POGGY’S FILTER|vol.10 江川“YOPPI”芳文さん、AKEEM THE DREAMさん(前編)
FASHION / MEN
2019年10月4日

POGGY’S FILTER|vol.10 江川“YOPPI”芳文さん、AKEEM THE DREAMさん(前編)

小木“POGGY”基史氏がホストを務める『POGGY'S FILTER』の記念すべき第10回目を飾るゲストは、東京を代表する老舗スケートチームであるT19に所属し、90年代半ばから2000年代にかけての裏原ストリートカルチャーを牽引していたショップ、HECTIC(ヘクティク)の中心人物となっていた、江川“YOPPI”芳文(以下、YOPPI)氏とAKEEM THE DREAM(以下、AKEEM)氏のお二人。ヘクティクを経て、現在はHombre Niño(オンブレ・ニーニョ)ディレクターおよびPLUS L by XLARGE(プラス・バイ・エックスラージ)デザイナーを務めるYOPPI氏と、かたや、デザイナー、コーディネーター、コラムニスト、翻訳家など多方面で活躍するAKEEM氏だが、ヘクティクを通じて彼らが残してきて功績は、今のストリートファッションのシーンにも深い部分で繋がっているのは言うまでもない。前編では彼ら二人の出会いから、ヘクティク設立初期の貴重な話を伺った。

Interview by KOGI “Poggy” Motofumi|Photographs & Text by OMAE Kiwamu

スケートボードを軸に、みんなが交流していたホコ天時代

POGGY まずはお二人の出会いについて伺いたいのですが。特にAKEEMさんに関しては、結構、謎に包まれている部分もあるので、YOPPIさんに会うまでの簡単な経歴も教えていただければと。

AKEEM 生まれは葛飾、柴又……ではないんですが(笑)、小学生の頃にオーストラリアにいて、そこでスケートボードに出会いました。1989年に東京に帰って来てから、YOPPIさんとか大瀧(ひろし・T19主宰)君といったスケーターの人たちと仲良くなって。
AKEEM THE DREAM氏
YOPPI 清瀬のスケートパークで初めて会った時に、「(雑誌の)『Fine』に出てる人だ!」って言われたのを覚えてる。

POGGY (笑)

AKEEM すいません……。社会性みたいのがまだ何もない頃で(笑)。

POGGY その時にはもう、T19はあったんですか?

YOPPI 厳密に言うと、89年にはT19という名前はなかったんですけど、すでに原型みたいなものはありましたね。

AKEEM 大瀧君とか三野(タツヤ)君とかスケシン(SKATETHING)さんとかのクルーが、いろんなスケートのイベントに行くと必ずいて。異様な雰囲気を醸し出していましたね。スケーターならば誰でも知っているカリスマ的なクルーでした。

YOPPI 恐れ多くて近づけないような雰囲気で。当時は俺もただの子供だったんで、めちゃめちゃ怖い先輩方でしたね。

POGGY 出会った頃のお二人の年齢は?
AKEEM 14歳と17歳とかですね。初めて会った時が3年違うと、だいぶ違うじゃないですか。けど、ずっとウロついてたら、仲間に入れてもらえたっていうのが俺のストーリーです。

POGGY その頃のYOPPIさんは、どういう感じでしたか?

AKEEM すでに街の有名人でしたね。だから、初めて会った時も心の声が出ちゃった(笑)。

YOPPI 『Fine』にモデルとして出ていて。当時、『Fine』はそういうカルチャーの象徴的な存在で、わりとみんなが見ていたっていうのもありましたね。

AKEEM すでにポップアイコンでしたね。

YOPPI 意に反して(笑)。いつも“Fineの~”っていう感じの扱いでしたね。

POGGY スケートにプラスして、さらにファッションとかカルチャーでも交わるところがあったんでしょうか?

YOPPI 最初のほうはスケートボードだけでしたね。GORO'S(ゴローズ)の向かいの原宿ファッションビルっていうところに、スケートショップのSTORMY(ストーミー)があって、いつもそこに溜まっていたり、日曜日は原宿のホコ天でみんなで滑っていたりして。そういうところに、当時の『オリーブ』のモデルさんだの、大川ひとみさんとか、ジョニオ(高橋盾)さんとか、あと(藤原)ヒロシ君もスケートボードやってたんで、チェックしに来るわけですよ。スケートボードを軸に、みんなが情報交換をしてたりしていて。
江川“YOPPI”芳文氏
AKEEM その後クラブとかにも行くようになりましたよね。

YOPPI 新宿のツバキハウスとかミロスガレージとかいろいろ行ってたんですけど、一番大きかったのがGOLD(ゴールド、89~95年にかけて港区海岸にあった伝説的なクラブ)でしたね。

AKEEM ゴールドでスケートボードとのクロスオーバーイベントなんかがあったりして。そういうところに通っているうちに、YOPPIさんが真柄(尚武・現A-1 CLOTHING/M.V.P.代表)さんと仲良くなったんでしたっけ?

YOPPI ゴールド繋がりで、真柄さんと知り合った。真柄さんがDOGTOWN(ドッグタウン)が好きだったので、「YOPPIもDOGTOWNに詳しいよ」って、DJの木村コウ君が俺を紹介してくれて。二人ともよくゴールドに行ってたんで、仲良くなって。そしたら、真柄さんに「一緒にお店をやらない?」って。

AKEEM 「こいつは使える」って思ったんじゃないですか?(笑)

YOPPI 「なんで俺を誘ったの?」って真柄さんに聞いたら、「『Fine』で有名だったから」って。「あっ、そうですか」って(笑)。

AKEEM でも、洋服は大好きだったじゃないですか。それだから誘ったっていうのはあるんじゃないですかね?

POGGY 真柄さんから、どういうショップをやろうと? スケートショップみたいな感じですか?
YOPPI いや、スケートショップではなくて、洋服屋さんをやろうっていう感じでしたね。

AKEEM 真柄さんはヴィンテージ・キングっていう古着屋で働いていたから、ヴィンテージの造詣が深かったんですよね。

YOPPI 買い付けでニューヨークにもよく行ってたから、ヒップホップ・カルチャー的なのも詳しくて。ヴィンテージ・キングが落ち着いたから、次のお店を出すっていう時に俺を誘ったっていう。

AKEEM ハウスが好きな上に、ヒップホップも好きだったから、それにリンクする人っていうことで、YOPPIさんを誘ったっていうことですよね。

YOPPI そう。けど、実際やってみたら案外大変だったっていう(笑)。俺は洋服の勉強を何もしてないし、物欲だけだったから。

POGGY それは何年くらいの話ですか?

YOPPI 当時、俺が22歳だったんで、94年とかですね。それで、今のプロペラ通りに最初のヘクティクのお店をオープンして。

Tシャツをキャンバスに置き換えたフューチュラとスタッシュ

POGGY AKEEMさんはいつからヘクティクに参加を?

AKEEM 初期の頃からいましたね。

YOPPI 俺のほうから誘って。大学を中退させて、こっちに就職してもらいました(笑)。

POGGY 当時はどういうところに買い付けに行っていたんですか?

YOPPI ボストンのアウトレットに行ったり、あとはニューヨークのモールやお店を回ったり、ニュージャージーとかにも行ったりしていました。

POGGY その頃は、どういう視点で買い付けしてたんですか? 「あのアーティストが着ているやつ」みたいに?

YOPPI もちろん、そういうのもありましたけど、HELLY HANSEN(ヘリー・ハンセン)とかReebok(リーボック)のナイロンジャケットとか、そういうのばっかり買ってましたね。ヘリー・ハンセンもリーボックのナイロンジャケットも日本にほとんど入ってなかったんで、とんでもなく売れました。
AKEEM 今思うと、90年代はヒップホップのゴールデンエラだったので、いろんなアーティストや作品が出てきていたんですよね。その頃のファッションをモロにフォローしてたから、そういうのが色濃く出ていたと思います。あと、ヘクティックの買い付けの基準は、リーボックのナイロンジャケットだとしたら、黒、白、赤、紺、緑のオプションがあったとしても、多分、そのうちの紺と黒、緑などのシックな色を選んでましたよね。

YOPPI それは真柄さんが、売れ筋っていうのを分かっていた人だから。でも、俺は差し色命だった(笑)。

POGGY (笑)4番バッター好きなタイプですね。

YOPPI いつも買い付けの時に「一体、これは誰が買うんですか?」って、真柄さんに言われながら戦ってました。

POGGY そういう中で、当時のニューヨークのストリートブランドとかも買い付けるようになっていったわけですか?

YOPPI ブルックリンにあったLordz of Brooklyn(ローズ・オブ・ブルックリン)のお店で、STASH(スタッシュ)がやっていたSUBWARE(サブウェア)の電車の刺繍のスウェットがあったんですよ。しかも色がグリーンで。「これを買い付けたい」って言ったら、真柄さんに「誰が電車の刺繍のスウェットを買うんですか?」って言われて(笑)。

AKEEM あはは(笑)そうですよね〜。その時は、東海岸発信のDIYストリートウェアが盛り上がってた時期でしたよね。SSUR(サー)とか、ちょい後かもしれないけどZOO YORK(ズー・ヨーク)とかSupreme(シュプリーム)とか。サブウェアもそんな中の一つで。ストリートブランドのニュージェネレーションが色々登場してましたね。
YOPPI 真柄さん的にはそういうブランドのことは、最初はあんまり理解していなかったと思うんですよね。RALPH LAUREN(ラルフ・ローレン)とかEDDIE BAUER(エディー・バウアー)みたいな、売れるブランドのことは分かってたと思うんですけど、そういう小さいブランドは、まだそんなに世に出てなくて、これが良いのかどうかもうっすらしてたような状況で。けど、俺はアンテナがビンビンだったので、「これを買いたい、あれも買いたい」って。俺を誘って買い付けに行くってことは、そういうことなんだろうって。

AKEEM 結果、打率はどのくらいだったの?

YOPPI 打率は悪かったね(笑)。電車の刺繍のやつも、一枚しか買ってくれなかったんですけど、結局、それは何ヶ月も残ることになった。

AKEEM 死に筋になってた(笑)。

YOPPI でも、新商品としての立ち位置としては成立していて。常に何か面白い、見たことのないものがあるお店ではあって。

POGGY グラフィティの人が洋服を作ったりっていうのは、その当時はまだやっている人たちがいなかったと思いますが、サブウェアのことはすでに知っていたわけですか?
AKEEM氏私物
YOPPI サブウェアを始める前のGFSっていうのがそもそものスタートで。すごく衝撃を受けましたね。

AKEEM GFSはフューチュラとスタッシュとGERB(ガーブ)っていう三人がやっていて、ストリートウェアの元祖みたいなのブランドでしたね。ニューヨークのグラフィティをメインのテーマにしたブランドだったんですけど、PHILLIES BLUNT(フィリーズ・ブラント)のロゴがプリントされたのが、GFSが出していた一番有名なTシャツだったと思います。

YOPPI けど、そのTシャツをどうやって買うのかっていうのが全然分からなくて。

AKEEM スタッシュがデザインしたTシャツがあったり、フューチュラがミリタリーをテーマにしていたTシャツがあったり、グラフィティやNYのライフスタイルからヒントを得た様々な名作デザインがTシャツとなってGFSから発表されていたんですけど、ウチらが買い付けだしたのは、サブウェアになってからですね。

POGGY その当時はインターネットもない状況で、どうやって情報を得ていたんですか?
AKEEM 当時の主な情報源はDJ’s Choiceに売ってたヒップホップのミュージックビデオや、スケシンさんやシンゴスターさんから借りたヒップホップ関係のお宝映像VHSだった気がします。あとは、買い付けに行った時に必ずSoho Graff (現Scrap Yard)ってところで雑誌とかビデオを買ってました。

YOPPI GFSもカタログとかは、ずっとあったんですよね。けど、まだスタッシュと巡り合ってはいなくて。でも、GFSとサブウェアを同じスタッシュがやっているっていうのは何となく分かっていて。それを少数だけだけど、見つけたら買ってきて。「誰が買うんですか?」って真柄さんに何回も釘を刺されながら。

POGGY (笑)

YOPPI GFSもサブウェアも当時、フューチュラやスタッシュがTシャツをキャンバスに置き換えてデザインしているっていうのが、コンセプトとしてすごくて。

AKEEM ヤバいグラフィティピースを手がけたり作品を作ることはさることながら誰もが楽しめるTシャツをアートピースへと昇華させちゃうところにグッときますよね。
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