【連載】時を繋ぐ人|自分の名声より、未来の誰かに、変わらぬ音が届くことが願い。
時を継ぐ人|井筒 功(NEO TOKYO STRINGS)
ストラディバリウスを知っている人は多いだろう。17~18世紀のイタリアのストラディバリ父子3人が制作した弦楽器であり、名器とされる。現在もその音色は愛好家たちの心を震わせている。数百年前に作られたヴァイオリンが今なお第一線の舞台で鳴り続けている理由は、傷めば直し、朽ちれば継ぐことを続け、最良の状態にし続けてきた多くの修理職人たちの技術が紡いできたからこそ。東京で工房「NEO TOKYO STRINGS」を営む井筒功さんは、ヴァイオリンという“数百年を生きる物”に日々向き合いながら、その物語を次の世代へと受け渡している。
Text by KOIZUMI Yoko|Photographs by OTAKI Kaku|Edit by TSUCHIDA Takashi
反発から始まった、遠回りの道
年季の入った作業台、壁には制作中のヴァイオリンや自作の道具、特製のニス、クランプなどが、作業ごとに整然と並ぶ。それらが整然と作業ごとに分けて置かれている。その一角に掲げられているのは額装されたシカゴ・ヴァイオリン制作学校の終了証。異国の学び舎こそが、井筒さんを弦楽器職人たらしめた場所である。
父・信一氏もヴァイオリン職人で、工房に併設されたアパートで育った。だが父は幼い息子を作業場に入れなかった。「危ないからというよりも、自身の集中を乱されたくなかったのだと思います」と振り返る。
長男には家業を継いでほしいと、父は折に触れて口にしていたが、強い押しつけはなく、道具の研ぎ方さえ具体的に教えることはなかったという。国内で修業し、海外の第一線を知らないまま苦労を重ねた父には、息子にはできれば海外で学んでほしいという思いが強くあったようだ。
しかし、少年時代の井筒さんはクラシック業界そのものにどこか距離を感じていた。発表会を彩る独特の衣装や雰囲気、大人たちの間で交わされる会話や金銭のやり取りに、居心地の悪さを覚えたのだという。まったく畑違いのスタントマンに憧れて17歳で高校を中退、上京するも生活は困窮し、やがてファッション業界へと軸足を移していく。
転機が訪れたのは、父の勧めでヴァイオリンの店に勤めたこと。そのストレスを見かねてシカゴのヴァイオリン制作学校への留学を勧めてくれたのは、父の元に夏の間下宿していた同校の卒業生だった。19歳でシカゴに向かい、3年半にわたる留学生活が始まった。
「面白い」を教えてくれた人たち
お金はなかった。ポップコーンとコーヒーで食いつなぎ、1日1食で過ごしたことも多かった。決して楽ではなかったが、それでも学校を辞める気にならなかったのは、ヴァイオリンをきっかけとした出会いがあったからだ。
一人は10歳年上の日本人の先輩。
「大学を卒業してから留学したという人物で、昭和の大学生然とした佇まいでしたね。彼は僕に、ヴァイオリンのことやクラシックについてを、それまでの見知っていた側面とはまったく違う角度から面白く語ってくれました」
もう一人は、ドイツでマイスターの資格を得て、シカゴの老舗で働いた経験を持つ校長だった。
二人がヴァイオリン作りを、アートとして、ものづくりとして語って聞かせてくれたおかげで、井筒さんは「ヴァイオリンは面白い」と思えるようになったのだという。
そしてもう一人、井筒さんに職人の方向性を示した人物がいる。ロサンゼルスで一人工房を営むドイツ人ルシエール(luthier/ヴァイオリンなど弦楽器の制作・修理を行う職人)である。
井筒さんは卒業後もすぐには帰国せず、アメリカの名の知れた工房でルシエールとして経験を積む中で出会った。
「その方はコピーイストとしても活躍していました」
コピーイストとは、名器を調整しながら、そっくりの複製品も作る仕事だ。
「そのコピーが気に入られると、そのまま『セカンド』として買われていくんです」
名器のセカンドを作る実力を持つルシエールの工房は、ショールームを兼ねた開かれた空間に楽器が並び、本人はその奥で作業をしていた。
「探求心があり、制作にも真面目に向き合っているのに、どこか肩の力が抜けていて、ギスギスした感じがないところが新鮮でした。嘘をついていない感じといいますか、人間味があって、ヴァイオリン作りが本当に好きなんだなという気持ちが伝わってきたんです」
開かれた工房で飄々とものづくりに向き合う三者三様のスタイルに触れたことが、井筒さんに「ヴァイオリンは面白い」と、この道で生きていく決意をさせたのだという。
「己を出すな」——制作と修復の間にあるもの
帰国した井筒さんは、父の工房で5年ほど働いた。仕事の話をゆっくり交わせる環境ではなく、自身のポジションも曖昧なままだった。それは芸術家が二人いるようなもので、互いに居心地の悪さを感じるようになっていったという。
32歳での独立は、父との訣別というよりも、それぞれの仕事のありようを見極めた末の、自然な選択だったのだろう。
東京に工房を構えて以来、井筒さんは自身の作品の制作と修復の両方を手がけてきた。この二つの仕事について、井筒さんは明確な一線を引く。
「制作には“自我”が入り込む余地がありますが、修復は持ち主とオリジナルの楽器に奉仕する仕事。そこに職人が自我を持ち込めば、楽器そのものを損なってしまいかねない」と話す。塗装を全部剥がしてしまう、小さな修復であってもすべてバラバラに分解してしまう。そうした「己を出す」修復の危うさを、井筒さんは繰り返し見てきた。
シカゴの学校でも「修理すること、修復することとは何か」と問われ続けた。オリジナルにどこまで近づけるべきか、道具として残すのか、それとも歴史として残すのか。
最終的な判断基準は持ち主が、楽器をどうしたいかに寄り添うことだが、優れた道具にするにしろ、歴史の一部になるにしろ、それぞれを実現するだけの「腕」がなければ意味がない。
量産品と手作りの違いは「すぐにわかる」。だがその差を言葉にするのは難しい。駒の足を表板の曲面に隙間なく密着させる技術、パーフリングの入れ方——誠実に作られた楽器には、経験を積んだ目にしか見えない丁寧さが宿っている。
「見えないところだと雑に仕上げられているものもあります。でも、いい音が出るように、と思いを込めて作った楽器からは、ある種の念のようなものが感じ取れるんです。それにこだわっている人、心ある職人さんは仕上げがきれい。楽器を開けた時に、過去の職人の仕事の丁寧さ・雑さがそのまま見えてしまう。いい楽器であれば、自分の次の職人も誠実に楽器に向き合ってくれるはずだ、という思いはありますね」
音を継ぐ、物を通して時を継ぐ
そして56歳になった今、井筒さんの関心は少しずつ自分の作品づくりへも向いている。ストラディバリウスやガルネリ・デル・ジェスを手がけた経験は鮮烈な記憶として残るが、一からつくったものを評価されたいという思いもまた、年々強くなっているのだという。修理と制作、両方をこなせることについて、井筒さんはこう表現する。
「人生、二度おいしい」
制作の喜びは、自分の感性が間違っていなかったという自信の確認。修理の喜びは、ホッとするような安堵感。二つの喜びの質は、まったく異なる。そのふたつの喜びの間を井筒さんは行き来しながら、過ごしている。
自分の過去の仕事が戻ってくると、当時の向き合い方が手に取るようにわかるという。自らが作った楽器には、ヴァイオリン作りを辞めるそのときまで、面倒を見続けるという確固たる思いがある。
何百年にもわたり、“ものそのもの”が時代を超えて受け継がれていくことが、修理の本質なのだという。
「僕の仕事は、時を継ぐだけじゃなくて、音を継ぐこと」
ヴァイオリンは道具でありながら美術品という一面もある。だが弾かれることで初めて価値を持つ。ヴァイオリンとは弾く人がいて初めて意味を持つ楽器なのであり、飾られることを良しとしない、音こそが受け継がれるべき資産なのだ。
井筒さんの手から次代へと受け継がれていくヴァイオリンたちは、同時に誰かの時間と、誰かの音を、継いでいく。
井筒功(いづつ・いさお)
ヴァイオリン職人。父・信一氏もヴァイオリン職人という家に生まれる。17歳で上京、19歳で渡米し、シカゴ・ヴァイオリン制作学校に入学、3年半にわたり修業する。卒業後はケネス・スタイン、メッツラーといったアメリカの名だたるショップでMaster Luthierとして経験を積む。帰国後、32歳で東京に工房「NEO TOKYO STRINGS」を設立。制作・修復の両面から弦楽器と向き合いながら、ヴァイオリン制作講座を開講するなど後進の育成にも力を注いでいる。
NEO TOKYO STRINGS
Instagram:@neotokyostrings
IZUTSU VIOLIN(弦楽器いづつ)
Instagram:@izutsu_violin
※井筒信一氏(井筒 功氏のお父様)の工房