8足目&9足目
#8&9 ビームス誕生秘話
理記/1973&1975
大学を卒業して入った婦人アパレルの会社では鈴屋を担当して、かなりいい営業成績で、2年半ほどで副部長になったんですが、企画責任者と企画の方向性が合わなくなって、それでストレスが溜まって、辞めたくてしょうがなくなって、転職を考えて、友人に相談したりしていました。
同じ逗子に住むサザビーの鈴木陸三さんを紹介していただいて、面接を受けて採っていただいたんですが、サザビーは当時洋服をやっていなかったんですね。バッグと輸入アンティーク家具と生地屋と、カットソーの小さなメーカーはあったんですが、やはり服がやりたくて最終的には断念しました。
それで、中学時代の1級先輩で、当時『平凡パンチ』のファッションページを担当していた土橋昭紳さん(講談社『チェックメイト』記者や、日之出出版『ファインボーイズ』編集長などを歴任)の新宿の飲み友達が先代の設楽社長で、土橋さんに紹介してもらって初めて会いました。
当時、設楽社長の(株)新光は、オイルショック後で、社長自らが付加価値のある仕事をしたがっていたのも幸いして、それと先代は服が好きだったんですね。「アメリカの生活文化を洋服を通して日本に紹介するアメリカン・ライフ・ショップ」という企画書を土橋さんと2人で出したんです。
25歳の9月に企画書を出して、事業化が決まって会社を翌年の1月に辞めて、(株)新光にアパレル事業部を作って、26歳の2月には出店しましたから、準備は半年。土橋さんは本業が編集業なので顧問のような形で参加して、当初社員は僕と販売の女性の2人。そこにミウラでアルバイトしていて販売経験を買われて入ってきたのが岩城哲哉さん(現ユナイテッドアローズ代表取締役社長)で、僕が初代店長で、オープンの日からいたのはその3人。土橋さんはオープンの日に社長とケンカして、2日目からはずっと来なくなった(笑)。でも2年間は顧問を続けてもらいました。
前の会社に在籍しながら(笑)オープン前の12月にアメリカに商品の買い付けに行きました。それは土橋さんと2人でしたね。ロスとサンフランシスコでの店頭買いですよ。「100万円買うから2割引いてくれ」という。それをハンドキャリーで持って帰ってきて6坪のビームスがスタートしました。
原宿に出店したのは、自分が神宮前で社会に出たというのと、これからのファッションは原宿という機運があった。クリエーターが集まり始めたのと、面白い店が出来始めたときだったんですね。セントラルアパートもあって、ラフォーレ原宿は78年オープンですが、メジャーじゃないけどエネルギーがあった。
ビームスを始めるまでは、まるっきしのサンローランかぶれ(笑)だったんですよ。岩城さんと会った時も、革のジージャンにスカーフ巻いて、まったくのヨーロピアンスタイルで。23歳の時にロスに行ったら、ロンドン・ポップが大流行していて、みんなハイヒールの靴を履いて、日本人が憧れた60年代のアメリカじゃなかったんですね。それを見て、これからはヨーロッパでしょうと。
でもビジネスではアメリカだったんです。当時アメリカのカジュアル衣料は直接日本に入っていなくて、これからはそれを表に出せばマーケットができると、ビジネス的に見ることができた。
オープンの76年2月は180万円売れて、10月には500万円の目標を達成して、翌年2月には1200万円ぐらい売れました。初めの半年ほどは店頭買いを続けていましたが、あとは小さな商社から買っていました。
毎月アメリカに行けたのは、僕の姉がパンナムのスチュワーデスだったからです。家族割引で9割引で行けたんですよ。だから頻繁に行くことができた。
僕が高校3年の時に姉がハワイに住んでいて、ハワイに遊びに行ったり、『メンズクラブ』を見て、売っているところを教わったりしていました。もちろん9割引のはスタンバイチケットなんですが、当時、チケット代にあと1万円足すと、ファーストクラスにアップグレードできたんですね。その頃からシャンパンとキャビアだったんです(笑)。
まだヨーロッパには行けないけれど、香港にビスポークの靴屋があることを姉に聞いて知って、香港ではよく靴を作っていました。
上の写真の靴は73年のもので、既存の外羽根のツートーンのデザインですが、木型は今でも通用するぐらいきれいなものでした。
中段の靴も同じく「理記」製のオーダーで、これは自分でデザインしたもの。これが75年ですが、73年と75年の間にあと2足あるんですね。それはまたの機会に。
(1973年&1975年/3万円)