イラストレーターとパリの五月 番外編「新しいことはいいこと、なのか。」(1)
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2015年4月13日

イラストレーターとパリの五月 番外編「新しいことはいいこと、なのか。」(1)

イラストレーターとパリの五月(番外編)
新しいことはいいこと、なのか。(1)

新旧論争というのがありまして、現代人と古代人とか、文明人と野蛮人とかを比較してみて、やれどちらの方が進歩しているの、どちらの方が賢いの、どちらの方が歌がうまいのとやる論争なわけですが、17世紀あたりからヨーロッパでは非常に流行しました。

聞くところによると、江戸時代の日本人は物をとっても大事にしていたのだそうで、茶碗が割れたり、服が破れたりすると、それで捨ててしまったりはしないで、ちゃんと修繕して、もしも修繕できないときは別の形でもって再利用してとやっていたそうですが、そういう話を茶碗を割ってしまったり、服が傷んで、そのうえ、流行おくれになってしまったと思ったりした時に、ふと思い出したりもするわけです。

江戸時代ならよかったのになぁ、などと思うと、それは自分ひとりで論争というのも大げさですが、江戸時代に生きたこともないのに、昔はよかったなぁ、程度には思うものですが、しかし、じゃあ本当に、今から江戸時代に暮らせればそれが良いいのか言われれば、そうとも言い切れないのです。

いまさら携帯電話もインターネットも飛行機もない時代に暮らせといわれても、それじゃあ待ち合わせも面倒だし、オウプナーズも見られないし、船酔いはしたくないし、色々と不都合があるわけです。

新旧論争というのも大体、そういった感じで玉虫色の結末を見たということになっているわけですが、19世紀のフランス芸術界にもそんな話があります。

interview&text by SUZUKI Fumihiko

イラストレーターとパリの五月(1)=フィンランドの話

彼の美術論が芸術史を変えた

19世紀、ヨーロッパには市民革命、産業革命の荒波が押し寄せました。王政は崩壊しては復活し、多数決がのさばり、皇帝は現れ、議会は左右にも上下にも斜めにも割れ、あるいはくっつき、バブルが来れば、格差社会もやって来る。
新興宗教は運河を開き、植民地から象が運ばれてくれば、神様は後光を落っことし、その上を蒸気機関車は爆走し、馬車は横転する。排水管はつまり、デパートは建ち、夜はガス灯に照らされました。

あらゆる分野で新しいものが生まれ、古いものとまぜこぜになれば、「果たして、斬新なものはいいものなのか。それとももっとコンサバな方がいいのか」
そんな話題も、かなりの度合いで身近なものだったのではないかと予想されます。

芸術で言えば、ロマン主義と古典主義がこれにあたって、古典主義は、古典古代の芸術を、芸術の典とし、その理想的なありようを追及すべしと唱えます。

ロマン主義はというと、それに対して、現代をもっぱら参照すべしと言う。もっぱらといいながらも、ついつい勢いあまって、古代じゃなければとりあえずよしということなのか、中世がよかったといってみたりもするのですが、芸術史を概観すれば、このケンカに勝ったのは概ねロマン主義の側で、芸術とは古代の神様を神々しく描いてこそ理想的で価値があり、それこそが本当の芸術で、そのためには云々かんぬん……といった主張は以来あまり聞かれなくなります。

詩集『悪の華』で知られるボードレールは1821年生まれで1867年没。激動の時代の真っ只中を、19世紀の首都、パリで生きたのですから、もちろん、こういう問題を黙って見過ごすわけもありません。

晩年、自らの美術論の集大成ともいうべき一編『現代生活の画家』を著し、巨大な問題提起をしました。彼の美術論が芸術史を変えた、というようなことまで言う人もいます。今回はこれを少しだけ紹介してみようかと思うわけです。

ギースのどこがそんなにいいのか

この著作のなかで、ボードレールが現代を代表する画家として論じるのが、コンスタンタン・ギースという名のイラストレーター。
なぜ、イラストレーターが画家として扱われ、それほどまでに重要だということになったのか。そんなことを言い出すと、もうすでに喧々諤々の論争が待っています。

「ボードレールは晩年、画家のマネをひいきにしていた。理論家のボードレールが提唱する現代の芸術、そしてその理論を実践するマネ。そんな関係を思えば、『現代生活の画家』で取り扱われてしかるべきは、ジャーナリストだかイラストレーターだかのギースなんかではなく、マネの方であるべきだったんじゃないのか」とある人が言えば、「いや、そうじゃない。ギースだからこそ重要なんだ」とまたある人が応じる。「いや、これはギースを語る体裁をとりながら、実はマネに語りかけているのだ」「いやむしろ、マネでもギースでもなくもっと別の人物を扱うはずのところだったのだ」……。

ところで、当のボードレールはといえば、「私は十年の間、生まれついての旅行好きであり、世界の住人(コスモポリットな人物)たるG氏と、知り合いになりたかった」

「読者の皆様は、はたして当代のもっとも強力な筆によって描かれたあの一枚の絵画 ―― そう、これはまさに一枚の絵画なのだ ―― を覚えておられるだろうか……」

「本当の話、単なる筆でもって、無数のクロッキーからなる、かくも広大でかくも複雑な詩を訳しだすことは容易ならざることだ……」と、文字通り読めばギースのことを随分と賞賛しているのですから、とりあえずは難しい論争に足を突っ込むのはやめて、ここは素直に、そのまま受け取っておくことにしましょう。

ギースのどこがそんなにいいのか。全体をすさまじく大雑把にまとめて言えば、それは、ギースの絵が今っぽいからいいのだ、となります。

ギースが描いているのは、古代の神様や伝説化した戦などではなく、同時代の、つまり19世紀の娼婦であったりオシャレな男であったり、軍人であったり、馬車であったりするのです。そして、それが重要なのだ、とボードレールはいうわけです。

当時の、ボードレール以外の批評家の口からも、同じような意見は発せられています。
例えば、ボードレールの先輩とも言うべきテオフィル・ゴーチエは、1855年のパリ万国博覧会よりも何年も前から、もはや技術の進歩に伴い、共有されるべき信仰はなくなった。だから画題も多様化している。鉄道や蒸気船にのってやってくる世界各地の風景、産物、美女が絵に描かれて、絵画展の様相も変わった。と言っていますし、そもそも彼らのさらに先輩といえるヴィクトル・ユゴーも、もっと今、ここを描くべきなのだと言っています。

ということは、逆に考えると、今、ここにあるものごとを芸術が表現する、というのが彼らにとっては主張するべき価値のある問題だったと考えられます。なぜでしょうか。

イラストレーターとパリの五月 番外編「新しいことはいいこと、なのか。」(2)

           
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