連載・信國太志|第15回 詩人になったというより詩人であったことの宣言
連載|信國太志
ある日ハートから言葉がわき出してきた
詩人としてデヴューしました
先日、神南のDictionary Clubにおける“ナンセンス2013展”において、詩人としてデヴューしました。写真は朗読中の僕ですが、顔を伏せがちなのは正直恥ずかしいからです(笑)。背景の絵は、展覧会の内容として吉岡雅哉氏と植田工伊氏の絵画で、期間中3日間会場に泊まり込みで製作がつづけられ、僕の朗読は彼らの筆使いのストロークの音と姿を背景におこなわれました。
Text by NOBUKUNI Taishi
さて何故僕がこんなキテレツな奇行に至ったのか?
また何故詩人宣言をしたのか?
それは暗に、ひとは皆詩人じゃないのか? という想いの裏返しで、詩人になったというより詩人であったことの宣言です。
また詩人とはほぼ経済活動と無関係に存在していて職能というよりはある種役立たずであることの表明であり、逆に職業とは? 経済とは? という疑問の投げかけでもあります。
しかし詩人になろうと詩を書きだしたわけではなく、詩を書こうと決心して書き出したわけでもなく、それはある日ハートから言葉がわき出してきたんです。
それも夕陽を見て感動してとかいうのではなく、むしろあらゆる事象の非存在性と言葉と物事の恣意性(名称と意味とに絶対的マッチングがないこと)を突然理解したというほうが相応しいです。
フランシス・ベーコンは本当に狂人であったんでしょうか? 井上陽水は叙情的でしょうか?
解釈としてそうみるむきもありますが、実際ベーコンは絵のモチーフが意味をなさないよう、物語を生まないよう意図的に関連性をずらし、陽水さんはまったく無作為に言葉を選んでいると思います。
詩人とは散文家ではないという意味もありますね。バロウズのようなひとを除いては散文は文章が複数集まった時点で時間軸と登場人物と物語を孕むわけで、詩とは非物語ともいえますが、最近僕がはまっている短歌に至っては、31文字でひとの人生を語ることもできるので一概にそうとは言えないものの、その逆説が短歌に魅了される一因かもしれません。
しかし31文字で人生を語り得る反面それを心得ると今度は詩の散文化にあきてもっと突き放したい、脱構築したいと思いだしてはじめたのが言葉の意味の勘違いから生まれた僕にとっての“超短歌”でして、それは5・7で終わるものです。たとえば
海の音
風に滲み
ってだけの句。だからどうというのがなく気に入っているスタイルです。
言葉を2、3ひっつけたら詩になります。そしてガルシア・ロルカやスパニッシュギターを流せばそこで何を読んでも詩にきこえます。
ナンセンス展では他者の作品も読みました。鬼というラッパーが小名浜団地の日常を詠ったものを、悲愴なクラシックに合わせて読みあげていて、そんな対比も面白かったです。
そんな簡単なことなんで皆さんもどうですか?
ところで早速辞世の句というかこれ以上はないという句ができてしまったのでご紹介しておきます。
朗読のように照れるので英語にて……
Nothing to see
nor
nothing to be seen
That place,
I am already there
because there isn't even no one to go