ラットホールギャラリー|第45回 北島敬三個展『PORTRAITS』 (3)
ラットホールギャラリー│第45回 北島敬三個展『PORTRAITS』 (3・最終回)
もっと直接的に顔が現れてくるような撮り方はないか
北島敬三氏へのインタビューも、いよいよ今回が最終回。話は、「PORTRAITS」発表までの試行錯誤から、この作品群をとおして北島氏が伝えたかった真の意味へと展開します。
インタビューをおこなった私自身、彼の話を聞く前と後では、このシリーズ、そしてこれまでのすべての作品への見方、感じ方が大きく変わるような、非常に興味深い内容でした。
Photo by Jamandfixedit by TAKEUCHI Toranosuke(City Writes)
この方法にすれば、システム上“ボツ”はないんです
──「PORTRAITS」は、いわば単独性の面白さ、不可思議さを発見するための実験。結果、見事に不思議なものができましたね
でも、それを実証するために最低6年は発表するのをやめようと思いました。6枚ぐらい揃わなければ、私の確信が正解だったかどうかわからないと思いましたから。ただ、おなじひとが毎年きっちり撮れるわけではありません。ですから、結局取りはじめてから発表するまでに9年かかりました。
──それは本当に、根気と勇気のいる仕事ですね
そうですね。その間、ほかには風景しか撮っていませんでしたから、不安もありましたが、そういうヤツもいたほうが面白いかなと。
──今回の個展では3名のモデルの方をチョイスされていますが、どういう理由で、この3人にされたんですか?
じつはそう訊かれると困っちゃうんですよ。もちろん個展を開催するとなれば、全部で2000点ぐらいになるアーカイブのなかから、その都度スペースに合わせて選ぶわけですが、その選び方は街のスナップとは決定的にちがいます。
街のスナップを選ぶときは、自分で“いいと思う”写真を、いわば“セレクト”していました。ですが、この作品の場合、展示する場所に合わせて編集はしていますが、基本的にセレクトはないんです。今回はたまたまこういう選び方をしましたが、別にほかの写真がダメなわけじゃない。つまり、システム上“ボツ”はないということです。これは私にとって非常に大事な要素なんです。選び方だけでなく並べ方も同様で、今回はたまたま3人のひとをそれぞれ時系列に並べましたが、これだって2000点のなかから、いろいろな編集の仕方が可能です。そういう意味では、すべてが実験ですね。
街にいるひとに、そのひと自身のオリジナルな表情なんてない
──白バックに白シャツ1枚で、というルールはすぐに決まったんですか?
大まかにイメージはありましたが、実際にはいろいろ実験してみました。黒バックは考えただけでやめましたが、服については普段着もやりましたし、裸もやってみました。でも、裸にはギリシア彫刻に象徴されるイデーとか美学みたいなものが逆に入ってきてしまったので、これもやめました。
さらにいうと、91年に撮ったソ連のシリーズというのもじつは、すでに頭のなかにあった「PORTRATS」と正反対のことを意図的にやった実験なんです。つまり、あらゆる属性や社会的記号なんかを全部入れようと。そうして、結局最後に残ったのが、白バックに白シャツ、そして真正面を見ながら目線は少しだけハズすというルールでした。
──そこから導き出されるものは、究極の無名性ですか?
無名性ともちょっと違うんですよね。スナップを撮っていて思ったのは、ニューヨークのひとはニューヨークの人らしい表情をしていますし、東ヨーロッパのひとは東ヨーロッパ的な表情をしているということ。つまり、街にいるひとに、そのひと自身のオリジナルな表情なんてないということです。だから、もっと直接的に顔が現れてくるような撮り方はないかと考えて導き出したのが、この方法だったというわけです。
──この方法で外国人を撮ろうとは思われなかったんですか?
これをはじめるとき、やることがデリケートなだけに、あえて外したひとというのがあって、まずは有名人。そして人種図鑑みたいにするのもやめようと思いました。言い訳はいくらでもできますが、そこまでやっちゃうと、またちがう意味が出てきそうだし、自分自身飽きちゃうような気がしましたから。そういうふうにして、できるだけ、いわゆる“おもしろいこと”を入れるのを避けました。
作品全体の面白さを引き出すには、1枚1枚をおなじにするしかない。要するに、面白くするためにつまらなくした、ということです。
──なるほど。とても深い話をうかがうことができました。どうもありがとうございました
こちらこそ、ありがとうございました。