(2)「クリエイションと新作、そして古着への憂い」
Interview with Rin Tanaka
クリエイションと新作、そして古着への憂い(全3回・2)
ロサンジェルスにポートレイトとブツ撮り用の設備を備えた小さなフォトスタジオを設け、自身独自のライティングに取り組んでいる田中凛太郎氏。彼が愛して止まないアメリカの古着に対する思いまでを語る最新インタビューの2回目。
まとめ=竹石安宏(シティライツ)語り=田中凛太郎
ハーレーの歴史的アーカイヴを初公開
──ところで田中さんはどのような写真がお好きなんですか?
たとえばマグナムのような報道写真は大好きですね。“記録”として時が経てば意味をもつ写真です。そういう意味では、今回制作しているハーレー・ダビッドソンの本などもおなじですね。ハーレーは1913年から現在まで『エンスージアスト』というオーナー向けの会報誌をつくっていて、当時からプロのカメラマンを雇って写真を撮っていたんです。その膨大なオリジナル写真がハーレー本社に保管されており、スキャニングされてアーカイブされているのですが、社外秘であるそのデータを、ぼくが外部としては世界ではじめて見せてもらったんです。それは素晴らしい記録でした。
──100年近くの資料はかなり膨大な量ではないですか?
まさに“ブラックホール”でしたね(笑)。2ヵ月間毎日ずっとコンピュータに向かいっぱなしでした。でも、その資料を紐解いてまとめるのが今回の仕事ですからね。それはまるで遺跡の修復作業のようです。あまりにも膨大なデータがコンピュータに集積されると、人間の手には負えないものになるんだなと思いましたね。ハーレーサイドでもどう処理していいのかわからないので、ぼくのところにまわってきたわけです。ハーレーのバイク自体の体系はこれまでもされてきたし本にもまとめられていますが、ハーレーのカルチャーはもうアメリカ人では手に負えないのでしょう。そういった意味でも今回の本はビッグプロジェクトなんです。ことしハーレー本社のあるミルウォーキーに創立105周年を記念したハーレーのミュージアムができるのですが、その記念本ですからね。
──それはすごいプロジェクトですね。ハーレー・ダビッドソンから直接依頼されたのですか?
そうです。ミルウォーキーから担当者がわざわざやってきたので、それからぼくが早速ミルウォーキーに飛んでいったんです。もとはカレン・ダビッドソンさんというハーレーのウェア部門の責任者が知り合いで、彼女がミュージアムサイドにぼくを紹介してくれたみたいなんですけどね。アメリカを代表するカルチャーですから、日本人のぼくに依頼するのは勇気が必要だったろうなと思いますけど(笑)。
知られざるバイクファッション黎明期の全容
──内容的にはハーレー・ダビッドソンの社歴をまとめた本になるのですか?
いや、タイトルは『Genuine Harley-Davidson Fashions』となるので、厳密にいうとハーレーのファッションの歴史をまとめた本になります。今回は1910年ごろから50年代までですね。ぼくが革ジャンの歴史を調べていてアメリカに行かざるを得ないと思った理由のひとつは、まさにこの時代の資料が日本では極めて少ないからなんです。とくに戦前の写真などはほとんど見ることができない。革ジャンは30年代くらいがいちばん面白いんですが、そこをリサーチするにはアメリカに行くしかなかったんですよ。でも、やはり30年代以前の資料にはたどり着けなかったんです。これまでの本もだいたい40年代くらいからが中心ですからね。だからその資料は本当に興味深いものでした。
──たしかにそんな時代のバイクウェアは、いままでほとんど知られていないですよね
なにせ1910年代からですからね。この時代のファッションはいままで誰にも解明されてこなかったもの。それとハーレーのファッションとはすなわちアメリカのファッションですから、アメリカンカジュアルの原点ともいえるわけです。
──1910年代の人々はどんなファッションでバイクに乗っていたんですか?
ツイードなどのスポーティなスーツが多かったようです。やはり当時の人々はヨーロッパからの移民ですから。アメリカは彼らが持ち込んだウェアを30年代くらいからぼくらの知っているアメカジにアレンジしていくわけですが、その前後のようすが見られたのは画期的であり収穫でした。僕が30年代くらいのものだろうと予想していた革ジャンの原型が、すでに20年代から存在していたなんてこともありましたね。それと、たとえばヘルズエンジェルスのようなモーターサイクルクラブは50年代から70年代前半までがピークだったのですが、1900年代初頭からあったこともわかりました。これらはぼくの予想と30年ぐらいちがっていたなと思いましたね。
──田中さんの予想すら超える資料だったんですね
思った以上に予想が外れていたのはショックでしたね。自分のリサーチの甘さも痛感しました。
──それにしても、そんな時代からバイクに合わせるウェアまでつくっていたとは、ハーレーの先進性には驚かされますね
1912年ごろからちょっとずつつくっていたようです。ハーレーは1914年の段階で年間1万台のバイクを生産していたのですが、それは現在ハーレー・ダビッドソン・ジャパンが日本で販売するバイクの数とほぼ同じなんですよ。ということは、当時すでにある程度のマーケットをもっていたということであり、ウェアなどのアクセサリー類を販売する市場もあったということなんです。