人の営みも実りも豊かな島、壱岐島へ!|TRAVEL

壱岐島の象徴的な自然、「猿岩」。

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2023年10月31日

人の営みも実りも豊かな島、壱岐島へ!|TRAVEL

TRAVEL|壱岐島

壱岐島レポート・第一回

壱岐島は博多港から約1時間で着く。山手線をひと回り大きくしたほどのコンパクトな島には自然豊かな風景が目に飛び込む。太古からの歴史が島の随所に点在する貴重な島でもある。さあ、壱岐島に行こうではないか!

Text by KITAHARA Toru

その歴史と風土を感じてほしい。

ジェットフォイルに乗れば博多から約1時間で壱岐島に着く。
東京は羽田発6時台の飛行機に乗って、福岡空港に行き、福岡空港から地下鉄で博多駅、そしてバスで博多埠頭まで行く。博多港から九州郵船のジェットフォイルに乗れば約1時間10分で壱岐島(郷ノ浦港は70分、芦辺港は65分)に到着する。ちなみにこのジェットフォイル、船なのに向かって右に「BOEING」のロゴがある。詳しいことは調べていただければと思うが、要するに海水から揚力を得て飛ぶ“海の飛行機”なのである。船でありながら、米国シアトルのボーイング社の航空機製造工場で製造されたという。おかげで船のようなふわふわとした揺れもなく、時速80kmで飛行機のような、自動車のような乗り心地で船旅ができるのである。
話は戻るが、早朝に東京を出れば、11時35分には壱岐島の町の港、芦辺港に着く。
壱岐という島は、島そのものを体感することをお勧めしたい。というのも、「この島には何もないけれど、すべてが揃っている」といろんな人の口から発せられる。島そのものが豊かであり、その豊かさを感じてほしいのだ。

コンパクトな島を感じてほしい。

資料制作/「クロスポート 武生水」秋山卓司さん
そして、もうひとつ、ついて早々に感じてほしいことがこの島がとてもコンパクトな町であるということだ。レンタカーを借りて走り出すと芦辺からなら、大体どこでも島内20分も走れば着いてしまう。ちょうど山手線と重ねると渋谷が郷ノ浦町、勝本町が十条、芦辺が上野という位置関係になるという感じだ(クロスポート秋山卓司さんのアイデア)。芦辺の町を見て回るのも良いけれど、まずは島全体を感じてほしい。芦辺からレンタカーで郷ノ浦に行くも良し、原の辻遺跡に行くも良し、勝本の古き神社「聖母宮」に行くも良し(筆者は聖母宮がお気に入り)。どこに向かってもその間は大体20分なのである。このコンパクトな島を、風景を眺めながら走るとまたいろんな発見があるはずである。走っていてわかることのひとつは車社会の島なのに(人口あたりの車保有率は全国でもトップクラス)車は少なく、信号待ちで10台も並ぶと多いなぁというくらいなのだ。なので、渋滞にはまって30分かかったということもない。このコンパクトな感じは島をのんびりと過ごすためにも必要不可欠な要素なのだと考える。

島の歴史と文化。1000あるという神の社と祠

壱岐島の神社の中でも人気の小島神社。干潮のときに道があらわれ歩いて参拝することができる。「日本のモンサンミッシェル」との声も聞く所以だ。
壱岐島は歴史ある島として有名であり、歴史に積み上げられた文化を随所に垣間見ることができる。島の特長として取り上げられるのが神社の多さだ。神社が多いことで知られる新潟は米どころに神社あり、と言われる。つまり、人が豊かに暮らせる地域に神社は多く祀られたということだ。
壱岐島も車を走らせると稲作の田んぼの多さに驚くし、全国の離島でも有数の生産量を誇り、島外にも出しているほどだ。そんな壱岐島だからというにはあまりに神社は多い。神社庁に登録されているだけでも約150社、それ以外の神社が約150社あり、計300社はあると聖母宮の神主・川久保匡勝さんはいう。それに加えて、この島には「地の神」と言われる小さな石祠などをすべてを合わせると1,000を超えるというのだ。神社が多い理由を聖母宮宮司の川久保さんは「自分の家の近くにお参りしたい神社を分霊して増えたのではないか」と考察する。さらには各家庭にはほとんどあるといって過言ではないほどに神棚が祀られている。「神が宿る島」と言われる一因だ。
また、島内を車で走っていると道に突然神社の鳥居が現れることもしばしばある。「人間至る所に青山あり」というが、壱岐島では「島内至る所に神社あり」なのである、コンパクトな島だけに、その数のインパクトは存分に感じてもらえることだろう。
そして、壱岐島には神事芸能として「壱岐神楽」が700年間から続き、今も残り、続けられている。国指定重要無形文化財に指定され、壱岐の神社に奉職する神職にしか舞や伴奏をすることが許されない神聖なものだ。舞や芸能の古くからの形は狭いところで行われたという。「壱岐神楽」は譜面等はなく、口頭のみで伝承され、たたみ2畳の上で舞われる。秋から冬にかけてほぼ毎日奉納されているので、タイミングが合えば、ご覧いただきたい。約40分の舞台となる。
壱岐島の神の話としては、日本最古の歴史書『古事記』に登場する。国生み神話によると、伊邪那岐(イザナギ)と伊邪那美(イザナミ)の夫婦神によってつくられた8つの島のうち、5番目に生まれたのが「伊伎嶋(壱岐島)」とされる。

一支国(いきこく)博物館で壱岐島の歴史を知る。

『古事記』が出てきたので、少し歴史のお勉強をしてみよう。
壱岐島といえば、原の辻遺跡、というくらいに島の象徴であり、日本3大弥生遺跡として登呂遺跡(静岡県)、吉野ヶ里遺跡(佐賀県)と並んで“史跡の国宝“といわれる国の特別史跡に指定されている貴重な遺跡である。
「原の辻遺跡」夜に大地に寝転んで星を見ると宇宙にぽっかり浮かんだ気分になれるそうだ。
原の辻は「魏志」倭人伝(ぎしわじんでん)(「『三国志』魏書巻三十、烏丸鮮卑東夷伝倭人条」の略称)に記された「一支国(いきこく)」の王都に特定された遺跡である。紀元前2~3世紀から紀元3~4世紀(弥生時代~古墳時代初め)にかけて形成された大規模な多重環濠集落で、東西、南北ともに約1km四方に広がる広大な場所だが、ここではおそらく人は住めなかったであろう、と壱岐市教育委員会学芸員の松見裕二さん。「耳取の辻」といわれるほどに冬は寒く、おそらく人が暮らすのは近辺の丘の下だと考えられるとのことだった。
3~4世紀頃につくられたと考えられる「人面石」も話題になった。この人面石は画家ムンクの代表作「叫び」にも似たユニークさで一支国博物館常設展示室に展示されている。
島内に古墳は280基が確認されているという。古墳時代5〜7世紀につくられたものが多く、対馬にはそれ以前の時代のものが多いという。これは対馬を対外的に防衛の要所としていたのが徐々に壱岐に移って行ったと考えられる。特に壱岐の古墳群には変わった特徴があるという。大きな古墳は豪族の権威の象徴であり、それは他の古墳と変わらないのだが、ひとりの権威者のためではなく、家族単位で、まるで現在の墓のような感覚でつくられているそうだ。
これは何のため? と思うなかれ。対外的には古墳をつくるような豪族がたくさんいる島として威嚇の効果は十分にあったと考えられているのだ。

豊富な地下水、水田の多さはまさに奇跡。

平野には美味しいお米の採れる水田が広がっている。
ここで、壱岐島の魅力のひとつ、水田の多さに注目したい。
島内を車で巡ると嫌でも目につくのが水田だ。歴史的にも興味深いのだが、古代からこの地には稲作が盛んだったらしく、弥生時代、古墳時代、やがて訪れる元寇(鎌倉時代、今年は文永の役から750年)、豊臣秀吉による朝鮮出兵、そして、最も稲作を拡大させたのが平戸藩の政策であり、それが見事に現在へとつながる江戸時代、この壱岐島はずっと豊かでありつつづけた。それを支えたのが稲作に他ならない。
壱岐島はコンパクトな島ながら、川が流れ、水が湧くそうだ。ちなみに筆者は計8日間の滞在期間中、一度も湧水を見たことがなかった。
「壱岐島は、およそ4,000万年から3,000万年前の古第三紀(漸新世)に海底で堆積してできた厚い砂と泥の層(勝本層)が地殻変動で隆起してできた。その後、長期の火山活動で湯本~筒城線上では断層が生じ、地層の弱い所を突きぬいて、次々とマグマが噴出。おもに流れやすい玄武岩流が何回も流出して島全体をおおい、なだらかな溶岩台地となりました。溶岩流の間には火山噴出物の砂泥、砂石、砂礫、軽石質の凝灰岩などの層があり、長い時間をかけて浸み込んだ水はこの層に含まれて、地下水脈となって湧き水となり島を潤し稲作などの作物や人々の暮らしを助けてきた。」(山内正志さん)
「そもそも壱岐島には平地が少なく、幡鉾川(はたほこがわ)、谷江川、刈田院川の流域の沖積平地と小さい川の下流のわずかな平地で稲作は行われてきた。現在のようになったのは、江戸時代の平戸藩による干拓工事で平地を造成させて水田にしたためだ。財力のある鯨組が命じて陵を掘り、湿地や海岸を埋め、島民は労働力を提供して日銭を得た。
 平戸藩は厳しい地割制度で、一般島民に屋敷地と前畑(野菜畑)と背戸の山(防風のため)を与え、あとはすべて各戸の労働力に応じて貸し与え5年~10年ごとに割りかえた。そのことが壱岐島の農家が散村となった理由。」(山内正志さん)
つまり、この島の平地は「自然にできた」のではなく、「つくられてできた」平地なのであった。

2024年、元寇750年を迎える。

歴史的なことを書いてきたので、ここで元寇750年を迎えることも書き記したい。
鎌倉時代に、日本が外国(元=蒙古)から本格的な侵攻を受けたのが「元寇」。
2024年、「文永の役」元寇襲来から750年を迎える。歴史の教科書では、日本の武士たちが博多湾で懸命に戦い、最終的には神風が吹いて元軍が退散したとされているが、博多湾での攻防以前に、壱岐では元軍との決死の戦いがあったことはあまり知られていない。
元寇を簡単に解説してみよう。
13世紀に蒙古民族を統一し、東は中国から西はヨーロッパまで、広大なユーラシア大陸に大帝国を建設した元は、朝鮮半島の高麗を服属させたのち、海を隔てた日本にも臣下になれという内容の国書を持たせた使者を何度も送った。しかし、北条時宗執権の鎌倉幕府は、これらをことごとく無視し、その要求を拒んだ。怒った元の皇帝・フビライは、日本に攻め込むための兵と食糧の供出、そして軍隊を運ぶ船の建造を高麗に対して命じ、文永11(1274)年に最初の出兵である「文永の役」が勃発した。
文永11(1274)年10月3日、高麗を出発した2万5千の元軍(蒙古軍・高麗軍)を乗せた900隻の船団は、10月5日に対馬を襲うと、14日には壱岐へと侵攻。夕方、島の北西部にある浦海(うろみ)、馬場先(ばばさき)、天ヶ原(あまがはら)の海岸から上陸。
文永の役で元軍を迎え撃ったのが、壱岐の守護代を務めていた平景隆(たいらのかげたか)。景隆は居城である樋詰城(ひのつめじょう)からおよそ100騎の家臣を従えて出陣すると、庄の三郎ヶ城前の唐人原(とうじんばる)で元軍と激突。約400人の元軍と対峙した景隆らは多勢に無勢もあって退却を余儀なくされ、樋詰城まで引き揚げたが、翌15日には早朝から元軍に取り囲まれて総攻撃を受け全滅した。
この「元寇」より以前には1019年の「刀伊の入寇」があった。刀伊と呼ばれる女真の一派とみられる集団を主体とした海賊が大陸から船で日本に渡ってきて、襲撃した事件である。刀伊の襲来で多くの人々が殺された。特に対馬と壱岐の被害は甚大なもので、家畜や犬までもが殺され、食われ、穀物は略奪され、民家は焼かれた。特に壱岐に残ったのはわずか35名という記録があるといわれる。
刀伊が襲って来たのは1019年3月28日、すぐに太宰府へ急報が伝えられた。当時の太宰府の実質的な最高責任者は太宰権師(だざいのごんのそち)の藤原隆家。この隆家は、2024年NHK大河ドラマ「光る君へ」に登場する。隆家は豪傑であり、刀伊に対しても果敢に撃退戦を繰り広げたと伝えられる。
このとき刀伊族は壱岐の西海岸部の片苗湾から上陸。壱岐の国司だった藤原理忠が迎え撃つのだが、激戦の末に戦死。この古戦場跡を見下ろす丘の上には理忠の墓がある。
隆家は逃亡する刀伊を船で追い、追撃戦を行なった。刀伊の船には対馬・壱岐でさらわれた日本人が多く乗っていたたといわれ、助けるためにも最後まで叩いたといわれる。
ちなみにこの藤原隆家は紫式部の『源氏物語』の執筆をバックアップした藤原道長の甥にあたる。清少納言が使えた藤原定子の弟が隆家であり、「枕草子」にも少しだが、隆家の話は書かれている。
ただ豊かな営みだけを見ることができる現在の壱岐島だが、まさに紆余曲折、悲惨な歴史も多々あったのだ。
最後に壱岐の伝統工芸である「鬼凧」を紹介して、壱岐島レポート第一回目を終了したい。
「鬼凧(おんだこ)」は壱岐島が鬼ヶ島とされ、鬼退治で斬り落とされた鬼の首が空中に飛び、討伐した若大臣の兜(かぶと)に噛み付き死んでしまった。その勇士の姿を描いたものだ。江戸時代からつくられてきた縁起物で、初節句やお祝い事に贈る習慣は今でも続いている。斉藤あゆみさんは現在唯一の鬼凧をづくりを継承している人。黙々と工房で竹を割り、竹ひごにし、骨組み、紙張り、絵付けをしている。
「子どもの頃からずっと鬼凧をつくる祖父母の姿を見ていました。学校が終わるとここによくいました。夜になるとお母さんが迎えにくると言う感じで、夏休みとかの休みはずっといました。最近まで福岡にいたのですが、おじいちゃんが怪我をして、最初はお見舞いと手伝いをしていたのですが、その回数が多くなり、後を継ぐためだけに島に戻ってきました。それから本格的に技術をおじいちゃんから教えてもらいながら。ときにはおばあちゃんの手助けもあって」
島の宿をはじめ、飲食店などでは天井に飾っているのを幾度も見かけた。島に息づく伝統のひとつだ。
インタビュー取材・須藤資隆さん(壱岐市立一支国博物館館長)、松見裕二さん(壱岐市教育委員会文化財班) 、斉藤あゆみさん
                      
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