連載|スイスで活躍する日本人時計師 第3回「ジラール・ペルゴ」植松 純さん
連載第3回|植松 純さん
スイスの複雑時計ブランド「ジラール・ペルゴ」の時計師(1)
「ジラール・ペルゴ」社は、スイス時計産業の聖地、ラ・ショー=ド=フォンに本拠地を置くブランドだ。1791年の創業以来、スリーブリッジ トゥールビヨンなど複雑機械式モデルを数多く製作している。この老舗時計ブランドでも日本人の時計師が活躍していた。植松純さんは、2013年にジラール・ペルゴへ入社。複雑機械式時計の組み立てを任されている。彼はどんな経緯でこの地にたどり着いたのだろうか。
Photographs & Text by SANO PERRET Tomoko
時計師との出会いはTV番組だった
スイスとフランスの国境付近に位置するラ・ショー=ド=フォンは、ユネスコの世界遺産に指定されている時計の街。時計製造都市として19世紀から都市計画がなされ、かつては陽当たりの良い北斜面に、工房が軒を連ねていたという。
ジラール・ペルゴ社は、この北斜面を登ったところにある。社屋が大通りに面しているので、工房内のようすが窓の外からよく見える。 植松純さんは、ここで複雑時計の組み立てと修理に携わっている。
植松さんが時計師に興味をもったのは、TV番組だった。2002年にNHKが放送した『独立時計師たちの小宇宙』という番組で、ハイビジョン映像によって、精細なスイスの機械式時計を捉えたこの番組は、当時としては画期的な試みであった。独立時計師のアントワーヌ・プレジウソやフィリップ・デュフォーが登場し、機械式腕時計製作過程をインタビューを交えて追っていた。
再放送されたその番組を見たのは、北海道大学の工学部情報エレクトロニクス学科の4年生のときで、そのまま大学院に進もうか迷っていた時期だった。「自分で何かモノ作りをしてみたい」という曖昧な願望だけをもっていたころだ。
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スイスの複雑時計ブランド「ジラール・ペルゴ」の時計師(2)
フランス、そしてスイス。「やはり自分は機械時計が好きだ」
ちょうどその時、TVの画面いっぱいに、時計の精密な部品の映像が飛び込んできた。コート・ド・ジュネーブ、ペルラージュなど、美しいパーツの数々だった。「ただの鉄のかけらがこんなにきれいになるなんて」と、植松さんは圧倒されてしまう。一瞬で、機械式時計に一目惚れをしてしまった。
これがきっかけで植松さんは時計師の道に歩むことを決意する。大抵の親なら、国立のエリート大学生である息子が、なにもかも捨ててスイスに行くなどと言いだしたら、 大慌てするところだ。しかし植松さんの両親は「その道に進むなら、しっかり準備しなさい」とすんなりと同意してくれたそうだ。
どうしたら時計師になれるのか、インターネットやスイス時計協会、あらゆる時計学校へ手紙をだして調べ上げた。そのなかで唯一、ル・ロックルの時計学校からよい返事がきた。日本人であっても入学の受験が可能との返事だった。
こうして時計学校の受験に備え、まずフランス語の勉強ために2006年の1月に渡仏を決意。フランスのアヌシーで6カ月間、フランス語研修を受けた。翌年の6月には、合格率3分の1というスイスのル・ロックルの時計学校に見事合格。入試科目はフランス語、数学、それと手先の器用さをテストされた。
「入学して驚いたのは、すぐ時計に触れられたことです。日本だと、まず理論を学んでから実技と進む場合がほとんどです」
それまで腕時計の機械をまったく触ったことがなかった植松さんの、率直な感想だった。こうしてゼロから時計づくりの勉強をはじめ、3年後の2009年、めでたく時計技師の認定証を取得した。
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スイスの複雑時計ブランド「ジラール・ペルゴ」の時計師(3)
再びスイスの時計学校で複雑機構を学ぶ
植松さんが時計学校を卒業した2009年は、ちょうど、リーマンショック直後。就職が非常に困難だった年だ。どの時計メーカーも新入社員の採用を控えていた。そんな風潮のなか、アメリカで時計店を営んでいたスイス人が、「うちで時計のアフターサービスの研修に来ないか」と誘ってくれた。幸いなことにアメリカ生まれのため就労ビザの問題がなかった植松さんは、2009年の8月に渡米。翌年4月まで、ネブラスカ州リンカーンの店で、時計の修理をすることになった。
アメリカ人の顧客がもち込む時計をひたすら修理するその時の経験は、とても貴重だったという。と、同時に時計の難しい修理をするためには、自分のもっている知識ではおぼつかないことを痛感したという。
9カ月の研修が終わって、スイスに戻る飛行機に乗り込んだ植松さんの頭のなかでは、すでに次にすべきことが決まっていた。ル・ロックルの時計学校に戻って、今度は複雑時計・修復科への入学を考えていたのだ。
再度、時計学校を受験し、完全実技の入試を突破。再びル・ロックルでの学生生活がはじまった。複雑時計・修復科は、一般科とガラリと変わり、決められた課題にたいし、すべて自分で研究し、手段を選び、遂行することを求められた。自由度が高い代わりに、自分との戦いの日々がつづいたという。
卒業課題には、"Poudra"という時計師の署名入りで1820年代に製造されたといわれる、15分リピーター(レバーやボタンを操作して機械によって鐘を鳴らせる複雑機構)の懐中時計の修復を選んだ。そして修復された時計と、フランス語で書かれた厚さ5センチにものぼるレポートを提出し、念願の認定証を手にすることができた。
ジラール・ペルゴ社へ就職決定
時計学校を卒業後、念願のスイス時計メーカーであるジラール・ペルゴへ2013年11月に入社して、現在まで1年半が経過した。植松さんは、ここでふたつのモデルから大切なことを学んだという。最初に取りかかったモデル「ジラール・ペルゴ 1966 トゥールビヨン」と「ジラール・ペルゴ 1966」だ。
「ジラール・ペルゴ 1966 トゥールビヨン」は、部品数が膨大で、素材が柔らかい18金のため、傷つけないようにていねいに組み立てていかなければならない。通常、トゥールビヨンの組み立ては、決して新入社員に任せない。高い技術を必要とするだけでなく、歴史的な造形と経験がなければ組み立てられない最高峰のメカニズムだからだ。このトゥールビヨンを最初に組み立て終わったときの充実感はいままで味わったことのないものだった。
そしてもう1本は「ジラール・ペルゴ 1966」だ。デイト表示と2針のシンプルなモデルで、昔の懐中時計をおもい起こさせるようなデザインだ。時計師として、複雑なしくみの時計ばかりに惹かれることが多かったが、一見シンプルに見えるが、ていねいに仕上げられたそれぞれのパーツが、美しく調和のとれたケースにおさまっているのを見ると、ジラール・ペルゴ社の歴史的な時計のルーツに触れたような満足感を覚えるという。この2本の時計と出会ったことで、革新にたいするあくなき追求心と気の遠くなるほどの時間を惜しみなく捧げるブランドの精神を改めて学ぶことができたという。
「工房では毎日のようにあたらしい課題が降りかかってきます。それらの問題にたいする最善の解決法を、いかに的確に見つけることができるかは、時計師の腕次第です。もちろん同僚とのコミュニケーションも大切です。優秀な同僚に囲まれて、心からよかったと思います。それぞれに抱えた課題を分かち合うことで知識と経験が数倍に膨れ上がるのです」
「時計師になろう、という人は、必ず時計が好きではじめたはずです。なんとなくはじめた、という人はいないと思います。私の場合は、TVではじめて時計に出会った時の感動が、ここまで引っ張ってきてくれました。もし時計師を目指している人がいれば、その最初の気持ちをずっと大切にしてほしいとおもいます」
時計師にとって、高い技術力はもちろん必要だ。しかしそれ以上に必要なのは、植松さんのような時計に対する深い愛情と情熱なのかもしれない。
ジラール・ペルゴ/ソーウインド ジャパン
Tel.03-5211-1791
http://www.girard-perregaux.com/