谷川じゅんじ|連載 第6回「鎚起和器『月』」
第6回「鎚起和器『月』」(1)
シャンパンメゾン「KRUG(クリュッグ)」のボトルクーラーを作ったのがきっかけで、新潟燕三条に工場を構える「鎚起銅器」の老舗、玉川堂と知り合った。クリュッグとの仕事を無事に終えたあと、「世界に燕三条の金属加工技術の粋を伝えられる作品を創ってみたい」。そんな相談を玉川堂7代目当主玉川さんからいただいたことが、「鎚起和器『月』」誕生の出発点になった。このプロジェクトに込めた思いや、アートピースとして取り扱うに至ったアプローチの方法について、いまここで改めて振り返ってみたいと思う。
Text by TANIGAWA JunjiPhotographs by TSUTSUI Yoshiaki
鎚起和器「月」誕生のきっかけから完成までの2年間の道のり
「鎚起和器『月』は、絶えることのない月の満ち欠けをモチーフに、満月から半月、新月へと変わる月の姿をひとつの形に織り込んだ。夜空に浮かぶ月の満ち欠けは、太古の昔より世界各国の人びとの想像をかき立て、多くの物語を紡いできた。国を問わずみんなが共通のイメージを抱ける普遍的なテーマを選び、あるときはボトルクーラーとして、またあるときは花器やインテリアオブジェとしても使用できる、鎚起の匠と燕三条の金属加工の匠たちが技術を競いながら、クラフツマンシップと実用性を高次元で実現した器、それが鎚起和器「月」である。「和」とは元来、主体を堅持しながら他を受け入れ調和するという意。異なる素材や技法を和ませ磨き上げることで“和”の心をカタチに織り込んだ作品を考えた。全国のさまざまな伝統工芸や究極技法をピックアップして掛け合わせ、量産品でない、手作りの至高品を生み出していく」
このコンセプトは、今後の工藝品開発にあたっての普遍的なテーマであり、追いつづける夢でもある。
このころ、月2回ぐらいのペースで燕三条に足を運んでいた。燕三条の産業のベースにあるのは金属加工の分野で、その技術水準は世界最高レベル。江戸時代、農閑期に「和釘」づくりがおこなわれたことに端を発し、その後、近郊の弥彦山から銅が産出されると銅細工も盛んになった。現在では、あらゆる領域の金属加工がおこなわれ、なかでも食関連の分野では世界トップレベルのシェアを誇る。大小合わせると1000社以上の事業者が現在も生産をつづけている。燕三条にはあらゆる金属にかかわるプロが集まっているのである。
自分自身、はじめてこの街を訪れたときから、燕三条という街やその街が纏っている極みの世界に感銘を受け魅せられたのだ。日本が誇る至高のものづくり世界を、自分らしい方法で世界の人たちに知っていただくことはできないものだろうか。その気持ちは、はじめてこの街を訪れた瞬間から芽生えたんだとおもう。その気持ちが確かなものになったこのタイミングに、まさに玉川さんの一言は放たれたのである。
字面だけ追ってみても、作ることを生業にする「工業品」と、まさに「藝」のために作った「工藝品」は大きく異なるというのに、機械で効率よく大量生産される「工業品」と、人の手によってしか生み出すことのできない「工藝品」が、おなじ秤で比べられているという現実は決して少なくない。
戦後の成長とは、すべての日本人が、まず物質的に豊かになることを目指し成長を遂げた。その物質社会の成熟を迎えた今日、私たちは心の豊かさを求めてあらたな世界の扉を開きはじめている。
蛍光灯が世のなかを明るくすることが、復興と進化の証だった時代は過ぎ去り、陰翳礼賛の言葉があらわすように、光と影が醸し出す情緒や、余白といったものが重んじられる時代。あらたな価値を生みつづけることから、残す価値を創造する時代。その視点の大切さにみんなも気づきはじめている。ちょうどそんな思いの高まりと、この企画はまさにおなじタイミングではじまった。
月の満ち欠けをデザインに落とし込んだとき、その表現域は鎚起銅器制作だけでは難しい異素材の組み合わせが必要であった。シャープでソリッドな印象を生み出す正面のパーツは鋳物により成形。そのパーツは全体に鏡面磨きを施し、完璧な映り込みを生み出した。その一部を細かい砂によって意図的に曇らせるブラスト加工などもくわえ、最終的には6社の協業体制が誕生。その完成までには、結果約2年の歳月を要することとなった。
第6回「鎚起和器『月』」(2)
「工藝品」という領域が挑戦する「あたらしい価値」
「工業品」はかかった手間を量産することで回収するが、「工藝品」はそういうわけにはいかない。
現代アートのマーケットにおいて、「エディション」というルールによって作品の希少性を担保する方法が定着していることに着眼。その価値創造の方法を工藝品にも応用できないかを考えた。
ものづくりの世界における従来の流通方法は、問屋を介し各地の小売に渡していく方法が一般的である。今回、この作品をどこの目利きのいる場所に届けるかは、流通経路を変える方法がいいのではないかと考え、知人を介し海外のコンテポラリーギャラリーにアプローチをおこなうと同時にあらたにウェブサイトも立ち上げ、直接玉川堂にコンタクトできるチャンネルも開発した。
「月」を創った人たちはどんな土地に暮らしているのか。どのような文脈がこのような作品を生み出したのか。この作品を生活に取り込むことから生まれる歓びとはどんなものか。有形の価値に留まらない無形の価値創造こそ、工藝の生み出す最大のチカラであることを確信しつつ、その物語を伝えることも合わせ、このプロジェクトの文脈を構成した。
来る東京オリンピックが終わり、自分も壮年期になろうかという時期の人口統計をみて驚いたことがある。周知の事実ではあるが、人口は減少し高齢化はいま以上に進むという事実である。もちろん日本の社会であるから、街にはおしゃれで元気な年寄があふれ、一線を退くことで獲得した余暇を満喫する社会になっていてほしいと心から願っている。
が、現実はそんな余裕のある世界が待っているとも思えない。働き手が減少することで失うものは税収だけではないだろう。ある意味、本当の開国がそこに待っているのかもしれない。きっと仕事も世界の枠組みも、いまとは異なるものになるのだろう。
そんな時代の大変革期のなかで、日本の工藝はいままさに決断を迫られている。伝統継承の問題、マーケットの問題、働き手の問題など、作りつづけながら変えていく以外に生き残る方法はないのだと。いったん伝統技術が途絶えれば、その復活には50年100年を要するという。全方位的な危機的状況がそこにはあるのだと僕は感じてしまったのだ。
第6回「鎚起和器『月』」(3)
燕三条が誇るものづくりの素晴らしさをブランド化
決して豊富な資源があるとはいえない日本。にもかかわらず、我が国には世界を席巻するメーカーがたくさんある。ものの機能に織り込まれた美意識は技術の高さ、そのプロセスの美しさはホンモノを知る人びとを虜にする。
ものづくりにおける「品質」こそ日本の生命線。それらを所有する人の心を捉えて止まない日本的文脈。その場所で育まれたクラフツマンシップがひとつの美しい結晶になって、誰もが理屈抜きに納得するような存在に、別のなにかが付随したとき、きっとはじめて「ブランド」という信頼が生まれるのだと思う。
そういった視点において、燕三条という土地のブランド性に僕自身が強く惹かれているのだと思う。そんな視点から、産業観光の分野でも燕三条に光が当たるきっかけづくりを、この「月」を通じて考えてみたいと、すでにあたらしい取り組みも動きはじめている。
「ものを見る、ものに出合う」という体験からさらに一歩進んだものを求めて考えた。その源流をさかのぼる体験、すなわち産地を尋ねる「旅」こそが、これから最も価値の高いラグジュアリーな消費になると僕は感じてる。
ネットワークが広がり、物流のオムニチャンネル化によって、だれもがどこにいても大抵のものは手に入る。だからこそ「旅」なのだ。自分自身の肉体という器に魂という中身を載せて、その土地のエネルギーに触れてもらいたい。「本場燕三条に行ってきたよ」と語れる歓びと周囲の羨望。世界最高品質の移動手段、新幹線はたった2時間で東京から安全かつ安心に燕三条へ連れて行ってくれる。
夏は湯沢、南魚沼、六日町など全国的に有名なお米はもちろん、豊かな土壌を活かし質の高い野菜も数多く作られる。呑ん兵衛にはたまらな酒処でもある。冬には積雪5メートルを越える豪雪地帯の利を活かし、ウィンターリゾートとして全国からファンを引き寄せる新潟エリア。そんな一年中違った視点で楽しめる新潟地方の奥座敷こそ、ものづくりの聖地「燕三条」なのである。
かつてクリュッグを尋ねた旅では、幾度となくシャンパーニュ地方に足を運んだ。クルマで程なく走れば見渡すかぎりのワイン畑。街に戻れば世界に名だたるシャンパンメゾンが軒を連ねる。その周辺にはオーベルジュが数多く存在し、あらゆる種類のシャンパーニュはもちろん、シャンパーニュにもっとも合う料理まで滞在しながら楽しめる旅を実体験させてもらった。
こんな旅が日本でもできたらいいのに。あれから数年が経ったいま、まさに燕三条でその旅はカタチになるに違いないと信じてる。
モノとコトとが紡ぎだす旅の物語こそ、21世紀の日本の宝であり金脈なのだと僕は思う。必要とされることで人は努力や研鑽を継続していくことがはじめてできるのだ。知ってもらうことの難しさとその大切さを肌で感じ、ときに擦り傷も作りながら地道に切り開いていきたいと念じている。
現に、燕三条の工場を見学するイベント「燕三条 工場の祭典」には、全国から多くの人が参加して盛り上がりを見せている。この地域の可能性とポテンシャルを実感するにはいい機会だと思うし、ぜひ足を運んでいただきたいと思っている。
人は、「クオリティ・オブ・ライフ」の言葉どおり、自分の人生をより豊かに充実させるために働いている。人偏(にんべん)に動くと書いて「働く」。
つまり、人のために動くことが働くということであり、その結果として自分が生かされる、というのが人の社会だ。お金のやりとりにかかわらず、誰かの役に立つことこそが、人がなにかをするときのモチベーションになる。自分自身、これまでもそうであったし、今後もそうでありつづけると思う。
次世代のために、自分自身が残された時間のなかでなにができるのか。50歳を迎える節目の年だからこそ、いまいちど深く考えてみたいと思うのだ。