第48回 ファッションデザイナー RYUZO Nakata×M.Y.LABEL 吉田眞紀 対談(1)
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2015年5月11日

第48回 ファッションデザイナー RYUZO Nakata×M.Y.LABEL 吉田眞紀 対談(1)

第49回 ファッションデザイナー RYUZO Nakata×M.Y.LABEL 吉田眞紀
「デザインは瞬発力?」(1)

対談の第二弾は、フランス在住のファッションデザイナー、RYUZO Nakata氏です。
スパンコールやスワロフスキーなどの装飾がほどこされた「ビジュー・デニム」(BIJOUX DENIM)のパイオニアでもあるRYUZO氏とは、パリでも東京でも、機会があれば一緒においしいお酒を飲み語り合う、気のおけない友人でもあります。
今回は、RYUZO氏がファッションの道へ進むきっかけとなった、多感な幼少期のエピソードなど、はじめてうかがう話が満載の楽しい対談となりました。

まとめ=戸川ふゆきPhoto by Jamandfix

南仏ニースで生まれたRYUZO NAKATAの「ビジュー・デニム」

吉田眞紀 お久しぶり。あいかわらず今日も半袖だ(笑)。

RYUZO Nakata パリはオール・セントラルヒーティングで、室内はあったかいの。生まれ育った北海道の家もセントラルヒーティングだし。だから冬でもいつもこんな感じかな。

吉田 たしか、はじめて会ったときも毛皮のロングコートの下は、タンクトップだったような……(笑)。

RYUZO あれ、そうだったっけ? 当然……。

吉田 もともとRYUZO君は兄貴(ファッションデザイナーの吉田十紀人氏)の知り合いで、僕がはじめてパリの展示会に出展したときに紹介してもらって、それ以来、パリに行くたびに毎晩遊んでもらってるんだよね……。お世話になってます。ところで、パリはもう何年?

RYUZO こちらこそ、東京ではありがとう。パリは……28年目かな。最初は東京のファッション専門学校の校長の紹介で行ったんだけど、語学学校に登録だけして、次の日からイギリスの生地屋がパトロンで、紹介されたイタリア人とTED LAPIDUSの息子がつくった会社へ行って、コレクションをつくることになったんだよ。……モノをつくるのに言葉は関係ないんだよね。

吉田 はじめからレディースの洋服をつくっていたの?

RYUZO いや、そこはメンズだった。好きな生地を勝手に使って、勝手にパターンをつくって、勝手に縫って。で、良かったらコレクションで使ってくれていたんだ。

吉田 それじゃ、ウンガロに移ったのはいつ?

RYUZO  それから2年、いろんな会社の仕事をしたけど、いよいよ帰りの飛行機代しかなくなっちゃって。どうせならと思って、自分のデザイン画を持って、モンテーニュ・アヴェニューのオートクチュールを端からあたったんだ。それで、デザイナー本人がいて会ってくれたのがウンガロだった。デザイン画を買ってくれるのかな? と思ったら、ウンガロ本人が雇ってくれたんだよ、その日に。で、部屋をくれて、翌日から仕事をはじめたんだ。

第48回 ファッションデザイナー RYUZO Nakata×M.Y.LABEL 吉田眞紀<br><br>「デザインは瞬発力?」(1)

RYUZO Nakata氏

吉田 そうだったんだ。で、それからウンガロでチーフまで勤めて18年。

RYUZO そう。それから毎日、ひたすらデザイン画を描いてた。1コレクション分だけで600枚は描いていたかな……? 1年に6つのコレクションがあったから年に3000枚は描いていたってことか。同時にウンガロとの仮縫いが毎日あって……。

吉田 それから独立したんだ。

RYUZO 会社買収などがあって面白くなくなってきたので、ウンガロを辞めて、1年近く南仏のニースやカンヌでヴァカンスをね……。

吉田 えっ? それはなんと優雅な……!(笑)。

RYUZO ははは。……南仏でのんびりしながら絵でも描こうと思って。キャンバスも持っていったんだけど、デニムに描いたら面白いかな……? と思ってね。で、その絵を日本の友達に見せたら「送ってくれ」って言うもんだから。

吉田 ニースでデニムに絵を描いて、日本に送ってた……。

RYUZO そう。そのデニムを友達がショップに置いたら売れちゃってね。「どんどん送れ、送れ」って頼まれて。そのうちに、ペイントのほかに、デニムにキラキラの石をつけてみたりして。

吉田 ……それが、「ビジュー・デニム」のはじまり……?

RYUZO そういうこと。でもなんか、規格にはまるのが嫌なんで、いろいろ面倒じゃない? 「この石の位置がちがってます……」とかいわれるの。だから工場には出さないで、それ以来、全部、抱えの部隊で「一点もの」としてつくってる。

吉田 今でこそ、あっちこっちの雑誌で「ビジュー・デニム」って聞くし、巷にも出回ってるけど……。最初につくったの、RYUZO君だもんね。

RYUZO そう……。「ビジュー・デニム」(BIJOUX → 仏語で宝石という意味)って名前をつけたの僕だし。その後、いろいろ雑誌でも、そう言われるようになったみたいだけどね……。

スワロフスキーやビーズが散りばめられた
RYUZO Nakataの「ビジュー・デニム」は、すべて一点もの

スワロフスキー、黒ビーズ、18金のスパンコールなどは、
ひとつひとつ手縫いでつけられる

人とちがうものを着ていた子供時代

吉田 ところで、ファッションには小さいころから興味があったの?

RYUZO 物ごころつく前、3歳から絵を描いていたね。小学生のときには、すでに洋服に興味があったかもしれない。6才ちがいの兄がいるので、いろんな情報はほかの仲間より早かった。

吉田 その環境はうちも似てるんだよね。

RYUZO で、兄貴が服を買うと、すぐに僕もおなじのを買って、改造して着て行ったりすると、友達が「それどこで買ったの?」とかやっぱり聞くわけ。そのころビートルズが流行ってて、彼らはこ~んなラッパ(すそ幅の広いパンツ)をはいてたの。で、自分のパンツの裾に三角のマチをミシンで付けて、「オレのが一番すそ幅広いぞ、33センチ!?」なんていってはいていたんだ(笑)。

吉田 ははは。それっていつごろ? 中学生くらい?

RYUZO そう……。小学校かな……中学も。高校は、制服でもやってたね。

吉田 え? 制服でも?

RYUZO 制服は「中ラン」。内ファスナーでボタン8個、カラーは6センチにして、そのカラーも白じゃなくてプラモデルの塗料でペイントして青にして着てた。

吉田 怪しい~(笑)。それじゃ学校イチ有名な新入生だったんだ。

RYUZO ははは。そうだね。でも幸い家の隣の隣に、強力な先輩が住んでいてよく知ってたから、学校では怖い目にも遭わずに守られてました(笑)。

繊細な刺繍がほどこされたコートは、
そろいの洒落たシャンパン・ボトルバッグつき

上品な華やかさが光る、刺繍とパール

オシャレだった母から受け継いだもの

吉田 RYUZO君が、レディースの服をデザインするようになったきっかけというのは、なにかあるの?

RYUZO 今になって考えてみると、まだ周りの子どもたちがハナをたらして黒いアノラックを着てた小学生のころ、僕はベレー帽とハーフコートとラッパのパンツのウールの3点セットを着せられていたんだよね。

吉田 うわっ。それはかなりオシャレじゃない? 誰かに縫ってもらっていたということ?

RYUZO そう。マミー(母)もハンガーにぶら下がって売っている服を着たことがないひとで、すべて注文をしてつくってもらっていた。そのせいか、僕も北海道なのに東京の坊ちゃんみたいに(?)、半ズボンスーツにタイツとか、着せられていたんだ。

吉田 それじゃ間違いなく、「オシャレなお母さん」と「オシャレな坊ちゃん」で、地元では有名だったでしょう(笑)。

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RYUZO でも、そのころはイヤだったよ。女の子たちは、「わ~、かわいい!」とかいって寄ってきたけど(笑)。

吉田 ファッションの道に進んだのも、そんなオシャレなお母さんの影響が大きいのかもね?

RYUZO そう……。最初はメンズから基礎を学んで、デザインしてつくっていたけれど、ときが経ってから自分が子どものころ着ていた服や、母の着ていた「あつらえの服」とかを思い返してみると、あれはなかなかよかったなぁと思ったりして……。

吉田 そんな貴重な幼児体験があったとは。ぜんぜん知らなかったね(笑)。

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RYUZO Nakata(リュウゾウ・ナカタ)
デザイナー

RRR RYUZO NAKATA
8,AVENUE CONSTANT COQUELIN 75007
PARIS FRANCE
TEL +33-(0)1-4553-3412
CONTACT:rrrcc@free.fr
http://www.ryuzonakata.fr

           
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