Diary-T 235 I've come to talk with you again
数日前にyoutubeで
偶然この曲に出会いなんだかとても今を感じた。
after311以降、色々なことが起こっているが、
なにも起こっていないように過ごしている自分も周りも怖い。
どうせなにも変わらないなにもできるはずがないという無力感がこの国を覆っている。
たぶん、巨大メディアの報道のあり方がこうした空気感を蔓延させているのだろう。
すっかり日常に浸透しているSNS,twitterやfacebookも、
そこで生まれる自分好みのサークル?ソサエティー?
のなかで感じるものも、「自分好み」の、と記したように、
世界の真実と繋がるというよりは、世界の真実を閉ざす方向に向かっているように思えなくもない。
特にクリエーター思考の日本人は村社会を嫌っていると思っていたが、もしかしたら私は勘違いしていたのかもしれない。気のせいかもしれないが、辺をよ~く見回すと、わざわざ自分から自分好みの村社会を形成しているとしか思えないのだ。自分好みは、好み以外を排除する方向を含んでいるので、新しい出会いというよりはこれまで通りの世界を守ることに繋がってしまう。私は来るものは拒まずでリクエストにはよほどのことがない限り承認しているが知らない人がほとんどなので、書き込みを見る瞬間にピンとこなければ反応のしようがないのでなかなか新しい出会いがない。twitterの方がまだ私の場合は新たな出会いがあった。もちろんそこには私が運営しているPIRATE RADIOという番組が介在しているという特殊性もあるかもしれない。番組に集合する人たちとその夜のテーマ(選曲)を共有するという特殊性だ。この番組を好きで聞いてくれているという喜びから始まり新しくそこで出会う人たちとの関係性を見出せることの楽しさがある。誰々さんと友達という見かけだけの関係よりは少し意味があると今のところ私はそう思っている。きっともっと上手なfacebookの使い方があるのだろうがいまのところ私にはそのすべがない。
ところで最近こんなことがあった。
私は現在mediaclubkingというネットワークを管理しているが、その管理を手伝ってくれる人を募集した。現在も募集しているが。で、応募してくれたのはラジオを聞いてくれている音楽愛好家の方だった。面接でメディアの管理の大変さをお伝えしたつもりだったが、作られたイメージと、現実とのギャップに戸惑われたようで、短期でエスケイプされた。良きイメージを生み出すには尋常ではない努力と技術と経験が必要だ。良きイメージに憧れを持つ受け手に起りやすい悲劇だ。自分自身の能力?を客観的に見る知る能力が備わっていないと夢と希望は一瞬にして被害者になる。これは面接時にどんなに口を酸っぱくして申し上げても伝わった試しがない。
熱い熱意を受け入れようとすればするほど起こる悲劇なのだ。
簡単な仕事も、自分に合った(ぴったり)仕事も、
基本的にはこの世にない。
簡単に見える仕事ほど奥が深くどこまでもつづく闇に向かうことになる。自分にぴったりの仕事を探し続ける人は残念ながらその仕事に出会うことは永遠にないだろう。
私にぴったりの仕事ですといって明朗に活躍されている方は、その仕事に自分が合わせた結果いつの間にか自分が一番やりたい仕事になったのだと思う。どこかにあるのではなく。自分で作り出す以外に自分にぴったりはない。
私が言うとまったく説得力はないが、
これは結婚も恋愛も友情も愛情もすべてそうではないだろうか。
しかも私自身もまだその渦中にいるのでそう自分言い聞かせているのだ。
で、ショーン・ペンが主役の映画、「きっと ここが帰る場所」デビッド・バーンの名曲THIS MUST BE THE PLACEもある意味同じテーマだから必見ですよ。
いくつになっても子供のまま。私も含め特にこの国にはどうもそんなひとが多いらしい。
で、いまだに私は私の仕事を手伝ってくれる人を待ち望んでいる。よかったら、話に来ませんか?