第18回 古屋誠一インタビュー(3)
第18回 古屋誠一写真展『im fluss 流れゆく』インタビュー(その3)
前々回からお届けしている、古屋誠一氏へのインタビュー。
3回めの今回は、いよいよその最終回として、写真家古屋氏の視線、
そして、その先にある彼の人生観そのものに迫ります。
Photo by Jamandfixedit by TAKEUCHI Toranosuke(City Writes)
いつも見ているものが突然刺さってくる
──古屋さんは、ご自身の写真一点一点を、アルファベットの一字のようなものであり、その集合体が物語を作るとおっしゃいました。また、被写体は常に日常のなかにある、とも。では、その日常のなかでシャッターを切る瞬間というのは、どういうときなんでしょうか?
古屋誠一 それは私がそう感じたときなのですが、先にもお話ししたとおり、私に刺さってくるものが、いつも同じとは限りません。
いつも見ているのに見えていないものはたくさんあります。
それが、ある日突然自分に刺さってくる。
たとえば今回発表した作品のなかでも、花の写真は比較的最近の作品で、昨年うちの庭で撮ったものです。
ですが、花自体は突然咲いたわけではなく、毎年咲いていました。
それでも、私に撮るべきものとして見えたのは去年だったのです。
ふとした日常のなかに世界のすべてがある
──古屋さんにとって“見えるもの”とは、いったいどういうものなのですか?
そうですね、それを言葉にするのはなかなか難しいんですが、なにか不思議な感じがするものや、不安を与えるもの、あるいはちょっと怖い感じがするもの、などがそれに当たります。
少なくとも、美しいから撮るのではありません。
ですが、その一瞬に明確な意味があるかといえば、そのときはそうではなく、集積してはじめて意味をもってきます。
また、写真そのものには、ある程度曖昧性を残しておいたほうがいいとも考えています。
見た人が、その人なりに判断できるところが写真のいいところだと思っていますから。
──そして、そうしたちょっと不思議な瞬間は、やはり身近な日常にあるということですね。
そのとおりです。
だから私は、あえてテーマを決めてどこかに写真を撮りに行ったりはしません。
わが家の庭ひとつとってみても、そこにはすべてがありますから。
大げさではなく、世界のすべてがあります。
今回の展覧会には、昨年庭で撮った写真から、30年近く前に純粋にスナップとして撮った写真まで、さまざまな日常がちりばめられていますが、これらすべてがひとつになって、いまの私そのものなのです。
──それでは、われわれもこの展覧会で、古屋さんの物語に共鳴しながら、自分自身の人生をトレースしてみたいと思います。今日はどうもありがとうございました。
こちらこそ、ありがとうございました。
古屋誠一写真展『im fluss 流れゆく』
日程:8月3日(金)まで開催中
時間:12:00~20:00(月曜定休)
場所:RAT HOLE GALLERY(ラットホール ギャラリー)
港区南青山5-5-3 HYSTERIC GLAMOUR 青山店B1F
TEL:03-6419-3581