セルジオ・ピニンファリーナ逝去
Sergio Pininfarina|セルジオ・ピニンファリーナ
セルジオ・ピニンファリーナ逝去
フェラーリやアルファロメオをはじめ、ホンダなど日本メーカーとも縁が深かったカロッツェリア「ピニンファリーナ」の名誉会長、セルジオ・ピニンファリーナ氏が2012年7月2日に86歳でこの世を去った。
Text by OGAWA Fumio
自動車デザインの黄金時代を築いたイタリア人デザイナー
“カロッツェリア”は、馬車の車体製造職人という意味のイタリア語だ。そのカロッツェリアは、製造技術と審美眼とで、自動車の黎明期から、自動車製造とともに歩んできた伝統を持つ。そこにあって、イタリアのカロッツェリア「ピニンファリーナ」は、1930年にセルジオ・ピニンファリーナの父、バティスタが創業、と歴史は比較的浅いが、戦後、急伸する自動車産業とともに大きく発展した。
日本では、日産のために「ブルバード」2代目、「セドリック」2代目、ホンダ「シティ カブリオレ」などの量産車を手がけるいっぽう、デザインコンサルタントとしても活躍。いわば裏でクルマづくりを支えてきた。
ピニンファリーナの評価を確固たるものとしたのは、一連のフェラーリだ。50年代の草創期からボディ製造を手がけてきた。ある時期はスカリエッティと競い、58年の「フェラーリ250テスタロッサ」をスカリエッティが担当すれば、59年の「250GTベルリネッタSWB」をピニンファリーナが、ということもあった。しかし70年代以降は、ごく少数の例外を除いて、ほとんどのフェラーリはピニンファリーナのスタジオから生まれている。
今回の訃報に接して、フェラーリのルカ・ディ・モンテゼーモロ会長は、下記のように述べている。
「セルジオは、われわれフェラーリにとって、特別な存在です。彼の名は、フェラーリの歴史と成功から切り離すことはできません。セルジオは、イタリア文化への信頼と素晴らしさを世界中に広めた、 もっとも重要な『メイド・イン・イタリー』の提唱者でした。彼は、これまでコンフィンドゥストリア(イタリア経団連)の代表、議会と上院の終身メンバーとして活躍し、その役割を果たしてきました。彼について、伝説となったフェラーリとの関係を述べるだけでは不十分でしょう。エンツォと共に、後には私とともに、『テスタロッサ』や『エンツォ』をはじめとする、フェラーリのもっとも象徴的なモデルをデザインしました」
ピニンファリーナはイタリアの伝統にのっとって、フェラーリの車体をアルミニウムで作った。70年代までのイタリアでは、さまざまなカーブをもった木片をアルミ板の裏にあて、表から特殊なハンマーで叩くことで面を成型していくやり方が主だった。それをおこなうのは職人たち。いわゆる「流し」の職人も多かった。そのひとたちをコントロールし、美しい車体を予定どおりに仕上げていく。多分に人間の感覚で左右されやすいやり方ゆえ、統率するピニンファリーナの采配は重要だった。
時代が降って80年代も進むと、セルジオはスタジオのありかたをモダナイズした。製造の自動化を進めるとともに、ピニンファリーナのデザイン力を、コンセプトモデルをつくることで世間一般に積極的にアピールしていった。
なかでも記憶に強く残っているのは、バブル期の1989年に、東京モーターショーで発表されたフェラーリ「ミトス」だ。
コクピットを含むフロント部分と、ミドシップエンジンを搭載したリア部分を別々のマスととらえ、それを入れ子のように組み合わせたミトスは、画期的な美しさだった。量産されることはなかったが、日本をはじめ世界中のデザイナーに衝撃を与えた。自動車メーカーのハウススタジオが力をつけてくる1990年代までは、美しい自動車はトリノのグルリアスコ(ピニンファリーナが本社を置いた郊外の町)から生まれるといっても過言でなかった。
もうひとつ、セルジオの功績として特記すべきは、クルマの発展とピニンファリーナの生き残り、そのバランスを的確に見ていたことだろう。1986年にはあたらしいテクノロジーを主体とした先行開発を手がけるリサーチセンターを設立。シティコミューターのプロジェクトなどを各国の大手自動車メーカーに売り込んできた。メーカーはそのことを明言しないが、じつは、ピニンファリーナが手がけたプロジェクトは、予想以上に、街を走りまわっているのである。