#003 吉田晃務さん(吉田カバン デザイナー)とのおはなし(後編)
#003 吉田晃務さん(吉田カバン デザイナー)とのおはなし(後編)
ファッションブランド"MINOTAUR(ミノトール)"のディレクター泉 栄一が発信するコミュニケーション ツール『M a(マ)』。
ひきつづき吉田カバン デザイナーの吉田晃務さんに、それぞれのシリーズの成り立ち、晃務さんが影響を受けたカルチャー、そしてこれからの吉田カバンなどについておはなしいただきました。
文と写真=M aまとめ=金子英史(本誌)
泉|東京オリンピックの頃の吉田さんは、どんなコトをやられていたのですか?
吉田|その時代は、いわゆるカバンの問屋さんですよね。
とにかく、外国のいい材料とかいい金具とか、その文化がうちに入ってきていたんです。当時の材料屋さんは、海外になんて行っていないですからね。それこそ雑誌もなければ、インターネットの情報もないし。とくにファッションの情報なんて、実際に外国に行って歩いて見るしかないんですよ。
だから、そういう時代に海外に行けたということは、貴重だったんじゃないですかね。サンプルも買ってきていたし、見たこともない材料だって、はじめてさわれたわけだし。特に革に関しては、当時、海外とはその差がすごかったらしいですよ。ただつくりだけは日本人の方が器用で丁寧という印象はあったみたいです。
泉|なるほど。問屋さんだったのですね。私が初めて吉田さんのカバンを見たのは、福岡のビームスとかのセレクトショップ、天神コアのカバン屋さんとか、大隈カバン店とかだったんです。
吉田|あの頃は、ライセンスビジネスというものをやった時代なんです。要は、ブランドの名前だけを買っちゃうみたいなことですよね。
泉|お父さんの滋さんは、海外から60年に帰ってくるじゃないですか?伯父さんの克幸さんはいつごろ行かれたのですか?
吉田|70年代くらいですね。克幸の時代は、学生紛争の時代なんです。
だから学校に行ったって、デモばかりじゃないですか?
彼は、そういうのが嫌だったので、「外国でも行くか」みたいなノリで行ったみたいですね。それでロンドンに行ったらファッションもふくめて面白くて、そこに約2年くらいかな。その後、ニューヨークに行ったんです。ニューヨークは、ロンドンよりもさらに面白かったらしく、そこにも2年くらい住んでいたんですよ。
彼が日本に帰ってきたのが、私が小学校5、6年生のときだから74年くらいかな。そのあとにギャルソンの川久保玲さんだったり、ニコルの松田光弘さん、菊池武夫さん、ヨージ・ヤマモトさん、KANSAIさんが、日本人デザイナーとしてオリジナルブランドで海外で勝負しはじめて、逆輸入ブランドみたいになった時代ですよ。
叔父は、そんなひとたちのなかで遊んでいたみたいなんです。
その時にポール・スミスさんとかバーニズさんとかとも仲良くなったみたいですよ。
泉|ポール・スミスさんはネクタイからブランドを始められたんですよね。
吉田|そうです。その時代に創刊したのが、雑誌『ポパイ』なんですよ。
泉|洋服だけではなく、カルチャーシーンにも目を向けたという雑誌でしたよね。
吉田|そうそう!私が中学生くらいのころです。
それこそスケードボードからピンボール、もちろん洋服もね、アメリカのカジュアルをすべて紹介していたのは『ポパイ』でしたからね。私たちの世代は、全員、『ポパイ』にはすごく影響を受けたとおもいますよ。『ポパイ』が創刊したときに、グリッパーというシリーズをニューヨーク・コレクティブに出展したんです。
カバン以外のカルチャーは、克幸から学んだし、すごく影響を受けましたね。いまでも、叔父のようになりたいと思っていますよ。
泉|カバンのことでないにしても、克幸さんのようになりたいということですか?
吉田|そうです。
最初は、家の跡継ぎになろうみたいな考えはなかったんです。叔父がいなかったら、たぶんいまの仕事をやっていないですね。
彼は、グリッパーシリーズをつくったり、ほかにもやっていたことは本当にカッコよかったし、面白いことをやっていましたね。
セレクトショップとしてははじめて"ビームス"にカバンを卸すことになったのですが、それも彼がいたからです。当時、ビームスはまだ小さいお店で、いまのユナイテッドアローズの重松 理さんが店長をされていましたよね。そういうセレクト ショップとかが、リュックサックとか、彼のつくったカバンを置きはじめてくれたんです。
でも、グリッパーシリーズは最初、他の卸店舗のみなさんは「戦争にいくの?何コレ?」みたいな認識だったみたいですけれどね。
だけど、海外のバーニーズさんとかビームスさんとかが、きちんと認めてくれたんでしょうね。
あとはタンカーですね。いまはあるのが当たり前になっていますけれど、当時、日本にはまったく入ってこなかったMA-1ジャケットの生地をつかって克幸がバックにしたんですよ。
泉|グリッパー、タンカー、ライナーのラインですね。
吉田|それらは生地も金具もファスナーも、当時の日本にはなかったものなんですよ。それをオリジナルでつくったわけです。
泉|晃務さんは、どういうキッカケで会社の仕事を継ごうとおもったのですか?克幸さんに誘われて入社したわけですよね?
吉田|そうです。
自分の意志というものを、叔父が"もたせてくれた"んです。最初、克幸が海外の出張のときについていったのですが、向こうではひとりでブラブラしていたんです。それが──こんどは80年代ですね(笑)。
泉|ヨーロッパに行かれたのですか?
吉田|ヨーロッパとニューヨークです。でも、それは入社前の話です。私が、ニューヨークに行ったころは、キース・ヘリングとか、ジャン・ミッシェル・バスキアとか、アノ時代なんですよ。
リーバイスのデニムも、古着屋とかフリーマーケットとかで、まだやすく買えた時代です。古い物と新しいものとの両方が見れた時代でしたね。音楽はHIP HOPでしょ。キース・ヘリングの"POP SHOP"もできたばかりのころで、ちょっと変な
組み合わせのお店でしたね。そういうのにすごく影響されちゃったというか。
自分でまだものづくりとかデザインとかをしていないけれど、やり方を教わった時代でしたね。
泉|日本と海外の時差がリアルタイムになりはじめたころの時代ですよね。
吉田|私たちの時代と、泉君の時代とはまたすこしちがうんだろうね。
泉|私の場合は、たまたまマセていて、晃務さんたちの世代の方々にすごくあこがれていて、その世代の人たちと遊ばせてもらっていたギリギリの世代だと思うんです。だから、リアルタイムじゃないのに、そういう人たちに感覚としてギリギリ触れてるという感じですかね。
吉田|なるほど。私は、泉さんの"ものづくり"のやり方で、(古い感覚と新しい感覚の)ミックス感がすごく好きなんですよ。
泉|ありがとうございます。
新素材のゴアテックスと古くから定評のある生地をくみあわせてみたり、アートと音楽をくみあわせたり、いろいろとミックスさせるのが好きなんです。キース・へリングの"POP SHOP"の感覚とおなじなのかもしれません。ご縁があって、私にとってあこがれだった吉田カバンさんとバックとかをつくらせていただいていることに、ただただビックリしています。
吉田|泉さんとの出会いもそうですけれど、ご縁があって私のまわりにいろいろな人たちがいてくれるんです。それが吉田カバンの生命線かなと思いますね。でも、過去の吉田もおなじような感じですすんできたのかもしれません。
泉|経験や知名度、世代がちがってもいろいろな融合ができますよね。
吉田|私はカバン以外のことはできないんです。だけど、カバンのことばかりやると当然煮詰まっちゃうわけですよ。だから、ぜんぜんちがうジャンルの人たち、たとえば泉さんもそうですけれど、そういう人たちと交流すると私たちがカバンにもとめている価値観とはまったく別の価値観が自分のなかに入ってくるじゃないですか?だから泉さんとは、逆に私の方が勉強させていただいている感じです。
泉|私の方はより文化を通じて時代感を残せるものをつくれるよう、敬意の気持ちで御伴させて頂いています。今後、私たちがやれることはなんでしょうか?
吉田|プロジェクトとか企画は、後世にのこしていかないといけないなという考えはあります。泉さんたちの世代は、環境問題とか資源の問題があるから大変ですよね。うちもオーガニックもやってはいるんですけれど、「これは化学染料なの?」とか言う人がいるじゃないですか?もちろん、全部はなかなか無理なわけですよ。産業を全部なくすというか、原始時代に戻るしかないじゃないですか(笑)。トヨタも全車がハイブリットカーかというと、そうではないですしね。
ただ環境的なことを考えてオーガニックコットンをつかうことが、次の世代に多少なりでも変わればいいかなとおもいます。
泉|そうですよね。それでは最後にこれからの目標というか、ひとことをお願いできますか?
吉田|そうですね──。
あまりスタンスを変えたくないというか、ブレたくないですよね。
結局のところは、『一針入魂』ということです。
吉田晃務(よしだ こうむ)
1987年吉田カバン入社。
大手企業とのコラボレーションほか、定番シリーズのPORTER SMOKY、CONDITIONなどを手がける。05年秋冬では、PORTER TANGO BLACKのほかPORTER MAGNUMもデザイン。
ファッションブランド"MINOTAUR"のアーバンライフ ライン"MUG"の商品は
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