Nicholas Taylor a.k.a DJ High Priest インタビュー(中編)
LOUNGE / FEATURES
2015年3月10日

Nicholas Taylor a.k.a DJ High Priest インタビュー(中編)

ニューヨーク80年代の生ける伝説
Nicholas Taylor a.k.a DJ High Priest インタビュー(中編)

つねに新しいものが生まれていた80年代のニューヨーク カルチャー・シーンの最前線で、ジャン・ミッシェル・バスキアやマイケル・ホルマンと組んだ伝説のアヴァンギャルド・バンド"Gray(グレイ)"での活動やヴィンセント・ギャロらとのバンド"The Generation"、さらにいまもなお再活動中のバンド"Death Comet Crew"に参加し、アフリカ・バムバータやジャジー・ジェイとともにDJとして活動、そして初めてスクラッチした白人DJとして名をのこす。
さらに"Gray"でバスキアの鮮烈な時代の瞬間を残したフォトグラファーとしても活動していた、ニューヨーク80年代の生ける伝説、Nicholas Taylor(ニコラス・タイラー)a.k.a DJ High Priest。
カルチャー激動の時代の中心にいた彼に、当時のカルチャーのおはなしとともに、半生をふりかえっていただいたインタビューの中編。

文=金子英史(本誌)Photo by Jamandfix

──それは彼がブラック(黒人)だったからですか?

そうだったのか、もしくは彼のカッコウがおかしかったからなのか、もうわからないですけどね。あの当時はそんな悪いことをしていました。もちろん、いまはそんなことはやっていませんよ(笑)。
それから約1年後にバスキアは、バンド"Gray"を辞めて、ペイントに力をいれはじめたんです。
当時、私はバスキアと部屋をシェアしていたんですが、彼はそのために部屋を出てしまったんです。その後は、マイケル・ホルマンが私の部屋にきて、シェアしはじめました。

マイケルはその頃、イースト・ヴィレッジで『ズールー・ネイション』のDJパーティのオーガナイズをしはじめたんです。『ズールー・ネイション』とは、音楽プロデューサーの"アフリカ・バムバータ"が主宰する、DJのジャジー・ジェイやクール・ハークなどが所属していたヒップ・ホップの"アンチ・バイオレント・オーガニゼーション(プロダクションみたいなもの)"のことです。
彼らのパーティをクラブ『ネグリル(NEGRIL)』というところで、毎週木曜日の晩にやりはじまたんです。それが、マイケルがプロデュースしたいちばん最初のパーティでした。

ちなみに『ネグリル』とは、イーストビレッジの12stの2ndAveにあったレゲエバーで、ジャマイカの街の名前です。
そのパーティのオープニングのときに、わたしは初めてDJをしたんですよ。その時にいっしょにDJをしたのが、さきほどはなしたクール・ハークとジャジー・ジェイとアフリカ・バムバータたち。それは、バムバータにとってもダウンタウンでのはじめてのパーティで、ダウンタウンではいちばん最初のヒップ・ホップ パーティでした。そのときに、バンド"デス・コメット・クルー"のMCをやっているラメルジーともはじめて出会いましたね。

そこでは、いまや伝説のダンスチーム、"ロック・ステディ・クルー"や、"NYC(ニューヨーク・シティ)ブレイカーズ"も踊っていました。
マイケルはそれとおなじくらいのころに、"NYCブレイカーズ"のマネージングをしはじめて、歌手の"ハリー・ベラフォンテ"がプロデュースした『ビート・ストリート(BEATS STREET)』という映画に出演させたり、『グラフィティ・ロック(Graffiti Rock)』というテレビ番組をプロデュースしはじめました。でもある日、『ネグリル』のマネージャーをしていたクール・レイディ・ブルーが、マイケルのパーティーをマイケル抜きで、勝手に『ロキシー(The Roxy)』に持っていってしまったんです。そのときのマイケルは、とても悲しんでいました。もちろん、その後も"NYCブレイカーズ"のマネージングや『グラフィティ・ロック』のプロデュースは意欲的にやっていたんですけれどね。

まだ『ネグリル』でマイケルがショウをやっていた頃に、私はテープ・ループを使いはじめたんです。テープ・ループとは、20本分のカセット・テープのテープ部分をつなげて、DJブースいっぱいに一周させて、またプレイヤーにもどるようにしていたという物なんですが、そうやってできたループ・ビート(おなじ音やビートが繰り返されていること)に、私はスクラッチを入れていたんです。

クール・ハークとジャジー・ジェイ、バムバータの3人が目を見張って、「いったいどうなっているんだ!?」っておどろいていましたね(笑)。とくにジャジー・ジェイには、テープがつながっていることが見えなかったらしく、
「何だよ、それ!テープが機械に吸い込まれていくけれど、テープの先はどこに行くんだ?」
って、大騒ぎしていましたよ(笑)。
バムバータにおいては、「何だこの白人は??」みたいな感じで、僕のことを見ていました(笑)。

ニューヨーク80年代の生ける伝説<br>Nicholas Taylor a.k.a DJ High Priest インタビュー(中編)

──スクラッチはいつくらいからやりはじめたのですか?

マイケルの最初のパーティから、次の週くらいのときからですね。
初日に、クール・ハークとジャジー・ジェイがスクラッチしていたのをマイケルと見ていて、次の日におなじレコードを2枚買って、部屋にあった2台のターンテーブルで練習したんですよ。そのあとも、黒人のラッパーで音楽レーベル『ロキシー』からレコードを出していた"PHASE 2"や"Fab 5 Freddy"が、よくわたしのアパートに遊びに来ていたのですが、彼らからもスクラッチのテクニックをいろいろ教わりましたね。
じつは、いまでもバスキアやマイケルとシェアしていたその部屋に住んでいるんです。バスキアが転がり込んできたときは、壁とか棚とか、いろんなモノにペイントしまくっていましたよ(笑)。

─いまも部屋のなかにはペイントが残っているのですか?

建物自体がかなり古くなったので改装してしまって、いまは残念ながら残っていないんです。だけど、入り口の鉄のドアにペイントしてあったものと、彼が壁に書いた『クレブラ』という文字の部分は、その部分だけくり抜いて飾っています。『クレブラ』とはプエルトリコのちかくの場所なんですが、バスキアが旅行に行こうとして、旅行会社の人と電話で話をしていたときに、そこにメモをしたんですよ(笑)。

"PHASE 2"や"Fab 5 Freddy"、あとその他の友人たちが家にきたときは、「なんてクリエイティブな部屋なんだ!」って言っていたのを覚えています。なぜなら、ハズキアやマイケルをはじめとしていろんなクリエイティブなヒトたちが毎晩あつまって、あたらしい"何か"を考えていましたからね。それに2台のターンテーブルとマイクがあったから、友人のラッパーたちがラップを練習しに来ていたりして、まさにビック・ジョイントな部屋でしたよ(笑)。

その頃に、"デス・コメット・クルー"のメンバーのステュワート・アーガブライトとも出会ったんです。当時、彼は"ドミネートリクス"というヒップホップ バンドをやっていたのですが、そのバンドがメジャーレーベルでナンバーワン ヒットをさせたんです。突然、スーパースターになっちゃったから驚きましたよ(笑)。友達のなかではいちばん売れッ子でしたね。
ドミネートリクスの活動のあと、彼は他のバンドもつくりたくて動いていたんです。そして、ギタリストのマイケル・ディークマンと、ベーシストで日本人のシン・シモカワ、そして私がDJの"デス・コメット・クルー"を結成したんですよ。
シンは、そのころにはすでにニューヨークに5年か10年くらい?住んでいましたね。

(後編へつづく)

Nicholas Taylor a.k.a DJ High Priest
(ニコラス・タイラー/DJ ハイ・プリースト)

DJ/フォトグラファー。
あのジャン・ミシェル・バスキアやヴィンセント・ギャロ、マイケル・ホルマンなども所属していたニューヨークのアヴァンギャルド・バンド、『GRAY』のメンバー。また80年代後半に活動し、今も精力的に活動を行っている知る人ぞ知る伝説のノーウェイヴ/ヒップホップバンド、Rammelzee(ラメルジー)も所属している『Death Comet Crew』のDJ/ビートメイカーでもある。
そしてN.Y.C.ブレイカーズのDJ、はじめてスクラッチをした白人DJ。
さらにフォトグラファーとしても活動するなど様々な"顔"を持つ、『ニューヨークの生ける伝説』とよばれる男。
http://www.djhighpriest.com/

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