写真家 立木義浩が被災地で写したもの
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2015年2月11日

写真家 立木義浩が被災地で写したもの

立木義浩|「3.11 傷跡」

写真家 立木義浩が被災地で写したもの

低くたちこめる雲の下、津波の爪痕のなかでなお屹立するレプリカの自由の女神。OPENERSにて9月11日から10月11日にわたって連載していた写真家 立木義浩氏「3.11 傷跡」のうちの一枚だ。多くの写真家がそうであったように、立木氏も被災地に足を運びシャッターを切った。未曾有の被害を受けた地で撮った写真に込めた思いは、どのようなものだったのか、本人に話を訊いた。



写真=立木義浩

ただ灰色の世界が広がり、波の音しかしない不気味さ

──まず、3.11後の社会にかんして、立木さんが現在考えていらっしゃることを率直にお聞かせください。



まず私たちは、いま生きている環境の限界に取り囲まれて生活しているのですが、いままでのどの時代よりもリスクのある生活を強いられています。地球温暖化からはじまる台風・地震・津波などの環境的リスク。食品添加物・遺伝子操作・原子力電の技術的リスク。失業の問題・治安の悪さなどの社会的リスクのなかに生きているのです。東日本を襲った大地震とそれによる大津波がもたらした災害の規模は計り知れませんが、罹災者はもちろんのこと日本だけでなく、世界の人びとが心を痛め手を差し伸べてくれました。自然災害による被災地の風景は半年たったいまでも荒涼たるものですが、自然の復元力と人間のあらゆることを乗りこえてきた力で復興することを信じています。自然界の出来事は、ことごとく諸行無常ではありますが、ひとと自然が共生してきた知恵で回復する可能性は大です。



ただ残念というより腹立たしいのは、福島の原発事故です。この事故に関係する専門家といわれる学者や組織の言い訳は、「想定外」で終始しました。原子力に手を染めながら不測の出来事に対する危機管理の甘さは、関係諸氏の思い上りと「相手(原発)の内側を読む」という本当の意味でのインテリジェンスに欠けていたのだと思います。


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激しく怒って興奮して熱り立つことは、問題の真意をぼやけさせることになり、リアリティを損じるので庶民も冷静にならなくてはいけません。時代が異常なら醒めているのが正気であろうという説をとりたいと思います。



──どの街を訪れましたか?



3月19日に福島、宮城まで足を伸ばそうと考えましたが、給油できる確信がなく、満タンでどこまで行って帰って来れるか不安でした。結局、茨城県の鹿島神宮、大洗町、那珂湊そして千葉県の銚子市、旭市をまわって帰京しました。鹿島灘の海岸一面が小さなゴミと貝殻で埋め尽くされていたありさまや、旭市飯岡の海岸通りの低い堤防を津波が易々と越えて街が全壊半壊になった光景。後片づけの合間に人びとは最悪の瞬間を思い出すらしく、呆然とする姿が目に焼き付いています。



4月26日、地震から46日経った宮城県に行きました。ガソリンが最大の問題でしたが、現地での給油も何とかなるという話で出発しました。



4月の宮城県は東松島市、南三陸町、石巻市を訪れて一夜の宿を気仙沼の民宿に無理矢理お願いしました。この宿は少し高台にあって、気仙沼の民宿30数軒はすべて流されたにもかかわらず生きのびた宿です。そのときももちろん電気水道は止まっていました。発電機で灯した光の下でご夫婦は、問わず語りに地震につづく津波の話をしてくれました。灯火ひとつない暗闇を走って宿に着いたので、明くる日の窓からの気仙沼の景色には息をのんだのを覚えています。天気も悪かったけれど、ただ灰色の世界が広がっていて生活の音のない、波の音しかしない不気味さでした。


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5月10日~12日、高校の写真部でカメラ機材が津波で流されたり使用不能になったという学校に、毎年夏に写真甲子園という催しをおこなっている北海道東川町とキヤノンの協力で、カメラその他を手渡しに行きました。事前に連絡がつき状況のわかった学校6校はすべて宮城県内の高校でした。



その後の東北行も宿泊がなかなか難しく、仙台や盛岡を基点にして被災地との往復を強いられました。復興に携わる方たちに宿は優先されなければならないでしょう。



5月28日~29日 宮城県仙台市(東北元気祭り)、仙台空港、閖上町 ほか

6月24日~26日 宮城県亘理町、南町、山元町、石巻市

8月3日 福島県相馬市

8月25日~27日 岩手県宮古市田老、陸前高田市

と気がつけば足繋く東北を訪ねています。

立木義浩|Yoshihiro TATSUKI

写真家 立木義浩が被災地で写したもの

自身の震災体験

──立木さんは災害のたびに被災地に行かれているようですが。



私の災害初体験は自然現象ではなく人為的な戦争によるものです。疎開先の田舎で山の向こうが赤い炎に包まれているのが空襲だったことを目で見て知ったのは、戦後徳島の町に建てた粗末なバラックに帰ったときでした。一面焼け野原で何もなかった。徳島駅から蒸気機関車が2駅ぶんも通り過ぎて行くのが見えたほど、家もなければひともいなかった。小学二年生のときでした。焼け野原になった徳島の町を近くの山、眉山から祖父と父が、徳島の町をパノラマ撮影しているのは貴重な記録になっています。



1946年の暮れに自然の驚異、南海地震に見舞われました。少年のころの震度5は天地が裂けるくらいの恐しさで、余震に右往左往するのを落ち着かせようと父親が、どこでも庭と言える焼け跡で焚火をしながら、大正12年の関東大震災がいかに無残で悲惨であったかを話し、この地震程度なら大したことにはならないと言う。大通りを見ると海の方角から山のほうへ逃げているひともいたくらいだから、みんな浮足立っていたのに……。


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橋の下をたくさんの水が流れて1995年に阪神淡路大震災が起きました。高校時代に徳島から小さな船に揺られて映画『エデンの東』を見に行った思い出の地がテレビで無残な姿を晒しているのを見て、なぜか自分の眼で確めたくなり出かけました。当時体調もすぐれず家族の反対を押し切ってのことでした。



大阪駅前のホテルで一泊して、神戸まで40kmの距離を歩くのは到底無理なので深く考えもせず大阪の八尾からヘリコプターで神戸に入ったのは地震から2週間後でした。あとでヘリの請求書に驚いたのは言うまでもありませんが、火事による被害と地震によるものがはっきり別れていたのと、無数のブルーシートが屋根を被っていたのに驚きました。神戸に入って乗ったタクシーの運転手の言葉が忘れられません。「揺れた、揺れたねぇ、怒ってるように揺れた!」


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その後毎年M6以上地震がどこかで起っているが2002年と2006年は比較的大きな地震は起っていません。そして2011年3月11日にM9の大地震、大津波。これは千年に一度と言われなくても大抵のひとなら人生観がガラリと変ったにちがいないし、世のなかの反応は自粛ムードではなく、自粛そのものでした。仕事上のドタキャンが多いのには参りました。そんなことより本当に驚いたのは、各企業のパーツのほとんどが東北で作られていたこと。クルマ業界、カメラ業界、ビール業界などが完成品を世に送り出すことができなかったのだから。



それにしても罹災した人びとが、絶望の淵にあっても日常を丁寧に営みつづける強さと、日本中から何か役に立てないものかと東北に集まるボランティアがすばらしい。ただ先行きの長い話なので、これからが正念場だと思います。



放射線をふくめた「待ったなしの現実」はメディアに頼らず、本物の現場、被災地を自分の五感を使って見なければ、眼が無知の傲慢をおこすから要注意です。何時もこのことを考えていれば忘れることはありません。人間にとって忘れられること、無視されることほど辛い思いはほかにないでしょう。

立木義浩|Yoshihiro TATSUKI

写真家 立木義浩が被災地で写したもの

この苦難を乗りこえるために

──いま多くの人びとが巨大な喪失の前に虚無感を抱いていると思います。そのような状況のなかで、わたしたちにできることはどのようなことだとお考えでしょうか?



このタイトルの最初の写真(9月11日アップしたもの)は石巻市中瀬公園にある自由の女神です。本家はニューヨーク湾にあるリバティ島にいて、10年前の2001年9月11日にワールドトレードセンターが航空機を使った前代未聞のテロに遭うのを凝視していたでしょう。自由と民主主義の象徴が人間と人間の醜い争いを見せつけられ、その後に負の憎しみの連鎖がはじまり、諍いはいつ終わるのやらと思っていました。9.11の10年後3.11に東日本大震災発生。おなじ11日なのが不気味です。怒りや憎しみをぶつける相手がない自然災害にしろ、あまりにも多くの人命が奪われた最大の哀しみは、家族を失ったことに尽きます。精神的な痛手や心の傷を癒す方法を見つけなくてはなりません。そのためにも仕事が必要だし笑顔がほしいのです。



庶民の知恵の「泣くの嫌さに笑って候」だけではすまされません。明日は我が身の我われも、時間が許すかぎり被災地を訪れるのがいいです。ボランティアの継続はこれからもっと必要だと思うけれど、観光でもグルメの旅でもいいのですから東北の人びとと触れ合うことを薦めます。人間は何を信じるのか、それはひととひとの結びつき・絆・関係で「心の繋がりを求める」のですね。


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このことは人類とともに歩んできたスタンダードです。決してオールドにならない大切な伝統だと思います。手は生産的に、足は消費的に。



東北の復興にみんなの力を……。



──では、このようなときに、写真がもつ力とはどのようなものでしょうか?



震災後いち早くメディアが競って連日被災地の状況を報道したのは、現地情報を精しく知りたい、縁故のある人びとをはじめ、日本中すべてのひとが知りたかったことなのでじつにありがたいことでした。ただひとつ、溢れる情報を主体的、批判的に読みこなす読解能力をもちたいものです。



そんな被災地をいろんなひとが撮影して、大きな意味で記録として残すことはじつに頼もしく、意義のあることだと思います。プロであろうとアマチュアであろうと、外の人間であろうと、被災地に住むひとであろうと、折々に事物、そして人びとを、生活の営みのなかでの写真を撮ってほしいのです。


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動くメディアの発達でそちらのほうに目を奪われがちですが、スチール写真の底力を認識しなくてはなりません。止まっている写真だからこそその前後を思いやったり想像したりできるのです。被災地に立って、シャッターを押すときに言葉に余る何かを感情や感覚、そして生活を尊重した考え方で写しとめようとしているのです。



単純明快にいえば、酸鼻を極めた悲惨や痛ましさのなかに向こう見ずの勇気や健気に立ち向かうようす、驚くようなユーモアがあって、必ず明日は来るってことを、写真を深く辿って感じてほしいと切に望みます。でもそれはカメラマンのエゴなので、気にすることはありません。



写真にかんして撮った本人が言うことは眉唾です。写真は気に入れば、その写真の前でしばしたたずめばいいし、嫌なら立ち去ればいいだけです。自由に楽しむのがよろしい。

           
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