Diary-T 207 ナンダ、コンナ山、
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2015年4月15日

Diary-T 207 ナンダ、コンナ山、

Diary-T

Diary-T 207 ナンダ、コンナ山、

文・アートワーク=桑原茂一

「しゅっしゅっ」
機関車の音。
なぜ私たちは機関車の音を真似するのか?
「機関車を見ながら」
今更ながら、小説家、芥川龍之介に深く感じ入っている。
勝手に少しcut upしてみた。
すなわち喜劇は第三者の同情を通過しない悲劇である。
…大人たちの機関車は言葉通りの機関車ではない。
しかしそれぞれ突進し、しかも軌道の上を走ることもやはり機関車とおなじことである。
この軌道はあるいは金銭であり、あるいはまた名誉であり、
最後にあるいは女人であろう。

我々は子供と大人とを問わず、我々の自由に突進したい欲望を持ち、その欲望を持つところにおのずから自由を失っている。…しかしこういう要求は太古以来我々のうちに潜んでいる。…

我々はどこまでも突進したい欲望を持ち、同時にまた軌道を走っている。この矛盾はいいかげんに見のがすことはできない。

我々の悲劇と呼ぶものは正にそこに発生している。
マクベスはもちろん小春治兵衛もやはりついに機関車である。

小春治兵衛はマクベスのように強い性格を持っていないかもしれない。しかし彼らの恋愛のためにやはりがむしゃらに突進している。(紅毛人たちの悲劇論はここでは不幸にも通用しない。悲劇を作るものは人生である。美学者の作るわけではない)

この悲劇を第三者の目に移せば、あらゆる動機のはっきりしないために(あらゆる動機のはっきりすることは悲劇中の人物にも望めないかもしれない)ただいたずらに突進し、いたずらに停止、ーーーあるいは顛覆するのを見るだけである。

したがって喜劇になってしまう。
すなわち喜劇は第三者の同情を通過しない悲劇である。
畢竟我々は大小を問わず、いずれも機関車に変わりない。
…一時代の一国の社会や我々の祖先はそれらの機関車にどのくらい歯どめをかけるであろう?
わたしはそこに歯どめを感じるとともにエンジンを、
ー石炭を、ー燃え上がる火を感じないわけにもゆかないのである。我々は我々自身ではない。
実はやはり機関車のように長い歴史を重ねてきたものである。
のみならず無数のピストンや歯車の集まっているものである。

しかも我々を走らせる軌道は、機関車にはわかっていないように我々自身にもわかっていない。我々自身にもわかっていない。我々自身にもわかっていない。我々自身にもわかっていない。我々自身にもわかっていない。我々自身にもわかっていない。我々自身にもわかっていない。我々自身にもわかっていない。我々自身にもわかっていない。

途中略

もし機関手さえしっかりしていれば、
ーそれさえ機関車の自由にはならない。
ある機関手をある機関車へ乗らせるのは
気まぐれな神々の意思によるのである。

途中略

我々はいずれも機関車である。
我々の仕事は空の中に煙や火花を投げあげるほかはない。

途中略

宗教家、芸術家、社会運動家、ーあらゆる機関車は彼らの軌道により、必然にどこかへ突進しなければならなぬ。
もっと早く、ーそのほかに彼らのすることはない。
もっと早く、ーそのほかに彼らのすることはない。
もっと早く、ーそのほかに彼らのすることはない。

途中略

斉藤緑雨は箱根の山を越える機関車の
「ナンダ、コンナ山、ナンダ、コンナ山、」
と叫ぶことを記している。しかし碓氷峠を下る機関車はさらに歓びに満ちているのであろう。
彼はいつも軽快に
「タカポコ高崎タカポコ高崎」
と歌っているのである。
前者を悲劇的機関車とすれば
後者は喜劇的機関車かもしれない。

(昭和二年七月)

ナンダ、コンナ山、ナンダ、コンナ山、ナンダ、コンナ山、ナンダ、コンナ山、ナンダ、コンナ山、ナンダ、コンナ山、ナンダ、コンナ山、ナンダ、コンナ山、ナンダ、コンナ山、ナンダ、コンナ山、ナンダ、コンナ山、ナンダ、コンナ山、ナンダ、コンナ山、ナンダ、コンナ山、ナンダ、コンナ山、ナンダ、コンナ山、ナンダ、コンナ山、ナンダ、コンナ山、ナンダ、コンナ山、ナンダ、コンナ山、

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