戸田恵子|2月7日。「なにわバタフライN.V」初日──
2月7日。『なにわバタフライN.V』初日──。
その夜は家でひとりで泣きました。誰からの電話も受けず着信拒否。泣いていました。張りつめていたものが帰宅して切れました! かなり悔しかったんだと思います。ホラ! やっぱりできないじゃないか! やるんじゃなかった! とか。この恐怖感、誰もわかってくれない! とか。とりあえず初日が終わってホッとしたのもあります。怖かったのもあります。
まとめ=K-co Toda
忘れられない初日
見えない山を登って無事に下山できた安堵とか。いろいろな思いが押し寄せてきて泣いたんだと思われます。
舞台上では初日やカーテンコールで過去に2、3度涙した記憶があります。すべて訳ありで泣いたんですけどね。長い舞台人生、初日にしかも家で泣くなんてはじめてのことでした。
初日終演後の乾杯のときはじつはいまだ放心状態で、自分自身訳がわからず、むしろ傍からは怒ってたように見えたかもしれません。そうです。怒ってたんです。自分自身に……。
三谷幸喜さんからいただいたこの大きな風呂敷包みのプレゼントは中に入った少しの道具以外に、三谷さんからの想いがいっぱい詰まっていました。
よりシンプルになった『なにわバタフライN.V』は、より深く、より高みを目指すことになり、私へのプレッシャーは計り知れないものとなりました。そしてわたしの掲げた目標は、軽やかにでした。
でも――。稽古中の孤独感。不安感。
初演となんら変わらない――。
台詞や段取りは覚えられるのか? すべて間に合うのか?
芸術面以前の問題が焦燥感となって眠れない日々。眠れなくても今回は体力がありましたけど(笑)。
舞台に立つ前はなにを信じて出ていけばよいのか! 頼れるものはなんなのか! やっぱり自分だけなんだけど。分かってはいても自分を信じる勇気をもつのにまた勇気がいる。
心臓が痛い! やっぱり今回もそうなんだ「轍を踏んだ」と私は思ったのでした。
なんと自分にがっかりしたことか。
忘れられない初日でした。
しかしながら回を重ね見えない山もひたすら登りつづけ、どうしたって出番の前の不安は消えないのだけど、自分の目指しているところに少しずつだけど近づいていってる手応えを感じはじめました。
現在もそのかすかな光を信じて毎日挑んでいます。もちろん、友人や先輩方。そしてなによりお客さまからのお褒めの言葉や励ましの言葉で気持ちも復活いたしました。ありがたいです。
軽やかにゆとりを見せるなんて、いままで以上に200パーセント頑張らないとそうは見えないんだということもわかりました。だからやっぱり頑張らなくてはなんです。
おかげさまで連日満員御礼のなか、無事に東京公演千秋楽を迎えることができました。この先地方公演にも行ってさらに深く高いところにまで立ち向かっていくんだという気力が出てきました。
初日はあんなに泣いたのに、嘘のようにいまは気がみなぎってきました。良かったです。まだ女優としてやっていけそうです(笑)。
原点回帰
2004年から2005年にかけての初演『なにわバタフライ』公演は、我が母が健在でありました。残念ながら劇場に足を運んだものの体調不良で観劇することはできなかったのですが。
この初演の舞台をやっているあいだは、私の側には母がおりました。帰宅すれば母がおりました。稽古中も公演中も母の介護、看護をしながらだったことが昨日のことのように思い出されます。
その年『なにわバタフライ』の公演を終えて数ヵ月後、母は天国にお引っ越しをしました。私の覚悟はまったくできていなかった。治療入院はしていたものの、とりあえず退院する日も決まっていたぐらいですから。あの朝、病院から母の不調を訴える電話のベル音はいまでも忘れません。張りつめたベルの音でした……。
『なにわバタフライ』と聞くと母の存在の有無をあからさまに突きつけられるようなそんな気持ちにさせられます。その翌年思いがけず、たくさんの演劇賞を受賞した私は、天国の母からの励ましのようにも頑張ったご褒美にも思えました。
私が生まれてからなにひとつ私の舞台を見逃すことなく、観つづけてきた母の観劇が途切れた『なにわバタフライ』――。
それ以降今日までの舞台は、母は空から観てくれているとは思いますが、この芝居のなかの台詞で天国のお父ちゃんに「いっぺん大舞台に立つ私、見てほしかった」とありますが、私にとっても『なにわバタフライ』は母に観てほしかった作品であります。
あれから5年。まさに今回の舞台は私にとってあらゆる意味で原点回帰なんです。
お楽しみに。