NEW CREATOR’S FILE Vol.12 長坂芳樹|Photographer
NEW CREATOR’S FILE Vol.12_長坂芳樹|Photographer
『10 YEARS AFTER』
Yoshiki Nagasaka
2005年の春、私は10年後の世界を撮影するためにノースウエスト18便のエコノミーシートに座っていた。B級映画のコメディーを1本とアクションを1本見終えたところで眠りに落ちてしまった。
そう、日付変更線を越えてアメリカ大陸の上を飛んでいるあいだ、私は夢のなかで何かを探しているようだった。散らかった部屋や、喧噪の街を探しまわっていた。走り疲れ、そして途方に暮れているところで目が覚めた。
いったい私は何を探していたのだろう。目が覚めてしまった私にはもう知るすべはない。寝ぼけている私に体格のいいキャビンアテンダントがシートベルトを締めるようにといった。
もうすぐ懐かしいニューヨークなのだ。窓のシェードをゆっくり開けると眩しい朝日に照らされてマンハッタンが見えてきた。細長い台の上に積み木をギッシリと並べたようにビルが並んでいる。
その中央に一際目立つのがエンパイヤーステートビルだ。記憶をたよりにマンハッタンの輪郭を思い出す。
あれはイーストなのかウエストなのか、いや方角が分からない。一体どういうことなんだ。まだ夢をみているのだろうか。エンパイヤーステートビルからずーっと南の先に在るはずの二本の塔が見つからない。
そうだ。私が見ているのは10年前のニューヨークではなく、現在のニューヨークなのだ。私は以前撮影したアーティストたちの10年後を撮影するためにニューヨークへ向かったのだ。
高度が下がるにつれてジョンFケネディー空港が近づくにつれて、現実があらわになってゆく。
「はたして、彼らに会えるのだろうか?」
私はこれから会おうとしている彼らの所在をほとんど知らない。
連絡が取れたのはたった2人。その他は古いアドレスしか分からないのだ。ニューヨークから何処かへ引っ越していても不思議ではない。
「彼らに会えるか?」
私の不安のような暗い雲間を抜けてノースウエスト18便は10年後の世界へと降りていった。
Q&A
カメラマンになろうと思ったきっかけは?
もともとはグラフィックデザイナー志望だったのですが、写真の授業を受けたときに自分の感覚に合っている思ったのがきっかけです。
プロを実感した仕事は?
随分昔ですが、雑誌の仕事で勝新太郎さんを撮影させていただいたとき。写真に写るものは何かを教わったような気がします。
自分の作風についての自己解説を
いかに被写体とセッションできるかを心がけて写真を撮っています。
今回の作品群にタイトルをつけると?
「10 YEARS AFTER」
今回の作品のどこを見てほしいですか?
アーティストの10年後がテーマですが、何が変わり、何が変わらないのか。10年前(モノクロ)と10年後(カラー)の写真のあいだの時間を想像してもらいたいですね。
自分のライバル(同業者に限らず)
ライバルというよりも尊敬するアーティストはたくさんいます。
今後の展望は?
人と旅をテーマに作品を作っていきたいですね。
作品を見たオウプナーズ読者にひとこと
写真集『10 YEARS AFTER』をぜひ、手に取って見てください。
長坂芳樹(Yoshiki Nagasaka)
東京都出身
1964年 東京に生まれる
1988年 渡米 ケイ・オガタに師事
1992年 帰国,独立しフリーカメラマンになる
1995年 個展「VOICE」I.C.A.Cウエストンギャラリー
1996年 グループ展 NYにて「FACE to FACE」SWAN Gallery
2006年 個展「カレラノユクエ」UPフィールドギャラリー
使用カメラ
ハッセルブラッド
公式サイト│http://www.yoshiki-nagasaka.com/
写真集『10 YEARS AFTER』
長坂芳樹
3150円(税込)
春日出版
10 YEARS AFTER(長坂芳樹)
「ロードムービーのような作品を」
20億光年の彼方から飛来した巨大な隕石のかけら。あるいは、太古の遺跡から発掘された化石のようにも見える。が、どうやらそれは、彫刻をアートワークとするポール・ルケーシーが造形したオブジェのような美術作品らしい。仄暗く沈んだフレームの奥。ぽっかりと空いた小さなクレーターのような穴。そこから覘(のぞ)く男の瞳は、いったい何を映し出しているのだろうか。
『10 YEARS AFTER』。長坂芳樹の写真に初めて出逢った時、僕はこの写真が作品への入口だと思った。あたかも、遙かな時を越えた男の視線の先に、創作への情熱や栄光への野心ばかりでなく、「NYという都市が刻み続けているアーティストの時間」というものを垣間見る気がしたのだ。
扉を開けて、一部屋一部屋進んでいく。
でっぷりと肥満した、醜い女の肖像を背景にして椅子に腰掛けたエテリ・チャカドウアがいる。自身が手がけた極彩色の絵画でしき詰められたアトリエに、もんどりうって昏倒するデミトリー・ストリゾーがいる。10年が経ち、すっかり父親顔になったマイケル・グレイの穏やかな表情と天真爛漫な我が子の微笑みがある。
「ロードムービーのような写真集が創りたい」長坂の願いは、ただ純粋に、ニューヨークという都市が刻み、産み続けているアーティストの時間と、彼らの表情の移ろいとを「この世界に残したい。さまざまな人たちに知って欲しい」という一途な情熱以外の何物でもなかった。「彼らのうちの一人でも世界的に有名なクリエイターならね」月並みだが、企画の趣旨そのものに対し、そんな手厳しい一撃を加える写真家、編集者も少なくなかったと聞く。
けれども、長坂が希求した地点は、そういうミーハーで他力本願なネームバリュー志向の作品創造とは掛け離れていた。有名無名に関わらず、被写体が放つ生命の息吹を克明に焼き付けた幾枚の記憶を、時代の実像として、世界のエレメントとして提示してみようと試みたのである。
果たして、その挑戦が幾人の読者の胸を打ち、彼ら自身が歩んで行く10年という年月に変化をもたらすのか。本書の構成は、1995年に撮影されたモノクロの写真と2005年に再度渡米した際、撮られたカラー写真、長坂自身が訪ね歩いたアーティストたちとのエピソード集「カレラノユクエ」となっている。
アーティストが、アーティストたらん生き方を標榜するのに対して、人が人として生きていく未来探究への一つの糸口が、ここには輝いている。