# 001 Wearable Art ─身に纏う芸術─
# 001 Wearable Art ─身に纏う芸術─
私がなぜ着物を作っているのか。そして、和服を中心に扱っている人間がなぜこのオウプナーズのファッションカテゴリーに入っているのか。興味をおもちのかたもいらっしゃるかと思います。
文=高橋理子写真=川本史織
私には、まだ早い
幼少のころから衣服に興味をもち、これまで洋服づくりから素材づくりまでさまざまな環境で学んできました。なかでもいちばん強く影響を受けたのは、大学で学んだ日本の伝統染織文化です。日本の染織技術は、美しい着物を生み出すために発展したといっても過言ではありません。
大学在籍中、洋服をつくる技術とあらたに身につけた伝統染織技術を単純に組み合わせた、「友禅染めのジャケット」や「型染めのシャツ」をつくっていた私は、卒業制作に何をつくるのかを決断するさい、自分のこれまでにつくったものを客観的に見て気づいたことがありました。それは、着物のための染織技法を安易に洋服に転用することは、私にはまだ早いということでした。その技法がなぜ生まれたのかを知らなければ、効果的に服づくりに活かすことはできない。根底の部分を知るべきであると考えた私は、いまからちょうど10年前、着物をつくることを決意しました。
着物をはじめて染めたのは大学4年生の春。そこから、私の着物との格闘の日々がはじまりました。それは、着物の制作にかんすることだけではなく、近年にできあがった着物に対する固定観念に向き合うことでもありました。着物は手入れや着付けが面倒であるというイメージや、一般的に和柄とよばれる、花鳥風月の文様が施されたものこそ着物であるという先入観が原因で、洋服とはまったく別の衣服として捉えられているのです。
現在においても、民族衣裳というより日常着にちかい存在である着物を、たんに衣服と考えることは、日本人にとってそれほど難しいことではないはずです。ましてや、これほどまでにあらゆるものが生み出され、氾濫し、すべてが受け入れられているファッションの世界においては、かんたんなことのように思えるのです。日本人としてのアイデンティティを活かしたモノづくりをすることは、ストレスもなく自然なことであるにもかかわらず、和に対する懐古的なイメージにより、着物は洋服とは異なるステ−ジに上げられてしまう。着物も洋服もおなじように手に入れることができ、どちらでも自由に選択できる時代にあって、それはとても残念なことです。
和服を洋服と同等にとらえるための着物とは
着物は「着るもの」の短縮形。和服は西洋の衣服が入って来てから区別のために生まれた言葉だそう。江戸時代には「雛形本」という流行の文様や柄を集めた小袖の見本帳(いまでいうスタイルブックのようなもの)があったり、着こなしやコーディネイトの流行を発信する、アイドル的存在もいました。衣服のかたちはちがっても、自分を美しく見せたいという思いは、いまもむかしも変わりません。現代のファッションと同じなのです。
では、和服を洋服と同等にとらえるための着物とはどのようなものか。同等とはいっても、Tシャツやジーンズと同じ感覚ということではありません。私の着物は、たとえばシャネルスーツのような少し特別な一着として、ながく大切にしたくなるものを目指して制作しています。シャネルスーツには、歴史や伝統がある。そして、職人やその技術、それを支える道具や材料のことなど、さまざまなことがその背景に潜んでいます。それは、着物も同様なのです。日本の技術、モノを大切に使いつづける心、独特な意匠、素材や構造、その機能など、キリがないほど多くのことがそこにはあるのです。
和服と洋服にかぎらず、あらゆるモノの見方をフラットにすることによって、これまで以上に多くを考え、知ることになる。このようなことを伝えるためには、ただ目新しい着物をつくるだけではなく、その着物を媒体として、いかに表現し提示するかが重要であると考えています。
この夏に行った展覧会のひとつに、大阪のELTTOB TEP ISSEY MIYAKEでの展示があります。もちろんショップ内には洋服のみ。そのなかで、私の着物がどのように見えるのか。実験的な試みでもありました。
黒と白。丸と直線。そして伝統的な着物のフォルム。最低限の要素でどこまでオリジナリティが表現できるのか。表現に自由のある時代において、あえて要素を制限し、いまの時代だからこそという無駄のないモノづくりを試みる。面積が大きく平面的な衣服だからこそ、挑戦できることは多いと考えます
壁面に絵画的に配された着物は、向かい合うトルソに同じものが着付けられています
タペストリーのようにも見える着物は、纏った瞬間、衣服という機能をもった姿になる。そして、存在する空間によってもそれはまたちがう顔を見せるのです。
歴史的な木造建築と現代的で無機質な建造物。どちらの空間にも違和感なく、それぞれに合った姿に変化する。着物のフォルムがもつチカラなのか。いつの時代にも存在する丸を使った柄の力なのか。それとも、日本人がつくったものであるからこそ、おたがいが反発せず、時代を超えて共在できるのか。今後も、さまざまな実験と検証を重ねていきたいと思っています。
この着物をELTTOB TEP ISSEY MIYAKEの空間に置いたとき、これもまた完成形のひとつなのだと実感できたのは、おなじ時代に生まれたものだからこそなのかもしれません。
和服や洋服といった枠にとらわれず、ファッションやアート、デザイン、工芸、プロダクトなど、あらゆる境界線を取り払い、着る人や存在する空間に影響を受けて変化する、インタラクティブ性をもつ作品。私にとって着物は、たんなる衣服ではないのです。過去の日本に生まれた精神性や感覚を呼び起こす媒体として、今後も背景をもった着物を生み出していきたいと考えています。