INTERVIEW|佐野元春『Film No Damage』インタビュー
INTERVIEW|佐野元春『Film No Damage』デジタル・リマスター版劇場公開
佐野元春インタビュー(1)
つまらないオトナにはなりたくない。佐野元春27歳、80年代初期の若き情熱を映した奇跡のドキュメンタリー――30年前の7月18日、中野サンプラザホールを皮切りに全国で上映され、それ以後、フィルムが行方不明となり、一度も全編公開されることのなかった“幻”の長編ドキュメンタリー、佐野元春の『Film No Damage』が発掘。デジタル・リマスター版が絶賛公開中だ。音楽評論家の能地祐子が佐野元春に迫る。
インタヴュアー=能地祐子
デビューして2年後の全国ツアー。その名も“Rock & Roll Night Tour”
――長らく探されていた幻のフィルム、『Film No Damage』が見つかった経緯は?
このフィルムが存在するのは自分も知っていたんですが、その原盤がどこにあるのか誰も知らなかった。それが時を経て見つかったということで、とてもうれしく思いました。“どこにあったの?”って訊いたら、レコード会社の倉庫にあったって。なんで気づかなかったんだよって話なんだけどね(笑)。
――青い鳥はすぐ近くにいた、みたいな話ですね。
実際、このフィルムはレコード・メーカーが撮ったのではなく、当時の僕のマネージメントと僕が相談してフィルムに撮ったんですね。その原盤が後に、僕が所属していたレコード・レーベルに移動していたっていう、そういう経緯みたいです。
――このフィルムを撮ろうと思ったきっかけについて聞かせてください。佐野さんは1983年にニューヨークに行くと発表して、その後すぐ旅立ってしまって。ファンの側からすると、何か置き土産のような、お別れの手紙のようなものを残してニューヨークに行ってしまったような印象があったんですけど。
それは間違いではないですね。僕は1980年にレコーディング・アーティストとしてデビューして、これは1983年のライヴのドキュメントということですから、デビューして2年後の全国ツアー。名前が“Rock & Roll Night Tour”。全国30カ所以上を回る大きな規模のツアーでした。その最終公演が東京・中野サンプラザであったんですけど、その模様を(中心に)収録したものです。で、正直に言うと、自分は東京での音楽活動に区切りをつけて、この先はニューヨークに行ってやるぞということを心に決めていたライヴでしたね。当時、27歳。自分の音楽を求めて日本だけでなく“世界”に行くという、そういう気持ちが強かったころです。ニューヨークに行って、もしかしたらそのキャリアが日本でのキャリアを越えて(※=長くなって)、そのまま日本に帰ってこないこともあるかなぁ……という思いもあり。であるならば、日本での最後のコンサート・ツアーをきちんとフィルムに残して、ファンの人たちに見てほしい。そういう気持ちもじつはあったんです。
――そのせいでしょうか。とてもカッコいいし、楽しい映画なんですけど。当時、私は中野サンプラザで映画を見たんですけど、映画の具体的な内容はけっこう忘れているのに、ものすごく悲しかったことをよく覚えているんですね。
ああ、そうだね。すでに僕がニューヨークに行ってしまった後、この『Film No Damage』が全国上映されたということを聞きました。ですから、本人がもういないのに、なんでこんな映画を観せるんだよっていう声はあったかもしれない(笑)。
――なんというか、今生の別れみたいな思いすらありましたからね(笑)。では、佐野さんにとっては、ある種の日本でのキャリアの集大成みたいな思いも?
集大成というよりも、途中経過の報告という感じですね。当時、自分も音楽好きですから、日本の70年代のロック・アーティストたちはどんなだったんだろう? ということを知りたくてね。フィルムか何か残されてないかなって探したんだけど、70年代のロック・アーティストのフィルムはほとんどなかったんですね。当然まだ、今で言うところのミュージック・クリップもなかった時代ですから。米国でいったら、たとえば『ラスト・ワルツ』『レット・イット・ビー』『ウッドストック』といったドキュメンタリーが何か残されているだろうって思って振り返ってみると、まぁ、かろうじて中津川の“全日本フォーク・ジャンボリー”や“箱根アフロディーテ”とかの記録はあったんだけど。内容を見てみるとロック・ドキュメンタリーとしてはあまり起承転結がしっかりしたものではないように、若い自分には思えたんですね。
でも、記録というのはすごく大事だと、僕は思ったんです。なぜならば10代のときに観たザ・バンドの『ラスト・ワルツ』、ザ・ビートルズの『レット・イット・ビー』、ロック・フェスティヴァル“ウッドストック”……そうした記録映画が僕にあたえたインパクトはとっても大きかったんですよね。ですので、自分のライヴ・パフォーマンスも記録して、後のファン、未来のファンに見てもらうため、何か記録もしくは映画のようなものを作ったほうがいいんじゃないか。当時そう思ったんですね。それで『Film No Damage』の制作に入りました。
INTERVIEW|佐野元春『Film No Damage』デジタル・リマスター版劇場公開
佐野元春インタビュー(2)
映画というのはどういう風に作られるのか興味があった
――レコード会社や周囲に作りましょうと言われたのではなく、あくまで佐野さんが主導ではじめたプロジェクトとして?
そう。構成も自分がやって。そして監督には……ロック・ドキュメンタリーの第一人者といっていいでしょうね、井出情児。フリーとしてのキャリアのある経験者。彼に依頼しに行って、僕のコンサート・ツアー最終公演をドキュメントしてくださいって言いました。
――井出さんに依頼したのは、どういう理由で? もちろん、彼は日本のロック・ドキュメントのパイオニアなわけですけど。
たったひとりしかいなかったんです。当時、日本でロック・ドキュメンタリーのマナーできちんとフィルムを撮れるディレクターは彼しかいなかった。
――ほかに選択肢はなかったと?
なかった。
――当時、井出さんやプロデューサーであるイースト&ウェスト・ビジョンの高橋さんといったロック映像の先駆者たちは、フィルム選びから現像から、とにかくあらゆる面でたいへん苦労しながら日本のロック映像の基本を構築していったそうですね。今、この時代からは、その大変さは想像もつきません。
そう。このフィルムが作られたのは1983年。当然、ビデオは普及していなかった時代。ミュージック・クリップという概念もない、日本はまだMTVチャンネルもない。これは16ミリのフィルムで撮りました。今ではビデオ・カメラで簡単に撮れるものだけどね。大きなカメラを抱えて、カメラマンが何人もコンサート・ホールの中を行ったり来たりして。
撮影も大変でしたけど、フィルムの編集も大変でした。僕と、プロデューサーの高橋さん、そして井出情児。この3人が当時の編集スタジオにほぼ1カ月間、週末を除く毎日、編集作業をやりました。
――1カ月! 佐野さんご自身もずっと?
ていうのは、映画というのはどういう風に作られるのか興味があったので同席させてもらって。しまいには僕も自分で編集するようなことになったんですけど(笑)。たったの1時間10分くらいの映画に、1カ月間もの編集時間がかかったんですね。
――いいことでも悪いことでもあるんですが、このフィルムがすごいなと思うのは、今になって見ると、とても当たり前の、ふつうのドキュメンタリー・フィルムに見えることだと思うんですね。“ふつう”というのは、当時は誰もやったことがなかったのに、その後みんながこういう作品を作りはじめたことで、今ではあたり前になってしまったという意味で。
そうですね。1983年というのはアナログから後のデジタルに移行するぎりぎりの、最後の時期ですね。たしかデジタルに変わったのが80年代中盤だったと思う。それで、今ならデジタル・カメラやデジタル編集でいとも簡単にできることが、フィルムの時代だからずいぶん手間暇かかったという具合ですね。
少し詳しいことを話すと、Aというイメージと、Bというイメージをクロスしてだぶらせて……クロス・リゾルヴするのも、今だったらソフトウェアを使ってものの5秒から10秒でできるんだけど。昔はスタジオで、この辺のポイントからこの辺のポイントまで……って選んで、デルマーで線を引いて、この間をリゾルヴするってことを現像所に伝え、現像所でいちどそれを試し焼きをして、試写をして……(笑)。うまくいっているかどうかを確認してからつぎに進む、という。その間、1日か2日はかかるという感じでね。
まぁ、そういうプロセスを経て作ったフィルムですから、僕もとても愛着がありますね。当時、レコード会社は“なんでこんなもの作るの?”って言ったんだけど。こういうロック・ドキュメンタリーは、僕が活動をつづける限り、あとになって価値が出てくると思うのでやらせてくださいって。そういうふうに言ったのを覚えてます。
――作品の内容だけでなく、いろんな思い入れがあるフィルムなんですね。
そうですね。僕も先日、見ましたけど。なんか、20何歳の当時の自分に会いに行くようなね。ああ、こんな感じだったんだなと思いました。
あたらしい世界観を日本語のロックに持ち込みたい
――若き日の佐野さん。
1980年にデビューして、それまでにない日本語のロックン・ロールをやってみたいという、そういう思いでいっぱいでしたね。それは、バンドの演奏もそうですけど、とくにリリック。あたらしい世界観を日本語のロックに持ち込みたい、と。それまでの音楽っていうとフォーク、ニュー・ミュージック全盛の時代で、詞の内容はどちらかというと日本特有の私小説的な世界ですね。“僕はこう思った”“私はこうだった”という、個人の心情が描かれるものが多かった。でも、僕をふくむあたらしいキッズたちは、そういう私小説的なものよりも、むしろ街の中で起こっている自分たちの世代をめぐるストーリーが聞きたい、ストーリーを感じたい……そういうあたらしい世代が台頭してきた時期だったと思うんですね。ですので、個人的な心情よりも、何か、自分の友だちがどう思っているのか、彼や彼女がどういう風にこの街で生きているのか、そうしたことに関心をもつあたらしい世代が台頭してきた。
僕の最初の3作品『バック・トゥ・ザ・ストリート』『ハートビート』『サムデイ』、そして『No Damage』もそうですけど、僕の歌の主人公たちはみんな“彼”や“彼女”ですよね。僕がどう思うかなんて、ひとことも歌ってない。彼はこうであり、彼女はこうであり……っていう、そのストーリーを紡ぐことに一生懸命だった。そういうあたらしいコンテキストをもったソングライティングをみんなに聴いてもらいたい、そんなことを、まぁ、意気がって思っていた時代だよね。何かを変えようというエネルギーがすごく強かった。何かを変えようっていうときには、当たり前じゃダメなんですよね。オーヴァー・ザ・トップっていうか、何か、行きすぎた感じ? が必要だった。まぁ、それがロックン・ロールなんだけども。この『Film No Damage』の中の27歳の自分を見てみると、“行きすぎてるな!”っていう感じ(笑)。
――ものすごくがむしゃらで!
うん。そして、エネルギーのかたまり。
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佐野元春インタビュー(3)
今、街で生きている10代、20代の多感な世代にも観てもらいたい
――青春のエネルギーや、青春のせつなさ……今の時代にも通じるものが、スクリーンから伝わってくるのを感じますね。
うん。当時の僕のライヴを観てくださった世代というと今の40代、50代かな。彼らにとっては、この映画がよいノスタルジーであってくれたらいいなと思う。と同時に、10代、20代という限られた多感なころの情熱とかイノセンス、そうしたものがこのフィルムの中に描かれているような気がするんですね。ですから40代、50代に限らず、今、街で生きている10代、20代の多感な世代にも観てもらいたいなって思います。
――私は頭悪い子だったんで、当時はきゃーきゃー言ってただけなんですけど。そのときに佐野さんの歌で聴いた言葉というのは、10年、20年、30年……じわじわ、何かあるたびに当時観たステージとか、たとえば「つまらない大人にはなりたくない」といったフレーズとかが思い出されて。歳をとって、自分が「つまらない大人」になったかどうかを考えさせられたり。何か、自分にとってのモノサシみたいなものを、80年代の佐野さんにもらったまま生きてきた感じがします。
初期の僕の作品にとっては、ラインがいろいろとありますよね。自分も覚えています。今、能地さんが指摘してくれたのは「ガラスのジェネレーション」、その最後のライン“つまらない大人にはなりたくない”。これは、まぁ、言ってみれば多感な世代のキッズたちに“武器”をもってもらいたかったんです。彼らにとってのいい武器であったらな、と。何に対しての武器かっていうと……大人、ですよね。
僕も小さいころよく、教師や親に怒られたんですね。自分がいくら間違ったことをしていなくても、大人たちから「だめ」って言われたらもう、ぐうの音も出ない。なぜならば、僕は言葉をもっていなかったから。大人たちはいっぱい言葉を知ってた。だから、言いくるめられちゃう。それが悔しかったんだな。で、ずいぶん早いうちから学校の図書館行っていろんな本を読んで、大人たちに負けないような言葉を覚えたり、知ったり。そんな子どもだった。なので、初期の僕のポップ・ソング、ロックン・ロールの中で、僕とおなじ思いをしたキッズたちにね、言葉がおぼつかないためにいつも大人からやられっぱなしの子どもたちにとっての“武器”をあげたかったんだよね。“つまらない大人にはなりたくない”、このラインは大人に投げつける最高の武器になったんじゃないかなと思いますね。
――佐野さんのフレーズを、学校の机に彫ったりするとすごくカッコよかった(笑)。
下敷きに書いたり? 曇りガラスに書いたり?(笑)。
――収録されているライヴについてですが。この時期の佐野元春 ウィズ・ザ・ハートランドというのは、佐野さんが映像に残しておきたいと思ったのもよくわかります。ノリにのった、長いツアーを経験していちばんアクティヴな最高の時期だったと思うのですが。
ザ・ハートランド。このフィルムの中でバッキングを務めているのは、僕の初期のバンドですね。彼らとは14年間、一緒にレコーディング、ライヴと行動をともにしました。そして、そのザ・ハートランドのフル・メンバーがここには揃っていますね。伊藤銀次をふくむ編成。ダディ柴田がいる、西本明がいて、阿部(吉剛)ちゃんがいて、そして古田たかしがいて、小野田(清文)がいて……まさに、僕の初期を支えてくれたバンド。デビューして3年目。もう全国ツアーも2回やってますから、バンドのコンビネーションも抜群のときでしたね。それをフィルムで記録として残せたのは、幸運だったと思います。
ザ・ハートランドの本当に初期のありのままの姿がこのフィルムにはある
――今、この時期にあらためて観るザ・ハートランドとの演奏はいかがですか?
とにかく情熱、パワー、ラウド……。ロックン・ロールがすべてあるんじゃないかなと。
――ユーモアも。
そうだね。そう。自分のつたなさをカヴァーするかのようなユーモアも、フィルムの中にある。何か、多感なころの自分がすべてこのフィルムにあるような、そんな気がしました。
――ファンからはステージ上の佐野さんしか見えないし、裏方のスタッフがコンサートを作る様子とか、バック・ステージの様子とか、そういうものをふくめた映像にしたというのは、どういう意図が?
ロック・ドキュメンタリーという様式が、まだ日本にはなかったと僕は思っていたんですね。で、ステージだけではなく、そのステージがどう作られていくのかという、スタッフたちのメイキングもふくめたドキュメンタリーを試みたかったんです。
――楽屋でのリラックスした場面もあったり。
そうですね。ザ・ハートランドの若いメンバーが映っているのも、今観ると不思議な感じですね。ザ・ハートランドは本当に仲良し音楽集団、一回もケンカや諍(いさか)いもなく14年間つづいて、ある日解散しましたけど。そのザ・ハートランドの、本当に初期のありのままの姿がこのフィルムにはある。素晴らしいことだと思います。
――けっこう佐野さんがハダカになってるのでびっくりしました。
昔はよくハダカになってた。何かっていうとね。
――オープニングからいきなり脱いでますし。
そぉだね(笑)。はい、何かってぇとハダカになってました。
――若さですか。
いやぁ、なんだろう、暑かったんですかね。
――今回、映像も音もリマスタリングされたあたらしいフィルムをご覧になった感想は? やはり、かなり変わった印象がありましたか。
まず、現代の技術。デジタル・リマスターによって映像も明るくなりましたし、音も5.1chのサラウンドで仕上がって。僕も試写会で観て、驚きました。で、この音の監修にあたってくれたのが坂元達也。アルバム『サムデイ』を作ったとき、彼はレコーディング・エンジニア吉野金次さんのアシスタントとして働いていたんですね。音は当時のマルチ・テープで録音されていましたから、ミックスをし直しました。やはりテープで録られた音ですから、すごくしっかりした状態で残っていたのが幸いでしたね。そこに現代的な技術を付け加えて、5.1chでの素晴らしい甦りがありました。
――当時とは全然ちがう?
聴き比べればそれはもう、全然ちがうと思います。当時は当時の技術しかないですから、ホールや映画館で上映するときには、まぁ、アナログ特有の少しもこもこした感じや映像の暗い感じはどうしようもなかったと思いますね。それを今、現代的にリマスタリングしたという。現代のデジタル技術の恩恵を受けて甦った、ということだと思います。
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佐野元春インタビュー(4)
これだっていうたったひとつの答えは、じつは僕の中にもなかった
――演出、脚本、佐野元春。
そう。主演も(笑)。まさに僕が作ったフィルムの、いちばん最初の作品といえますね。
――佐野元春のイメージとちょっとちがう、と思ったひともいたのではと。
佐野元春っていうと、堅いイメージが何かあってね。実際の僕はそうではないですから。こんなおかしなことも考えてるよ、というのを伝えたかったというのはありますね。あまり伝わらなかったけど。
――私にとっては佐野さんはアイドルでしたから、「アイドルがここまでするなんて」的なことも思ったり……。
フィルムが公開されたときは、僕はもうニューヨークで音楽をはじめていたんですが。“結局、なぜニューヨークに行くんですか?”って、本当に多くのファンや周りの人たちから訊かれていた。それについて、これだっていうたったひとつの答えは、じつは僕の中にもなかった。いろんな答えが、いろんな理由が僕の中にありました。じつを言うと“どうしてニューヨークに行っちゃうんですか?”という質問に答えるのが面倒くさかったっていうのもあるんです。
――佐野さんらしいですね。ユーモアの中に本音がこっそり……。
そうなんです。下町育ちですから。表は地味なんだけど、裏地に凝るというかね。そんな感じです。
――期間を決めることもなく、突然ニューヨークに行くという発表には本当にびっくりしました。結果的には1年後にアルバム『ヴィジターズ』とともに帰国するわけですが、もしかしたら永遠に日本には帰ってこないのかとも思いましたし。ほかにそういうアーティストっていなかったのでは。
70年代には、たとえばサディスティック・ミカ・バンドが英国に行ってレコーディングをしたりとか、そういうことはありましたけど。現地に住んでふつうに生活をして、その中からレコードを作るといったケースはなかったように思います。
――佐野さんの当時の心境は、どのようなものだったんですか?
正直に言うと、向こうに行きっぱなしになる……かなぁ、と思ってました。当時は。
――今、映像を見ても、たくさんのファンの大歓声を浴びていて。当時の人気絶頂の状況を置いてアメリカに行くという決意がよくできたなと。
僕は自分の人気というのがどれほどのものなのか、全然実感はなかったんですね。若かったですし、自分の音楽……それまでにない、何かあたらしい音楽を作ってファンに楽しんでもらいたい。その気持ちが強かった。すると、国内にいて国内でものを作るよりか、創作の環境をまるきり変えて、そこから生まれてくる何かに期待しよう。と。そういう発想でニューヨークに行きました。
すると当時、偶然にもストリート・レベルで、ヒップ・ホップ/ラップ・カルチャーが炸裂しようとしていた時期だったんですね。1986年にランDMCがメイン・ストリームのチャートで、いわゆるラップ・ソングをナンバーワンヒットにした。「ウォーク・ディス・ウェイ」という曲ですね。その前夜、僕はマンハッタンにいて。時代はヒップ・ホップ/ラップ、これがあたらしいウェイヴとして来るなということを日々、マンハッタンに暮らしながら感じていた。すると、世界各国から僕とおなじような年格好の若い人たちがマンハッタンになだれ込んできて、みんなそれぞれの国の言葉でラップをはじめていた。で、僕も負けじと日本語でラップをやった。
そうすると、みんな、ほかの国の連中は喜んでくれるんだね。“すごく変わってる”って言って。で、そうしたことに夢中になって作ったのが『ヴィジターズ』というアルバム。「コンプリケイション・シェイクダウン」というラップ・ソングが生まれた。で、僕はもう、ずっとアメリカで活動してしまうのかなと思っていたんだけど、まさに『ヴィジターズ』で作り上げたサウンド、そしてそのリリック、これまでの日本にないまったくあたらしいものができたと思った。だから、ぜひ、僕の日本のファンに聴いてもらいたいという気持ちが強くて。それで日本に戻ってきました。
――帰ってきてくれてよかったです。
はい(笑)。
あたらしい世代があたらしい音楽とリリック、表現をはじめている
――この気持ちは、もう、正直、当時の83年を体験してきたひとでないとわからないかも。
そうですね。
――1982年から84年という、本当に短い期間に音楽シーンも大きく変わって。佐野さんにも、わずか3年の間にものすごくいろいろなことがあって。この濃さは本当にすごいです。
今、この『Film No Damage』を観ても、時代の雰囲気を感じ取ることができますね。本当に時間の濃度が濃い、という感じ。日々、何かあたらしいことが起こっている。とくに日本の音楽シーンにおいては、それまでの70年代音楽を経て、あたらしい世代があたらしい音楽とリリック、表現をはじめている。そういう変革のムードがあった。それが82年から84年、85年くらいまでのことだったと思いますね。
――このフィルムの1年後には、ニューヨークからヒップ・ホップのビートをもって佐野さんが帰ってくるわけですからね。
このフィルムに至るデビューからの3年間、アルバムでいうと『バック・トゥ・ザ・ストリート』『ハートビート』『サムデイ』、コンピレーション・アルバム『No Damage』。これは僕が多感なころに聴いてきた50年代、60年代、70年代初期の欧米のロックン・ロール音楽をフォーマットにしたポップ・ソング、ロック・ソングだったんですね。で、アルバム『サムデイ』、そして『No Damage』を作ったときに、そのアプローチは自分の中でひとつ区切りがついた。ここから先はまったくあたらしい何かを作りたい、そういう思いが強かった。そこで作ったのが『ヴィジターズ』でした。
――80年代以降生まれのひとで、80年代っていうのはバブルで華やかで、だけど虚しい時代だったんでしょ? みたいに言うひとが多いんですけど。それは80年代後期の話であって、80年代初めというのは、それとはちがう熱気をもった時代だったんだという。
幸福な時代だったと思う。まだキッズたちが、漠然とはしていたけれど、何か楽しい希望をもてた時代ですね。“いつかきっと”という言葉が何か、その言葉どおりにいつかきっといいことが起こるかもしれないって信じられた時代が80年代前半ですね。おっしゃる通りに、バブル経済によって日本が変わっていくのは80年代中盤以降ですよね。その雰囲気とはまったくちがう、この『Film No Damage』の時代背景は。キッズたちの、イノセントな希望がまだ有効だった時代。そんな中で僕は「ガラスのジェネレーション」や「スターダスト・キッズ」「サムデイ」といった曲を歌っていたということですね。
ロックン・ロールやポップスができることは、そう大それたことではないけれども
――当時のキッズ、今は40代50代になった世代にいいきっかけをあたえられたと思いますか?
そうだね、このフィルムを観て“あ、懐かしいな”と思ってくれる。それは僕にとって光栄なことです。よいノスタルジーであってくれたらいいなと思いますね。あのとき、自分がどこに立っていて、これからどこに行こうとしていたのかっていうことを確認できるような、そういうフィルムであったらいいなと思います。
――このフィルムを観ると、懐かしいのと同時に、今の自分は、30年前の自分が希望していたような大人にはなれなかったなぁという、ちょっとほろ苦い気持ちもよぎります。
ロックン・ロール・ソングやポップ・ソングは必ずしも、まぁ、ニュースのように事実ではないですから。やっぱりそこにはファンタジーがある。ファンタジーがあるから、人びとはそこに何かを求めて聴いてくれる。この構造は昔のポップ・ソングも、今のポップ・ソングも変わりはないと思うんだよね。で、たしかに、昔は“つまらない大人にはなりたくない”って思っていたのに、今の自分を見るとなんとなく“つまらない大人になっちゃったのかな”なんて思うひともいるのかもしれないけど。でも、それは当然のことだと思う。成長、ということですよね。でも、それに気づくということが素敵なことじゃないかなって僕は思いますね。ロックン・ロールやポップスができることは、そう大それたことではないけれども、都市で生活していて、とくに、多感なころから大人へと成長していくなかで、音楽が果たす役割っていうのは、昔も今も変わらずとても大きいのではないかと思います。
――映画の中にいる“27歳の佐野元春”は、今の50代の佐野さんにどんなことを語りかけてきますか?
いっぱい語りかけてくるよね。うん、いっぱい語りかけてきます。でも僕は、なんでフィルムの中でこんなにハダカになるんだ、って思うよね(笑)。27歳の僕はまだ肩幅も狭くて、全然スーツなんか似合ってない、みたいな感じ。そして、りきんでる。自分の理想というものがすぐそこにあるんだけど全然追いついてないので、なにか、トイレに行きたい子どものように焦ってる感じ(笑)。そして、とにかく、身体よりも思いが先に行ってる感じ。でも身体は若いので、それに一生懸命ついていこうとするような、そういう性急な感じ。まぁ、10代、20代であれば誰もがそうだと思いますけど、当時の僕もみんなとおなじように、何か、いい意味でも悪い意味でも空回りしていたなと思います。
――当時の10代にとっての佐野さんは何でも知っていて、何でも教えてくれて、スーツも似合う……ものすごい大人に見えたんですけど。今見ると、じつは、あのころにイメージしていたよりもずっと若かったんだなと思いました。
そうですね。それは自分も感じました。
佐野元春『Film No Damage』
配給|ソニー“Livespire”(ソニーPCL株式会社)
企画|株式会社ソニー・ミュージックダイレクト
制作協力|株式会社エムズファクトリー音楽出版
© 1983 Epic Records Japan Inc.
[2013/日本/71分/カラー/5.1ch]
公開情報
http://www.livespire.jp/movie/motoharusano.html
名盤ライブ開催決定!
日時|2013年11月16日(土)
会場|Zepp DiverCity(東京都)
http://www.meibanlive.com/moto/