Chapter2:アフリカの色彩
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2015年5月1日

Chapter2:アフリカの色彩

Chapter2:アフリカの色彩

ルーファス・オグンデレ『A Mask Man』(写真1)

アフリカの“光”に最初に出会ったときのこと

94年、初めてアフリカの大地を踏んでから既に30回以上、12ヵ国のアフリカ諸国を訪ねた。そこでいつも驚かされてきたのが、アフリカの人々の音楽やアート、ダンスなどの才能だ。

アメリカナイズもヨーロッパナイズもされていないオリジナルがそこにあり、驚くべき才能があちらこちらに様々な形で存在している。その才能は、未知数。今回は、私がそのアフリカの“光”に最初に出会ったときのことを記そうと思う。

最初に衝撃を受けたのは、ケニアのナイロビにある『アフリカン・ヘリテージ』というアフリカン・アートや民芸品を一堂に集めたギャラリーでのこと。所狭しと並べられた様々なアフリカン・アート。
タンザニア出身のアーティスト“ムパタ”の一番弟子“リランガ”が瓢箪に彫った線画アート(写真3)。ナイジェリアのオショボ派を代表する“アフォラビ”(写真4)、フェミ・アロ(写真2)の作品等々……アフリカ中から様々なアートや限りなくアートに近い民芸品の数々は、その質の高さを見事に物語っていた。

市内にあるマーケットにも面白いものはあるが、アートという観点から見るとヘリテージにおいてある作品は、たとえ民芸品でもその域を超えていた。空間自体のディスプレイも見事だったし、体育館ほどの広さを持つギャラリーは、優しい日差しとゆっくり流れる時間がそれぞれのアートをより一層、質の高いものに変えていた。

Chapter2:アフリカの色彩

フェミ・アロ『THE FACES』(写真2)

その質の高いアートの中で私が特に目を奪われたのが、ナイジェリアの作家、“フェミ・アロ”の作品だった。

どうしたらこんな憎らしい、でも愛嬌のある絵が描けるのだろう……。どんなに嫌なことがあった日でも玄関でこんな絵が出迎えてくれたら、思わず笑っちゃうだろうなぁ…… 無性に彼に会いたくなった。

夢のような光景を想像したけど……

翌年、私はアフリカのエキスパートである友人に同行を頼み込んでナイジェリアに飛んだ。持っている情報は、ナイジェリア人であることと“フェミ・アロ”という名前だけ。ヘリテージのスタッフは、学生だと思う……と言っていたが定かではない。

日本にいた僅かな時間でオショボという場所にアーティストが多く住んでいることを知った。植民地解放後、オーストリア人のウリ・バウアーという人がこの地でアートを教えたのだそうだ。

私は、自分の頭の中で勝手に情報を組み立て、“のどかな草原の中に30世帯ぐらいの集落があって、そこにアートをする若者がゆったりと流れる時間に包まれて絵を描いている……そして私がアロを訪ねると彼は、真っ白な歯を見せてゆっくりと手を振りながら「ようこそ」”……なんて夢のような光景を想像し、オショボに行けばいとも簡単に彼に会えるものだと思い込んでいた。

リランガの瓢箪線画アート(写真3)

ところが、行き着いたところは、ナイジェリア第3の州都。人・人・人。ポンコツだけど車・車・車。30世帯???一瞬にして私の勝手な想像は打ち砕かれた。

そしてそこからが、大変。オショボ滞在は5日間。まずは、ギャラリーを探し、ギャラリーのスタッフに「フェミ・アロって知ってる?」と聞いてみる。皆顔を見合わせて「知らない」……沈黙。友人が私に聞く。「本当にオショボのアーティストなのか?」……「判んない。でもそうだと思う……」 想像していた風景が存在していないのだから、そう答えるしかなかった。

驚くべき才能のアーティストばかり

翌日、オショボ派の代表的な作家、Twins77を訪ねた。77は不在だったが、彼のスタッフが「フェミ・ジョンソンなら知ってる」と僅かな希望の光を差し込んでくれた。
また、そこでも勝手に「そうか、フェミ・アロというのはアーティストネームで本名はフェミ・ジョンソンなのかもしれない!!」と思い込み、とりあえず、そのフェミ・ジョンソンに会いに行ってみることにした。

若いその作家は、すごく礼儀正しく私に握手を求めてきた。きっと彼に違いないと思ったのだが、作品を見せてもらうと全く違う……。悪くはないがあの小憎たらしいアロの絵ではない。お詫びの代わりに彼の作品を数点購入し、また振り出しに戻った。

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アフォラビ『Rainbow』(写真4)

友人は呆れ顔だし、さぁ、どうしようかと思っていたらTwis77のスタッフが「そう気を落とすな。俺たちが探してやるよ」と言ってくれた。本当にいい人たちだ。ともかく、オショボのアーティストに会いまくることにした。

ところが、そこからものすごい出会いが始まった。会うアーティスト、会うアーティスト、驚くべき才能のアーティストばかり。

同じオショボ派でも皆、それぞれがオリジナリティーを持っていて手法も違い、その完成度は驚くほど高い。棚から牡丹餅じゃないけど、感動の嵐。

3日目には、ホテルに自分の作品を持ち込むアーティストまで出てくる始末。
私は、アートのプロデューサーじゃないんだけどなぁ……と思いつつ、あまりに刺激的な作品を次々に買いまくってしまった。後になって知ったことだが、その中には、アメリカやヨーロッパでかなり有名な作家もいて、特にルーファス・オグンデレ(写真1)やアフォラビは、日本でも世田谷美術館などで紹介されているアフリカを代表する作家なのだそうだ。

オショボにアロはいたのだ!

4日目、明日はラゴスに戻らなくてはならない。やっぱりアロは、ここに居ないのだろうか……。
私は、常にポジティブな思考の持ち主であるはずなのだが、さすがに不安になってきた。友人は、「諦めるんだな。でも良かったじゃない。凄い作品にたくさん出会えて」と皮肉交じりに笑っていた。

そんな時、オサカというバティックの手法を用いた作品を描く若い作家(写真5)が「フェミ・アロなら知ってるよ」と声をかけてきた。「エッ!!」 信じられない言葉。すぐにアロの家に案内してもらった。

その場所は、大通りからかなり奥に入った小さなアパートで、階段を上がると真っ暗な通路。その奥にテーブルがあり、1人の小柄な痩せた男の人がランニング姿で何か作業をしている。
「彼がアロだよ」というオサカの声。心臓がドキドキした。勝手な空想とは、全く違うシチュエーションではあるが……。

まずは、オサカが私のことをアロに話してくれた。話が終わるとアロが、私のところに近づいてきた。
「マダム……」握手をされ、日本から自分を訪ねて来てくれたということにいたく感動したようだ。当時、私は英語もまともに喋れなかったからこの感動的な出会いも友人の通訳を通してという、情けないものだった。でも、オショボにアロはいたのだ。

その後、アロの作品を見せてもらった。まさにヘリテージで出会ったあの小憎たらしいキャラクターがそこに存在していた。今度は、私が感動する番だった。本当にアロに会えた!!友人は、「良かったな、マダム」と笑顔で言ってくれた。

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オサカ『Woman with Musical Instrument』(写真5)

その後、私は、アロやオサカをはじめ、オショボのアーティスト達をサポートすることにした。98年にオサカが交通事故で29歳の生涯を閉じるまで、私は、26回に渡りオショボを訪れた。アロは、自分の娘にNorikoという名前を付けた。

アフリカのアートは奥が深い。あの色彩感覚と独特な力強い線は、ピカソやマティスが影響を受けたというのも大いに納得できる。これからもこのページで多くのアフリカン・アートを紹介していけたらと思う。

ちょっとの好奇心と一歩前に踏み出す勇気

追記:今、考えると無謀な思い込みだけで遂行した旅。奇跡かもしれないけれど、でもやっぱり思いは通じるものなのだと、何か変な自信を持ってしまった。ちょっとの好奇心と一歩前に踏み出す勇気があれば、そこには、多くの出会いがあるということを学んだ。

ちなみにこの時、ナイジェリアは、政治的に大変不安定でいつクーデターが起こってもおかしくなかったのだそうだ。それと、これも後になって知ったのだが、ナイジェリアの人口は1億2千万人。アロと出会えたのが、1億2千万分の1の確立だったとは驚き!!

           
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