Chapter6:『ルワンダ映画祭~“虐殺”から学ぶこと』
Chapter6
『ルワンダ映画祭~“虐殺”から学ぶこと』
<ルワンダ映画祭>
4月7日~4月20日まで東京・渋谷のアップリンクでルワンダ映画祭が行われる。
ルワンダという名前を聞くと1994年に起こったジェノサイド(虐殺)を思いおこす人も少なくないだろう。特に近年、『ホテル・ルワンダ』が日本でも上映され、大変な話題を呼んだことでこの歴史上類をみない“虐殺”の事実を知った人も大勢いることと思う。
これから2回に渡って紹介するルワンダ映画祭では、『ホテル・ルワンダ』や『ルワンダの涙』では語られていない真実、人々の心の内側を描き出した長編作品やドキュメンタリー、短編映画が上映される。今回は、その中から『記憶の守人たち』というドキュメンタリー映画を紹介すると共に映画を通して私が感じたこと、私が知る‘94年の現実を書こうと思う。
photo&text by ASANO Noriko
ルワンダ各地の虐殺の現場から犠牲者の残された家族が当時を振り返る。悲しみ、憎しみ、やりきれない感情、そして今尚、前に進みきれない心の内側をゆっくりとカメラが追う。
ある場所では、虐殺された人々の白骨化した遺体が発見され、自分の家族ではないかと探し回る人がいる。ある場所には無数の白骨化した頭蓋骨がそのまま置かれている。ある人は、血に染まった過去を涙で語る。ある人は、未だに当時の恐怖から解放されず武器を肌身離さず携帯している……。カメラに向かって「お前はジャーナリストか?何人ものジャーナリストが、ここへ取材に来たが、何も変わりはしない。いつになったら変わるんだ!!」と怒りをぶちまける男性もいた。
…………痛かった。52分間の映画を観終わった瞬間、心に剣を突き刺されたような気持ちになった。この映画は、ドキュメンタリーであるが故、残酷さと真実の重さを兼ね備えている。淡々と語られる真実の向こう側に人々の押し殺した感情が見え隠れする。
確かに虐殺は終わった。新しい国づくりに向かって新たな一歩を踏み出しもした。しかし、その残酷な現実を体験した人達の悲しみは、心の中で今でもはち切れんばかりに膨らんでいる。人々の心に巣食った憎しみ、トラウマはそう簡単に拭いきれるものではない。しかし二度とあのような悲惨な出来事を起こしてはいけないという気持ちが人々の感情をコントロールし、記憶に白い布を被せようとしている。
この映画は、ルワンダの“今”を語っている。そこに生きる人達の“今”。残された人達の“今”。同じ地球上で13年前に起こった“大量虐殺”が生んだルワンダの人々の涙……。
私は、この映画を一人でも多くの人に観て欲しいと思う。そして、このルワンダの人々の涙を受け止めてくれたら、自分に置き換えて考えてくれたら……と思う。
地球上の爆発的な人口増加。限りある資源をめぐって、いつ何が起こってもおかしくはない。近い将来訪れるだろう深刻な食糧危機。その時、私たちは少量の食べ物を隣人に分け与えることが本当に出来るのだろうか?これからの世の中、ルワンダで起こったことは、決して他人事では済まされなくなるだろう。その時、自身が加害者にも被害者にも成り得る……ということを念頭に置き、この映画に接してくれたらと思う。…………“民族”って“血”って何だろう……
※上映スケジュールが連日変わるので詳細は http://www.uplink.co.jp/top.php をチェックして下さい!!
<私にとってのジェノサイド>
'94年4月。アフリカ大陸の中東部に位置する小国・ルワンダで歴史上類を見ない虐殺が始まった。民族浄化。ツチ民族であるという理由だけでナタを振り下ろされ、銃を突きつけられ、追い回されたあげく有無も言わさず殺された。100日間で約100万人の命が、無惨にも奪われていったルワンダの大量虐殺。
虐殺が行われたのは、私が初めてアフリカ大陸の地を踏んだのと時期を同じくした。だからこの時の事は、今でも鮮明に覚えている。それに当時、私にアフリカのことを教えてくれた大切な友人が、自分の目で現場を見るためにケニアでVISAを取得し、ルワンダを目指したことも加わってルワンダの虐殺は一瞬にして他人事ではなくなった。
彼がルワンダに向かったのは確か6月に入った頃だったと思う。タンザニア国境からルワンダに入ると言う。虐殺が、ルワンダ全土で行われていた。最初の10日ぐらいは彼から連絡が入った。しかし、その後全く連絡が無くなってしまった。日本のNews番組は、ほとんどルワンダで行われている大量虐殺に触れることは無かった。触れられてもほんの一瞬。何の情報も得られなかった。だから私は、早朝、BSでO.A.されるBBCをはじめ、ヨーロッパのNews番組で情報を取得するしかなかった。テレビの画面に映し出される悲惨な現実。ボロ雑巾のように扱われ、積み上げられた血だらけの遺体。大地は殺された人たちの血で真っ赤に染まっていた。現代社会において斧で人を殺すという姿は想像を絶した。そこに身を置く人たちのことを考えると毎日やりきれなかった。……と、同時に同じ地球上にリアルタイムで行われているこの残虐な現実を今まで知らなかった自分が恥ずかしくなった。焦燥感に襲われた。
彼からの連絡を待つ間、私は何故この大量虐殺が起こったのか、植民地政策がもたらした問題、多民族であるがゆえに起こる民族闘争……等々、様々な角度からアフリカについて勉強した。知らないことが多すぎた。情報過多とまで言われる日本。でもそれは資本主義に基づいた情報でしかない。井の中の蛙だということを思い知らされた瞬間でもあった。
彼から連絡があったのは7月も中旬になった頃だったと思う。タンザニアとルワンダの国境の検問所まで行った彼は、虐殺の主である政府軍を制圧し始めたRPF(ルワンダ愛国戦線)の兵士に「そのVISAでは、入国出来ない。」と言われ、交渉を重ねた結果、車に乗せてもらう謝礼を支払うという条件でルワンダに入国することを許可されたのだそうだ。しかしそれは一週間後。彼はタンザニア側の国境近くでRPFの兵士を待つことになる。そこで彼にとっての悲劇が起こった。タンザニア軍に捕まった。そこで持ち金を全て奪い取られたのだそうだ。ズボンのすそに縫いこんであったケニアに再入国するためのVISA代の$50を除いた全てを……。結局、彼はルワンダ入国を断念せざるを得なかった。そこから約3週間掛かって、ほぼ飲まず食わずでヒッチハイクをし、ケニアに戻ったということだった。そして辞書を売り、電話をくれた。無事に生きていてくれたことが本当に嬉しかった。親しい人の病気や事故での“死”はそれまでにも経験してきた。しかし、戦争を知らない私は、民族浄化=虐殺を間近に感じたことは無かった。
彼が帰国した際、数枚の写真を見せられた。そこには、川に浮かんだ多くの虐殺された遺体が写っていた。目を覆いたくなるような現実がそこにあった。
その後、ルワンダはRPFによってほぼ全土が制圧され、今度は数百万人のフツ民族の人たちがツチ民族の人たちからの報復を恐れて旧ザイール(現・コンゴ)やブルンジ、タンザニア等の難民キャンプを目指した。この頃になってやっと国連や欧米諸国が動き出した。そして、世界情勢に鈍感な日本のNews番組でもやっと取り上げられるようになった。
私は、このことがきっかけでアフリカ大陸に以降、30回以上も足を踏み入れることになった。現在、ライフ・ワークとして関っている「African JAG Project」もこの虐殺を目の当たりにして考え抜いた挙句、始めた事だ。私はプロのジャーナリストではないけれど人に何かを伝える以上、自分の言動に責任を持てるよう、常に “現場” の人間でありたいと思っている。そして足を踏み入れた場所に存在する生の声を一人でも多くの人に様々な表現手段を使って伝えていきたい。彼らには、時間がない。彼らの場所には暗闇が広がり、常に“死”の恐怖と隣り合わせてギリギリのところで生きている。救える“命”があるということ……。それを忘れてはいけないと思う。ルワンダで起こったあの悲惨な出来事は、私を大きく変えてくれた。“表現”に関る者として現実から目を背けず自分の出来ることをやっていきたい。それが、彼らの“死”を犬死で終わらせない事だと思うから。
それにしてもあの言葉は痛かったなぁ…………。
「お前はジャーナリストか?何人ものジャーナリストが、ここへ取材に来たが、何も変わりはしない。いつになったら変わるんだ!!」
4月7日(土)シネマアフリカ映画祭開幕!
■シネマアフリカwebサイト
http://www.cinemaafrica.com/
■会場アップリンクwebサイト
http://www.uplink.co.jp/top.php