島田 明|Life is Edit. #022 お金はないけど夢がある街、ベルリン
島田 明|Life is Edit.
#022 お金はないけど夢がある街、ベルリン
ひとりのヒトとの出会いによって紡がれ、生まれるあたらしい“なにか”。
ひとつのモノによって惹きつけられ、生まれるあたらしい“なにか”。
編集者とは、まさにそんな“出会い”をつくるのが仕事。
そして人生とは、まさに編集そのもの。
──編集者、島田 明が、出会ったヒトやモノ、コトの感動を紹介します。
今年も数多くの旅に出、多くの人に出会いたいと願うわたしを待っていたのは、 年始のニューヨークにつづき、初めてのベルリン、そして20代に足繁く通ったパリでした。 今回は、そこで出会った素敵な人々、そして懐かしい匂いのする街並みのお話を。
文=島田 明
バウハウス建築に絶句!?
「ベルリンに行った方がいいよ」
旅慣れた友人が、そう言っていました。それもひとりでなく、数人が。
ベルリンには、アートがあって、音楽があって、自由な空気があって、活気がある。
そして、その友人たちの助言は、正解でした。街の息吹に、これだけ興奮したのは久しぶりのことです。しかも最低気温が氷点下13度を記録するなかでの大興奮(笑)。まさに寒さを吹き飛ばす熱さを、ベルリンという街で確実に感じたのです。
まずわたしを魅了したのが、バウハウスの建築群でした。
今回は、ヒューゴ ボスの招待としてのベルリン訪問。雑誌『UOMO』のなかでつくりたかったのは、バウハウスと近代デザイン、伝統とモダンの混在から生まれる新しさでした。そのたっての希望を聞いていただき、氷点下のなか、バウハウス建築の撮影ハシゴをロンドン在住のカメラマン、黒坂明美ちゃんと行った、というワケなのでした。
なんか妙に男心をくすぐるんですよね、バウハウスって。童心に返って無邪気にも「カッコイイ!」って街頭で絶叫しちゃったくらい、もうデザインにやられっ放しでした。ナチスが、このデザインを巧みに使って人々を扇動したっていうのも頷けます、だって本当にカッコイイんですもの。
1928年に建てられたHeute:Hotel Londengeschafteというホテルは、もう完全に外側は共産圏! という風情ですが、中に入ると、スーパークリーン&モダンで、そのギャップにやられました。現地の人にあとで聞いたら、やたらと廊下が長くて角部屋はスーツケースを長い時間運ぶ羽目になるから泊るときは要注意、だそうです(笑)。
1933年に建てられたHohenzollerdommという教会は、外観は巨大な発電所のようなごっついバウハウスの感じですが、エントランスは演出バッチリの、思わず手を合わせたくなるような荘厳デザイン。中に入れなかったのは残念ですが、中から漏れてきた音は、オーケストラの練習をしていたらしく壮大な生音の交響楽。小雪舞い散るなか、じつに知的なドイツ風情を盛り上げてくれました。
1930年に建てられたバウハウスの建物のなかで、それ以来営業をつづけているEnickHamannというチョコレート屋さん。店の人にバウハウスのことを聞いてみると「何、ソレ?」って感じで、どうやら知らないみたいです、この建物のデザインのこと(しっかりバウハウスのガイド本には出ていまたが)。でも、その素っ気なさ、生活の延長線の感じに逆に好感を覚えたりしました。
まだまだ見るべきバウハウス建築はベルリン市内に点在しているようですがわずか2時間ほどのショート&ショートなバウハウス建築のハシゴにもかかわらず、こんな興奮できるとは、恐るべしベルリン! って感じです。
もちろん、ノーマン・フォスターなどが手がけた近代建築も混在し、その新旧揃い踏みも興味深いものでした。しかもベクトルは違えど、どちらもデザインとして違和感なく街で引き立て合っている。そんな街の風景はほかの国ではめったにお目にかかれません。
ストリートアートの山々にまた驚愕!?
ベルリンには、多くのアーティストが世界中から集まってくるそうです。
理由はまず家賃が安く、物価も安いから。10万円あれば、なんとか暮らしていける、と現地の人も言っていました。
そしてキャンバスが街のいたるところにあるから、です。要は街の壁や道路がまるまるキャンバスになっているのです。かつてのニューヨークには、ウォールアートがたくさんありましたが、美観を損ない、治安が乱れるという理由から公的規制が入り、結果、ストリートの表現者の多くが作品発表の場を失いました。ベルリンには、その自由に表現できる壁や場所がいまだに数多く残っている。それがベルリンのアートが熱い理由のひとつです。
かつてバスキアやキース・へリングなどのアーティストがニューヨークから生まれました。しかし、もはやニューヨークではなく、ベルリンから生まれて出る可能性が高いのでは、と滞在中はずっと思っていました。世界のアート市場的に見ても重要な街であることに違いありません(ゲルハルト・リヒターもいるし)。
その典型的な場所が、Galerie Tachelesという場所です。聞けば古い建物(元学校?)をアーティストたちが不法占拠して居座りつづけて作品をつくりつづけ、いまや市も諦めたのか? もうヤリタイ放題となっていて、いまやベルリンの立派な観光名所になっておりました。こんなこと、許されるのはまさにベルリンのおおらかさゆえ。懐が深! って感じですね。
そこに暮らす人々、洋介さんとの出会い
今回も旅を通じて、素敵な人たちに出会えました。
ベルリンに着いた、その当日。黒坂ちゃんの友人でベルリンに住んでアートを学んでいる、という松任谷マリちゃん(じつは彼女の伯父は松任谷正隆さん)と一緒にご飯を食べたのですが、ベルリンって街の本当の部分、とくにアート学生のリアルライフはどうなってるんだ? ってことで、食事もソコソコに切り上げ、友人3人とルームシェアするというマリちゃんのお宅に突撃訪問(笑)。で、そこでわたしたちを待っていてくれたのはニューヨークから着たマリちゃんの同居人、DJを生業とするElieさん。そんな彼を交えて、「なんでいま、ベルリンに来たの?」みたいなわたし自身の素朴な疑問やアート、音楽にかんして朝まで討論会、みたいな感じで夜も更けていき(笑)。
マリちゃんとElieさん。ふたりに共通する意見だったのは、まずベルリン特有の自由な感じが最高で(とくに6月!)、アートや何か新しいモノを創造するには非常に適した場所であること。バーは客が帰るまで、ずっと付き合い営業しているし、電車も24時間運行だし、非常に親切&コンビニエント。適度に田舎、適度に都会、ってことも落ち着くし、その街全体を覆う空気感がいい感じ、といったものでした。
そして、彼らがとてもベルリンを愛している感じがヒシヒシと伝わって。あまり自分の住んでいる街を手放しで褒める人って案外少ない、ですよね。そういう意味で、ベルリンという街の貴重さを感じました。
そして、5年越しで会いたかった人に出会えました。
それが、西海洋介さん、その人です。
5年前、ニューヨークのブルックリンにISSAという店がありました。その店で知り合い、友だちになったMASAくんが僕に言ったことと、昨年末にニューヨークで一緒に遊んだKENくんが僕に言ったことは、偶然にも同じで──。
「ベルリンに面白い人がいるんですよ。その人、島田さんと波長が合いますよ、きっと」。
それが洋介さん、でした。
前述の廃屋ギャラリーでレイブパーティーをオーガナイズしたり、オニツカタイガー・ヨーロッパのアドバイザーをしている洋介さん。わたしたちが彼に会いに行ったのは、ベルリンファッションウィークに合わせて古いタバコ屋を一時借りて改装した、結構ヤバい? エリアにある店でした。日本の駄菓子やオニツカの靴やカシオの時計や日本の写真集などを並べ、カウンター越しに日本酒の熱燗を出す、といったこれまた昭和的? なジャパン・コンセプトショップ(笑)。最初の出会いから、じつにユルくて、洋介さんの印象そのままでじつに楽しく(笑)、MASAくんとKENくんが言っていたことが初対面から納得です。僕の目下のテーマである“ボヘミアン”、まさに洋介さんは、そんな人でした。
類は友を呼ぶ。
僕は、まだまだ自由にはなりきれていないけれど、ボヘミアンな人や街が発する自由な空気には強烈に惹かれつづけています。
それは国境を超え、人種を超え、性別を超え、世代を超え繋がっていくもの。
それを、またベルリンで感じることができました。
栗野さんが言い当てたベルリンという街
ベルリンという街にいたのは正味3日間だけでしたが、寝る暇を惜しんで動き回り、数多くの人に会ったせいか、濃度が高くて、地元の人からも「よくぞ、そんな短い間に!」と驚かれるくらいベルリンを堪能しました。
その後、コレクションのため、パリ入りしましたが、ベルリンでの興奮冷めやらず、ドリス・ヴァン・ノッテンの展示会でお会いしたユナイテッドアローズの栗野宏文さんに、真剣に買い付けされている最中にもかかわらず(失礼しました・汗)、わたしのベルリン話を振ってみたら、栗野さんも、ベルリンのもつエネルギーに関心があったそうで、一言で、この街を、こう表現されていました。
「ベルリンっていう街は、なんか
金はないけど夢はある、っていう感じなんだよね」
わたしは、その表現を聞いて、大きく頷いてしまいました。
街中に数多く残るアナクロニズム的なデザイン、人のおおらかさ、夜遅くまで灯るバーやカフェの蛍光灯でないほの暗い灯り、そして、出会った日本人全員がベルリンは楽しい! と笑顔で語る幸せの連帯感。それはわたしにとって、とても居心地がいいものでした。
金はないけど夢がある。
それは、ある意味、日本の昭和にあった気がします。
昭和という時代には、なにかワクワクする夢のようなものがありました。
子どもながら明るい未来が、我々を待ち受けているような気がしたものです。
あのころには、もう戻れないけれど、ベルリンには、あの時代の匂いを感じることができる。
ドイツ出身の映画監督、ヴィム・ヴェンダースもアメリカに別れを告げ、ドイツに戻った、という話も数年前に聞きました。
小雪降るなか、空港に向かうタクシーの中からジーゲスゾイレ(戦勝記念塔)の天使を見上げながら、きっといまも旅をつづけているボヘミアンなヴィム・ヴェンダースを思い、ちょっとセンチになったわたし、でした。