連載・信國太志|第16回 この夏、西海岸から四国までいろんなとこでサーフしました
連載|信國太志
久しぶりにサーフィンをテーマに綴ってみます
この夏、西海岸から四国までいろんなとこでサーフしました(1)
カリフォルニアは20年ぶりなので発見が多かった。そんな徒然と思うことを、久しぶりにサーフィンをテーマに綴ってみます。
Text by NOBUKUNI TaishiPhotographs by MIURA Yasuma
ああ、もし僕が20年前ここに来ていてもサーフィンなんて……
いまだ過去に「もし」もがないとわかっていても、なんでサーフィンをしなかったのか? やっていたらいまごろ次元のちがうサーフィンをしていただろうに──そんな思いを検証もしてみたくLAに舞い戻ったのでした。
僕がカリフォルニアに住んでいたのはヴェニスビーチ。今でこそアボキニー通りが盛り上がっていたりとかしますが、当時そこは黒人とメキシカンギャングの抗争の場で、毎夜ヘリコプターが飛び回りマシンガン(単発じゃないです)の銃声飛び交う戦場でした。ベトナムかと見まがうほどの。パームツリー。地獄の黙示録。
“アフター地獄の黙示録”な洒落にならない状況もあり、それはベトナム帰還兵の発狂したホームレスらが多かったこと。正直それは今もさして変わらないと感じました。
後述しますが、もはやサーフシーンはオルタネーティブなアーティスティックな文化ですが、いまだなんてことない旧態依然なサーフショップに足を踏み入れると、そこはまるでスポーツ店のようでハードなSFチックなロゴの競技的スポーツとしてのサーフィンのウェアなどがならんでいました。
ああ、もし僕が20年前ここに来ていてもサーフィンなんてそのイメージからやらなかったのは明らかです。
当時は最初の変化としてステューシーがモノトーンのビーチウェアを出したりして典型的な蛍光ファッションは変わりつつあったものの、それでも僕の友だちのレイなんて金髪チリ毛にもみあげなく短い前髪に後ろソバージュのロン毛でしたし、いまだそういう雰囲気がサーフィンでした。
そして昔の近所にあるモラスクサーフへ
手書きふうのロゴのウェアやボード。店内のゆるくエコロジカルでユーモラスな雰囲気。何よりサーフとそのカルチャーへの敬意とヒストリーを感じる店。
この店ができたのと僕がサーフィンをはじめたのは約10年前。その空気感はトーマスキャンベルのSEEDLINGなどのサーフムービーで世界に広がりました。
今僕はそんなSEEDLINGなどの音楽を担当した双子のデュオMATTSON2のスーツを仕立てていて、そのフィッティングも今回の渡米のミッションです。
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久しぶりにサーフィンをテーマに綴ってみます
この夏、西海岸から四国までいろんなとこでサーフしました(2)
MATTSON2
その晩は、そんな彼らのライブ。友人の花井裕介君がそのフライヤーをデザイン。これまでも数回地元のショーに同行したり、東京でもライブを観たりしましたが、このお店のこのクラウドこそある意味ホーム(それは地理的・年齢的なことではなく、おなじときを生きおなじ空気を感じた同種の仲間の集い)。そしてその同種とはまったくもってバラエティーを孕んだ個性的でかっこいい連中。
そんな彼らの音楽をもっとも愛する仲間たちと彼らの音楽を20年後のうちの近所で共有できたのは素晴らしい体験でした。
兄弟とは、日中彼らの両親の実家の近くのカーディフでサーフィンしました。彼らの音楽はある種のサーフミュージックのような捉えられ方をされていますが、彼らのサーフィンはむしろ当たり前にあるホビーで、それに比べて彼らの音楽は非常に次元が高いものであり、一重にサーフミュージックとは到底くくり難い内容と可能性をもっています。
また彼らの相棒レイバービーにいたっては、サーフィンしたことないのにサーファーにもっとも愛される音楽を奏でるという意味ではジミー・ヘンドリックスにならぶかもしれません。何より彼らのように音楽というものをフラットに捉えられる愛情が美しいです。
ギターのジャレッドの胸には最近よくブルース・スプリングスティーンのバッジが付けられていますが、それは村上春樹の小説でスプリングスティーンがメジャーコードで哀しい曲を書ける優れた作曲家だと知ったからだそうです。
また彼らは細野晴臣さんというか“ハリー細野”をリスペクトしていて、そんなトロピカルダンディーなスーツを僕もイメージしてみたりします。僕は毎日サーフィンする彼らのお父さんに「息子たちをサーフィンにもっと真剣に向かわせて欲しい」と懇願されてふたりをビーチに引っぱりだした感じでした。
サーフィンが当たり前の環境にいる双子と、日本である種のアクティビティーとして忙しなくサーフィンする僕。彼らも夢の地に住むことを感謝する良い機会になったのではないでしょうか? 昔の僕のように身近にある大事なことに気づかなかったりしますから。
しかし部活をこえてもっとハードな何かとしてのサーフィンもあるわけで、双子のサーフィンへのアプローチはモラスクに集う新世代のように緩く草食的で競争的でないといえるでしょう。
サンオフノリという歴史的サーフキャンプ場でもサーフしました。サンディエゴのマイクロブリューアーとも呼ばれる小さな地ビール醸造家を、シマウマ柄のスイス軍の大型ジープで回るツアーを仕事とするアダムも一緒で彼はたくさんの種類のビールをもってきてくれました。
サーフいってもほとんどのひとがキャンピングカーでテントをはって飲み食いしたり昼寝しながらサーフィンする感じです。平均年齢は印象としては60代前半から少数の若いひとといった感じでしょうか。
一番奥はもっともたるいブレークのポイントで“OLD MEN POINT”と呼んで字のごとく呼ばれていました。ここにいたっては70代のひとがパドルボードやってる感じです。しかしそこはイルカが多くいる海でいながら原発の麓でもあるという、人生のように複雑な場所でもあります。
20年の時間を経て知るのは、世界の変化ではなく自分の変化でした
それは今まで気づかなかったことに気づくということで、なかでも僕にとってのそれは建物の色と植物の個性でした。
カリフォルニアの色彩とはイメージの極彩色や青ではなく、グレーみを帯びたブルーや黄色みの強いくすんだ茶などペールトーンのくすんだ色が80’sのネオンカラーで街が汚れる以前から変わらずそこに存在していたのでした。
モラスクで扱われるボードなんかもそんな色が多い気が。自然にマッチする色を本能的に感じるのでしょうが、そのままのナチュラルな白が一番自然かもしれませんし、僕の周りにもそこに行き着くひとが多数見受けられます。
インディアンのメディスンマンに「白人はバッファローを見ない」と教わりましたが、同様に僕はあらゆることを眼で見て心の目で観てなかったと思います。枯れた時代のヒントは意外にもっとも若々しかった処にあるのかも知れません。
今のサーフシーンや西海岸のユースカルチャーに感じたことを総括すると、
no more macho
です。眩しいネオンカラーや競技的サーフィンは80年代のレーガンの強いアメリカの文化として隆盛したものですが、2000年あたりからそんなのに嫌気がさした繊細で草食的でナチュラルなスタイルをもったネオヒッピー的なムードがあらわれたんだと思います。とくに最近そのように強く若者を感じさせるトピックとして遺伝子操作作物の問題が強烈にあると思います。
それは911以降どうもいろいろおかしいぞ。強いアメリカって地球の癌かも? とアメリカのリベラルや若者が気づきだしたかのようです。
さて、そして巡っては四国、徳島の海部へ。
303surfの千葉公平さんのもとを波乗り仲間と合宿的に訪れました。
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久しぶりにサーフィンをテーマに綴ってみます
この夏、西海岸から四国までいろんなとこでサーフしました(3)
千葉公平氏と僕の波乗り仲間たち
公平さんには僕のサーフボードを削っていただきました。僕はテーラーになるにあたりサーフボードを削るシェイパーという仕事に影響を受けました。
立体物をお客さんの注文に合わせて作るということ──テーラーはシェイパーがそのひとのサーフィンを観察するように、スタイルや自己イメージと体格を観察することだと思っています。公平さんに板をお願いして、普段注文を受ける側から注文する側としての気持ちや期待感を経験しました。
服の注文に極端なサイジングの感覚や過剰な自意識をおもちの方がいらっしゃるように、僕も自分のサーフィンを一端のような勘違いをもっていたようで、公平さんのご提案より薄い板をお願いしすぎましたが、間をとってほどよい答えに導いていただきました。次回は自分の下手さに合わせた無理のないものをお願いしようと思っています。
そのようにボードも服もカスタムメイクは1回でなくむしろ2回目から良くなるというのは、最初は御手合わせ的なセッションだからだと思います。公平さんの板のできあがりは素晴らしく、軽さと推進力という胆を痛感。何事にも胆はあるもので、そんなことを自問自答しました。服の胆は肩の着心地なので、さらに追求したく思っています。
そして今度は僕が公平さんのスーツを仕立てる番です。どこにもデザインや違和感のない匿名的で美しくサーファーの背筋を包む服。なんて考えながら裁断しています。
と、カリフォルニアから四国まで話題が飛びつつ、洋服作りに話題が辿りついたとこで、次回は本職の話? と匂わせつつ筆をおきます。でもまた話が飛ぶかもですが。