連載・和醸和楽|「がんばろう! 東北」 第1回 岩手の南部美人より東日本大震災のご報告
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2015年5月25日

連載・和醸和楽|「がんばろう! 東北」 第1回 岩手の南部美人より東日本大震災のご報告

「がんばろう! 東北」 第1回

岩手の南部美人より東日本大震災のご報告

2011年3月11日、午後2時46分、この日を私は一生忘れません。そう、未曾有の被害をもたらした、東日本大震災の日です。東北地方を中心に、多くの尊い命が失われ、いまでも行方不明者、そして行方不明者にもカウントされない方々が多数おります。あらためてご冥福をお祈りいたします。

文=「南部美人」五代目蔵元 久慈浩介

「停電しましたので、新幹線は一時停止します」

海外の皆さまからも、この大震災で多数の方々からご心配と、お見舞いのメッセージをいただきました。今回のコラムからは、この大震災について、いまの日本の現状をご報告させていただきます。

2011年3月11日、私は二戸駅から13時09分出発の「はやて」に乗り、仕事のため東京へ向かっていました。10号車14番C席が私の座席でした。穏やかな春を思わせる暖かい日差しを覚えています。仙台駅で多くのお客さんが乗り降りして、仙台駅を出発後、スピードに乗って、新幹線はトンネルに入りました。午後2時46分、トンネル内で新幹線の照明が突然消え、真っ暗になりました。車掌さんのアナウンスで「東北地方に大きな地震がありました。停電しましたので、新幹線は一時停止します」と言われ、徐々に新幹線は減速し、トンネル内でストップしました。

止まってしばらくして、電車内の電気がつきました。アナウンスでは、大地震が起きたので、新幹線の線路をすべて確認している、とのアナウンスが繰り返し流れます。しかし、いつになっても復旧せず、数時間が経ったあと、急に電気が消えて真っ暗になりました。自家発電の節約のようで、これは長期戦になると感じました。

何度か家族にメールしてもまったく通じず、情報から隔離された状態になりました。車掌さんから「修繕に長い時間がかかる模様。長期戦になります」とアナウンスがあり、仕事もふくめ、この日の予定をすべてあきらめました。

新幹線の電気は消え、真っ暗。携帯はつながらずバッテリーはもうない。食料も新幹線の車内販売は売り切れ、そして飲みものはペットボトルの水が半分。さらに新幹線はすべて電気で動いているため、トイレも水を流せない、暖房は切れて、非常に寒い状態になりました。

私のいた新幹線の10号車には多くの子どもたちが乗っていました。私の席の後ろにはまだ1歳にも満たないような赤ちゃんを連れた親子がおりました。毛布は新幹線のグリーン車にありますが、枚数がまったく足りません。赤ちゃんを抱えた親子に私のコートを差し出して、私は持っていた岩手日報の新聞を足に巻き、うずくまるように目を閉じて時間をやり過ごしました。

12時間近く経って、ようやく最初の救援物資が到着。おにぎりとパン、そしてペットボトルの水とジュースが配布されました。水分が一番心配だったので、これで一安心でした。しかし、おなかが空いていましたが、どうしても食べる気になれない。それはトイレがまったく動かない状態なので、そのプレッシャーもありました。男の私ですらそうですから、女性はかなり大変だったと思います。

とにかく情報がなく、車掌さんのアナウンスだけが頼りです。この時点で、大きな津波が来て、沿岸部が壊滅状態になっていたことはまったく知りませんでした。このときの私の心境は「運が悪かった。仕事の予定がすべてくるってまいった。まったくJRはなにをやってるんだ」という気持ちでした。いま考えればとても恥ずかしい思いです。とにかく自分のことしか考えられない、本当にいま思えば情けない状態でした。

そのうち、アナウンスで「新幹線内が一番安全です。決して新幹線から出て帰らないでください」と流れつづけます。ふと窓から外を見てみると、トンネル内を歩いているひとがいっぱいいました。「なんだろう」と思い、見てみると、東北新幹線はすべて「禁煙」でした。煙草を吸うひとがみんな外に出て煙草を吸っていました。こんな非常時にマナーを守るなんてすごいな、と思いましたし、救援物資はすべて女性と子どもたち優先、と乗客みんなで協力し合って新幹線の中で過ごします。

暗闇の中ですから、時計を見ても時間があまり理解できません。おおよそ20時間以上経過して、やっと「救助が来ました」という連絡が入ります。ちょうど止まっている新幹線の200メートル近い先に脱出用のトンネルがあるとのこと。やっとそこへ救助のバスが用意できる見込みができたと、アナウンスがありました。あとから聞いてみたら、トンネル内ではなく、線路の上で止まっているだけの新幹線の乗客は地震後歩いて最寄りの駅に移動したようで、トンネル内で被災、という特殊な事情から救助が遅れたようです。

救助の見込みが立ち、新幹線内で妙な連携ができた乗客同士、よろこび合います。そしてまずは東京方面と青森方面のふたつに分かれます、との話でした。東京に行くひと、青森方面に帰るひと、これを分けてまずは新幹線から脱出します。最初は東京方面へ移動するひとが新幹線を降ります。しばらくして、青森方面に帰るひとが新幹線を降りる予定でしたが、かなりの時間待たされました。どうしてこんなに遅いんだろうと思ったら、その理由がやっとわかりました。それはバスの用意が間に合わなく、当初は青森方面にバスで帰してもらえるはずだったのが、青森方面に帰るひとは急きょ福島市内の避難所に移動することになりました。
岩手に帰れるのか?

先の見えない混乱のなかで……

トンネルからやっと救出された青森方面に帰る組。しかし最初に東京方面に帰るひとたちはバスに乗り込み、東京方面へ帰りましたが、青森方面に帰るひとはバスが2台しかなく、とても乗りきれないので、ピストン輸送で、福島市内の高校の体育館の避難所に急きょ移動させられました。避難所生活です。

避難所に到着すると、パンと飲みものが渡されました。ガスと水道は止まっていましたが、この避難所は電気が奇跡的にとおっていて、テレビを見ることができました。ここで一同唖然。大きな津波が沿岸部を襲っている映像が繰り返し流されています。沿岸の方から来ているひとは泣き崩れ、親族に電話をして安否を確認するひとが多数。

しかし携帯はまったくつながりにくい状態で、なかなか電話がつながりません。1台だけあった公衆電話は長蛇の列。そして、丸一日以上閉じ込められていたため、携帯のバッテリーがみんななく、コンセントの前では携帯の充電のための長い行列。本当に混乱の極みでした。そして、極めつけは、福島第1原発の事故がわかり、その原発事故で福島市内の避難所は大混乱をします。あとでわかりましたが、福島第1原発からは80キロ近く離れていましたが、土地勘がまったくないため、放射能におびえます。

やっと私はメールで家族に連絡がつきました。電話はまったく駄目でも、メールはつながりました。二戸にいる家族も大変だったようで、混乱しています。そして停電の影響で、蔵がとても心配でたまりません。仕込みはボイラーが使えないから、できないだろう。麹室は温度を高くしているが、どうやってあたためるか。しぼりはどうなっている。不安だらけです。その不安のなか、配給された毛布にくるまって眠ります。体育館は本当に寒く、眠れるような状態ではありませんでしたが、身体を休めなければもちそうにありません。寒いなか、とにかく横になりましたが、やっぱり眠れません。避難所とはそんな過酷な状態の場所なのです。

JRの職員に聞いてみても、いつバスが用意できるかわからない、それは福島原発の事故で、避難指示が出たため、そちらにバスが優先的に行っているとのこと。さらに新幹線はまったく動く見とおしが立たないとのこと。結局一ヵ月以上新幹線はとおらないことになります。高架が崩れてしまったところも多く、復旧に非常に時間がかかったそうです。

眠ることができないので、外を散歩しようと出てみると、校庭に1台のタクシーがいます。そのタクシーに乗り込もうとしている方々に声をかけてみました。タクシーはなんと、仙台、盛岡に行ってくれるということで、3人で代金をシェアして乗るということがわかり、その3人のなかのひとりが「盛岡までならもう一人乗れるので、一緒に行きましょう。荷物をまとめてきてください」と声をかけられました。

なんというラッキー。どうやって帰るか見とおしが立たなかったところに、光が差し込みました。しかし、おなじように体育館に避難している200人近い方々は動くことができず、自分だけ帰っていいのか迷いましたが、家族のため、お酒の仕込みのため、帰ることにしました。すぐに荷物をまとめて、タクシーに乗り込み、高速道路が止まっているので、一般道路の国道4号線を北上していきます。途中大渋滞にも巻き込まれながら、どうにかして家にたどり着きました。夜中でしたが、家族と再会して、みんな無事を確認し、気が緩んだのか、みんなで大泣きしました。家族が離れて被災する、というのは本当につらいことだと思いました。

たまたま散歩をしに外に出て、たまたまタクシーをみつけて、たまたま声をかけて、たまたまタクシーがガスを満タンにしていて、まだガソリンが足りないと騒動になる前だったなど、本当に偶然が重なり早く会社と家に帰ることができました。これがなければ私もしばらくは避難所生活がつづきました。こうして、ようやく家族と一緒になりましたが、ここから、とんでもない沿岸部の津波の被害と、原発の被害が東北を襲っていることがわかり、唖然とします。

また時期を見て、このあとのお話は書きたいと思います。ご存じのとおり、岩手県をはじめ、東北の被災地は復興に向けて力強く歩みはじめています。日本中の、いや世界中の皆さんの力をいただきながら、頑張っています。
私たちは負けません!!

必ず、将来の子どもたちのために、明るい東北を取りもどすために、いま私にできること、そしてもてる能力すべてを使って東北のために行動していきます。

がんばろう! 東北!!

南部美人
五代目蔵元 久慈浩介

南部美人
http://www.nanbubijin.co.jp/

           
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