書したりするには最高の古き佳き喫茶店である。
踏切を渡って緑道の端にあるパンケーキ専門店「花きゃべつ」も、1979年創業の人気店。パンケーキという言葉が醸し出す騒々しいイメージではなく、ゆったりほっこりできる店。創業以来変わらないレシピで作られるパンケーキは、薄手で軽いけれどもっちりしていて、なんだか温かい。毎日食べても飽きない味である。
熊野神社の手前の脇道にある「ピッティ」は1972年から変わらず続いているパスタの老舗。

扉をくぐって階段を降りるとそこはまさに“精神と時の部屋”。自由が丘の賑わいが完全にシャットアウトされている。
愛想がいいわけではないけれど程いい距離感で接してくれるご年配の夫婦の切り盛りと、期待を裏切らない味わい。何かに追いかけられているように過ごしている毎日の中でここでのひと時は、頭と心をリセットしてくれる。
そして自由が丘を語る中で欠かせないのは、駅前の1953年に建てられた商店街ビル「自由が丘デパート」。新橋の駅前ビルを思わせるような戦後闇市の香りをどことなく残し、細い通路の両サイドに3坪程度の個人商(小)店100店ほどがぎっしり並ぶ。
昭和30~40年代は流行最先端をいく、今でいうヒルズやミッドタウンのような商業施設だったであろうことがうかがえる。B1・1Fは衣料品や雑貨、宝飾品を扱ういわゆるブティックが多い。時折見かける、総菜屋や寿司屋、骨董屋などが興味をひく。2Fは飲食、3Fはスナック。エレベーターやエスカレーターといった文明の利器はないので階の移動はすべて階段である。
私の自由が丘デパートとの付き合いの最初は1Fの「YAMATO」。よくアクセサリーを買っていた。しかし今はもっぱら飲食店。2Fのとんかつの「味の一番」、カレーの「aasa」などは1000円以下でしっかり美味しいランチができるし、ベトナム料理の人気店「QUAN AN TAM」は昼時列をなしていることもあるけれど、お目当てのフォーはもちろんも付け合わせの手羽先も実に美味い。
自由が丘あるいは隣接する田園調布には代々の土地持ちなど本物を知る目の肥えた人が多い。自由が丘デパートが今も脈々と続いているのはそうした人たちに愛され続けているからに他ならない。
“おしゃれ”というワードをどのように捉えるか。若い頃の私のように、“美しい”“格好いい”の文脈で捉えると、—むしろ昨今世の中的にはそう捉えてしまいがちだけれど—流行に乗った一過性のものにだけ目が向いて見方が表層的になってしまう。けれど他方の意味合いにまで目を向けることができたなら、自由が丘には無駄なものを削ぎ落した本物だけが残っている。「おしゃれな街」=気が利いた街・垢ぬけた街という表現にも納得がいくことだろう。表層的なものももちろんたくさんあるけれど、本質的にいいものがしっかりと根付いている街自由が丘。最後に自由が丘はどういうわけか昔から水曜はほとんどの店が休みなので注意が必要である。
カフェ アンセーニュダングル
住所|東京都目黒区自由が丘1-13-6
TEL|03-3725-4749

花きゃべつ
住所|東京都目黒区自由が丘1-7-3
TEL|03-3724-0310

ピッティ
住所|東京都目黒区自由が丘1-25-5
TEL|03-3724-5949

自由が丘デパート
住所|東京都目黒区自由が丘1-28-8
TEL|03-3717-3131
伊地知泰威|IJICHI Yasutake
株式会社サンシャインジュース 取締役副社長 1982年東京生まれ。慶應義塾大学在学中から、イベント会社にてビッグメゾンのレセプションやパーティの企画制作に従事。その後PR会社に転籍し、PR領域からのマーケティング・コミュニケーション・ブランディングのプランニングと実施マネージメントに従事。30歳を機に退職。中学から20年来の友人である代表と日本初のコールドプレスジュース専門店「サンシャインジュース」を立ち上げ、現職。好きな食べ物はふぐ、すっぽん。好きなスポーツは野球、競馬。好きな場所は純喫茶、大衆酒場。
Instagram:ijichiman
                      
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