日産パイクカー誕生秘話 Be-1 第2回|NISSAN
NISSAN Be-1|日産 Be-1
日産パイクカー Be-1誕生秘話 第2回
そして名車は誕生した
1985年、東京モーターショー。ガソリンエンジンを搭載した自動車が発明されてから100周年という年に開催されたこの自動車ショーに、1台の小さな、黄色いコンセプトカーが登場した。これが、のちに社会現象まで引き起こすに至る名車「Be-1」。多くの苦難の末に誕生したBe-1、その誕生に尽力した人々に当時の秘話をうかがった。
Text by OGAWA Fumio
坂井直樹さん(以下・坂井) 前回は、「Be-1」の発売が日産自動車社内で了承されるまでの過程をおはなししました。 清水潤さん(以下・清水) 当時の日産自動車のS副社長から製品化にむけて前向きの評価をもらえたのですが、生産にこぎつけるには、マーケットの声もきかなくてはいけません。坂井さんは、試作モデルをつくって、原宿の街角に並べてみましょうよ、とかいろいろご提案してくださいましたね。 坂井 あたらしいクルマなので、あたらしいやりかたでプレゼンテーションするのが大事だというのが、僕の考えだったのです。 清水 常套手段としては、奇数年に開催される東京モーターショーがあります。1985年は10月末に開催だったので、8月には会社の了承をとりつけないといけません。そこで急いで、マーチをベースにプロトタイプをつくることにしました。ボディ外板をはずしてプラスチックのパネルをかぶせました。 山本明さん(以下・山本) 日産自動車は「技術の日産」をスローガンにしてきましたが、デザインでも優秀性を見せるのが、当時の副社長の新方針でした。そこで、Be-1はその考えに沿うはずだったのですが、社内では(Be-1をつくるという)コンセンサスがなかなか得られませんでしたね。 清水 もうひとつ、我われが苦労したのは、デザインのコントロール。どういうことかというと、当初、我われが考えたBe-1のデザイン原案を社内のプロの自動車デザイナーにわたしてそのあとをまかせると、どんどん坂井さんと一緒に考えたのと別の方向へと進んでいってしまうのです。 坂井 僕のなかに最終形のイメージはありましたが、自分の流儀としては、途中で口をさしはさまない。おまかせしたら、あとは進展を見守るのが、いまもかわらない僕のやり方です。でも清水さんがいろいろ気をつかってくれたおかげで、どんどんいい方向に進みました。 日産パイクカー Be-1誕生秘話 第2回 清水 はっきりいって、Be-1の背景には英国の「ミニ」がありましたね。 坂井 当時僕が仕事をしていたファッションの世界では、トレンドに敏感な連中がミニを中古で買ったりして乗っていた。それを見ていて、こういう波が来ていると考えたんです。 清水 だからといって、お手軽にそれふうのクルマをつくればよい、というわけではないのです。たとえば、Be-1で僕がとくに重要視したのはヘッドランプ。形状と径、ともにものすごく神経をつかうのです。これでクルマの印象ががらりとかわります。 山本 モーターショーでものすごく評判になって、そのとたん、社内で「1年後に出せないか」ということになったのは、もうびっくりを通り越して笑いが出ました。 坂井 それが、ファッションとも共通する時代の空気感を読むということだとおもうのです。当時の自動車デザイナーたちは、模倣は敗北だと考えていました。でも、レトロというのは、デザインに求められていたあたらしい感覚だったのです。 清水 Be-1が発表されたあと、当時飛ぶ鳥も落とすいきおいだった英国のロックバンド、「デュランデュラン」のサイモン・ルボンから日産に連絡があって、“Be-1をなんとしても1台手に入れたい”と言われたこともありました。坂井さんの読みの正しさが証明されたわけです。 坂井 “これはクルマではない”と批判もうけましたが、初代「iMac」が成功したように、プロが嫌うものでも一般にウケるものが、いろいろあるのです。東京モーターショーでは、極端にいうとBe-1の前にしかひとが集まっていなかったような印象があります。ひとは、自分が分からないものを評価したくないのですが、そのハードルを乗り超えないとヒットは出せないのかもしれません。 日産パイクカー Be-1誕生秘話 第2回 山本 1985年の東京モーターショーで大きな評判を獲得したので、急きょ社内から、1年後に出したいという強い希望が出ました。そこで限定生産なら出来るだろうと。当時はベースになるクルマがあっても、外側の鋼板や内装部品を大量生産するためには、2年近くかかりました。そこで生産部隊が、台数を限った少量生産の方法をいろいろ模索して、プラスチック材料をつかうなどすれば1万台くらいなら1年以内にできるだろうと。 坂井 それが1万台という限定生産の、本当の理由だったのですよね。 清水 本来なら神奈川県の追浜(おっぱま)にある生産工場のラインを使うべきなのですが、生産計画とあわないのでどうしようかと。そこで手作業を含めて少量生産もできる「高田工業」に生産委託をすることにしました。 山本 フレックスパネルとABSという合成樹脂のアウターパネルによるエンジニアリングも話題になりましたが、じつは準備期間などの生産の問題が大きかったのですね。 清水 僕の印象に残っているのは、社内でデザイナーはクルマのスタイルを扱う「絵描き」とおもわれていましたが、それをBe-1はかえてくれたこと。つまり「クルマの意味を作り出す」のがデザイナーだと。 坂井 市場をきちんと見るのは、デザイナーのほうが得意ですよ。 山本 価格の決定のプロセスのときもおもしろかったですね。価格を決めるのは営業部なのですが、マーチやミニなどを比較車種として、装備などひとつずつていねいに挙げて検討していき、結局ベースプライスは130万円をほんの少し切ったものとなりました。個人的には安いなとおもったのですが、それを聞いていたS副社長が、「いいかねきみたち、こういうクルマを買うかたは、価格についてあまりどうこう言わないはずだよ。180万円だって出してくださるんだよ」と言いました。そういうものかと、目からうろこが落ちるおもいでした。 清水 僕はBe-1が発表されたあと、日産自動車のデザインを統括するデザイン本部長だったのですが、おもしろかったのは、トヨタ自動車のデザイン部が何度も接触してきたことです。Be-1のヒットが、とても興味ぶかかったようです。トヨタさんにも一目置かれるクルマだったのです。そこでトヨタと日産のデザイン部どうしで懇親会をやったりしました。僕はこのとき、トヨタのデザイン部から、開発にまつわる苦労談など質問されて、(自分たちも同種のヒットを狙うために)ライバルにも虚心坦懐で連絡をとってくる、その姿勢はさすがだなとおもいましたね。 坂井 Be-1は「パイクカー」と名づけられ、「デザインで遊ぶ」は日産自動車社内でも認められました。 そして、すぐに第2弾の開発の計画が出てきました。これも僕がやるべきだというお話しをいただいたのです。 そして生まれたのが「パオ」でした。 つづく── SAKAI Naoki|坂井 直樹(さかい なおき) SHIMIZU Jun|清水 潤(しみず じゅん) YAMAMOTO Akira|山本 明(やまもと あきら)コンセンサスはなかなか得られなかった
NISSAN Be-1|日産 Be-1
そして名車は誕生した(2)
背景にあったのはあの名車
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そして名車は誕生した(3)
限定生産の、本当の理由
現ウォーターデザイン取締役。慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス教授。1960年代、渡米してサンフランシスコでファッションビジネスを立ちあげる。テキスタイルデザインが出発点だが、Be-1プロジェクトのあと、プロダクトデザインに広くかかわっている。
1962年、日産自動車入社。当時はデザイン部はなく造型課で初代「サニー」を担当。トヨタ「クラウン」を販売台数で上まわった「セドリック/グロリア230型」(1971-75年)のデザインも手がける。デザイン本部長時代は、8年間デザイン部門を統括、全車種のデザイン責任者を務めた。
1962年、日産自動車入社。設計開発部門に籍を置き、サスペンション、車体の設計ののち、技術開発企画、商品企画に従事。その間、「フェアレディZ」(Z32)(89年発売)、大ヒットした「シルビア」(S13)(88年発売)などを手がける。その後商品企画室や電子技術本部長などを歴任。